静かに、ねぇ、静かに

本谷有希子

1400円

SNSに居場所を 求める人々

瀧井朝世

 芥川賞受賞作『異類婚姻譚』以来となる本谷有希子の新刊『静かに、ねぇ、静かに』は、「群像」に同名の表題で三篇が一挙掲載されたオムニバス的な作品集だ。レイモンド・カーヴァーの短篇集のタイトル『頼むから静かにしてくれ』を連想してしまうが、研ぎ澄まされ、リアリズムに基づいていながらも寓話的、どこか不穏さが漂うという点では共通しているともいえる(『頼むから~』収録の「でぶ」という短篇と同様、本作の「でぶのハッピーバースデー」にもレストランで働く女性が登場するなど、何か触発されるものがあったのでは、と思わせる)。

 三篇はどれもSNSや通販サイトなど、今時のネット文化に生活を侵略された、あるいはされそうになっている人たちの話だ。

「本当の旅」では、仲良し三人の男女のマレーシア旅行の行程が描かれる。空港に集まる際のノリから若者かと思わせておいて、後から彼らが四十歳前後だと明かして読者をドキリとさせるあたりが心憎い。語り手となるハネケンは助成金をもらい過疎村の空家に暮らし、農業とWEBデザインの兼業で細々と暮らしている。昔から憧れているづっちんに誘われ、〈価値観が揺らぐようなカルチャーショック〉を期待してクアラルンプールにやってきたものの、思いのほか都会的な光景に落胆した様子。しかしづっちんがグループラインにアップする色彩あふれる写真を見て感心し、世界の見方を教えてくれる、と素直に感動している。そう、彼らは移動中も写真を撮ってはグループラインにアップし、ホテルに到着すればすぐスマホを充電、一緒にいてもそれぞれ黙々とスマホをいじり続けているのだ。

 目の前にあるものも直視せずにスマホを通して眺め、物事を深く考えずに楽観的に解釈しているように見える彼らは、眼前で不都合が起きても、それを受け流そうとする。ネガティブなことを口にしたくないからだ。彼らが自分の恥や失敗を認めるのは、それを動画で撮ってSNSにアップして、他人事のように笑うことができたときだけだ。

 彼らの他者の都合を考慮しない、独りよがりな自己肯定感は非常に危うく見えるが、「愚かだ」と冷笑できないのは、今SNS上で見ている人々の姿勢が、限りなく彼らに近いと感じるからだ。自分に都合のよい情報しか受け入れず、不都合なことは独自の前向きな解釈をし、そして自分たちは優れていると思いたがっている。

 もちろん、SNSの楽しさを否定する気はまったくない。ただ、SNSでは独善的な居心地のいい空間を作ろうと思えば可能でも、現実は思い通りにいかない。実際に危機に直面した時にはブロックすることも、既読スルーすることもできるわけがない。ハネケンたちも予想外の出来事に遭遇するが、彼らの言動には、そうした状況下での人間の滑稽さを、かなり辛辣な展開で見せつけられる思い。馬鹿にして笑いたいけれど、自分にも、自分の周囲にも、ハネケンたちと同じ要素はあるのではないかと、どこか後ろめたく感じさせられるのだ。

「奥さん、犬は大丈夫だよね?」は、親しくもない夫の同僚の夫婦と、四人と犬一匹でキャンピングカーで旅に出ることになった〈私〉が主人公。旅といっても、少し遠出して道の駅の駐車場に車を停めて宿泊するといった程度のもの。夫婦は倹約家で工夫が好きだが、〈私〉はマイペースで自分たちに満足しきっている彼らにすぐには馴染めない。実は〈私〉はネットショッピング依存症で、夫はなんとかそれを止めさせようとしているところ。しかし出発の朝もネットで買い物したことが判明し、旅の途中だというのに夫は怒りだす……。その後、事実は明記されないが、おぞましい出来事が起きたと読者は想像できてしまう。

「でぶのハッピーバースデー」は二人ともが勤めていた会社が倒産し、ともに失業した夫婦の話だ。夫は妻を「でぶ」と呼び、自分たちがうまくいかないのは彼女の歯並びの悪さが原因であり、その「印」を消すために歯科医での治療を彼女に勧める。最初は承服しなかった妻だが、ステーキレストランの職を得て生活が好転していくうちに気分が変わり、歯列矯正のために右側の歯を四本抜くのだが、その後高熱を出して仕事を数日間休むはめになってしまって気持ちが萎え、歯科医への通院を止めてしまう。そのため、右側だけ歯の少ない妻の顔は次第にバランスを失っていく。紆余曲折を経たのち、夫が提案するのは、自分たちの「印」をネット上で発信しよう、というもの。状況は苦しく、夫婦互いに勝手な面はあるが、彼らの間にだけ存在する強固な愛情が感じられ、そこに救われる。

 ネット上に自分たちの居場所を見つけたい人々を描いた三篇。しかしタイトルからは、自分に不都合な言葉は聞きたくない、だから黙っていてくれ、そう願っているような、主人公たちの無意識下の切実な声が聞こえてくるようでもある。そんな彼らを非常に冷静に、その細部の脆さも逃さずとらえて言葉に落とし込む、著者の筆の確かさが光っている。そこに、著者の大きな変化を感じるのも確かだ。

 初期の頃からずっと、本谷有希子が描いてきたのは尋常でないほど自意識過剰で傍から見ていると痛々しく感じるような人間だった。それは今も同じである。ただ、以前は作者自身の内部に潜む自意識を自覚的に掬い上げてさらけ出しているような生々しさがあったが、ここ最近(『自分を好きになる方法』あたり)から、他人の中に潜む、当人は無自覚な自意識を手加減することなく暴く、という手法に変化してきている。だからこそ面白く、だからこそ怖くもある。己の内側を目をそらさずに直視し続けてきた作家が、他者の内側への鋭利な視点を獲得してしまったら、今後、どれほど恐ろしいことを書いてのけてしまうのだろう。いつか自分自身が打ちのめされそうで恐ろしいが、その一方で、怖いもの見たさの強い好奇心も湧き上がるのだ。

本書は二つの中篇小説を収める。表題作の「蹴爪」と「クイーンズ・ロード・フィールド」。おそらくフィリピンの、ある小さな島で繰り広げられる闘鶏を生業とする父親と、その二人の息子の確執を描いた魅力的な小説「蹴爪」については、ここではあえて触れない。この小説に書かれている、主人公ベニグノらが作る子どもたちの共同体(暴力が支配する)は、著者・水原涼の、現在まで続くリアルな主題だと思うが、別の機会に。ここでは「クイーンズ・ロード・フィールド」を取り上げる。なぜか。サッカー小説だからである。そして、評者が大のサッカー好きだという以上に、この小説はサッカーを介して、世界に触れているからでもある。
 今年はワールドカップの年だった。ベスト16での、日本代表のベルギー相手の惜敗を覚えている人もまだたくさんいるだろう。日本代表が帰国した直後、日本サッカー協会の幹部からは、サッカーを文化にしたいといった趣旨の発言があった。私はその言葉を耳にして、彼らの意図とはまったく別のことを考えた。水原涼や津村記久子の小説がもっと広く読まれれば、「サッカー文化」とやらも裾野をひろげることができるだろうに、と。
「クイーンズ・ロード・フィールド」の舞台は、スコットランドの田舎町。「ケルト人が作ったとかいう古い城の形骸だけが誇りの田舎町」と作中にある。主な登場人物は四人。語り手の「ぼく」(クレイグ)と、ロベルト、アシュリー、そして紅一点のモリー。「ぼく」たちは十三歳のときに出会った。そのころ、「ぼく」とアシュリーはバンドを組んでいて、ロベルトはイタリア人のような名前に悩みながらも、サッカーに打ち込んでいた。モリーは赤ん坊のころに足を切断してしまった妹ジャスミンの面倒をみながら、恋人をとっかえひっかえしていた。
 主人公たちが生きているのは、出会いからすでに二十六年の時間が経過した現在。「ぼく」はモリーと結婚し、アリスという娘もいる。ロベルトもアシュリーも健在。みんな三十九歳になっている。むろん小さくない不幸は、主にクレイグの周辺で起こるのだが、そのあたりは小説を読んでもらおう。物語は、十三歳で出会った彼らがどんな成長を遂げて現在まで生きて来たかを、幾つかのエピソードを点描しながら進む。そのとき、中心に坐っているのがサッカーだ。すなわち彼らの町のクラブ、「キャッスル・カルドニアン・FC」である。略して「カルドニアン」と呼ばれるクラブは、スコットランド・リーグの三部。毎年、残留争いを演じてはしぶとく生き残る。みんなはそれぞれ温度差がありつつも、カルドニアンを愛している。サポーターの中心人物になったり、スタジアムには行かないけれどテレビ観戦だけは欠かさなかったり……。そんななか、彼らは事件を起こす。アシュリーはクラブで唯一の黒人選手に向かって、バナナを投げ入れてしまう。モリーは、人のいなくなったスタジアムに入り込み、照明に攀じ登った挙句、そこに「asshole」とリップで落書きする。ロベルトは試合中、全裸になってフィールドを突っ走ってしまう。
 じゃ、「ぼく」であるクレイグは? どんな爪痕をカルドニアンのスタジアムに残すことができるのか? ここが小説の肝なので、これ以上は言葉を慎むのが礼儀だろう(ラストシーンでこの「爪痕」は明かされる……)。
 事件の中で、私が注目したいのは、アシュリーがクラブの右サイドバック、ブランドンに向かってバナナを投げ入れたこと。スコットランドの北の港町で、アシュリーとブランドンはたった二人しかいない若い黒人だった。ではなぜアシュリーはブランドンに向かってバナナを投げたのか? それが人種差別行為だと十分にわかっていたのに? 小説の中で、アシュリーはその理由を語る。アシュリーの事件以前に、ブラジル代表の黒人選手にもバナナが投げ入れられたことがあった。スペインでの試合。だがその選手は何事でもないようにバナナを拾い上げて食べ、栄養補給でもしたかのようにプレーを再開した。そのことが契機となり、世界中でサッカー界の人種差別に抗するべく、バナナを食べる行為が拡散した。だから、ブランドンにも食べて欲しかったのだ、と。
 小説を少し離れるならば、この事件は事実だ。2014年4月、スペインの名門クラブ、FCバルセロナに所属するブラジル代表選手・ダニエウ・アウベスがコーナーキックを蹴ろうとしたとき、バナナが投げ込まれ、彼は何食わぬ顔をしてそれを拾い上げて食べ、ボールを蹴った。その行為が人種差別に抗議するユーモアとして世界中に拡散したのだ。水原はそのことを踏まえている。
 アシュリーの行為は倒錯している。ピッチ上の黒人選手に対してバナナを投げ入れる行為そのものが明白な人種差別行為にあたる。だからユーモアで抗すべくバナナを食べて欲しくてバナナを投げ入れる彼の行為は、どれほど無邪気であろうと処罰される。じっさい小説の中で、アシュリーはスタジアムに出入り禁止になる。現実問題として、黒人選手に向けて、黒人サポーターがバナナを投げることはあり得ない。だが、だからこそ小説に書いてみたのだ、とも考えられる。つまり、フィクションでしか書けないこととして、アシュリーはバナナを投げたのではないか。
 それと、もう一つ、カルドニアンはつねに三部に低迷するクラブだが、入れ替え戦で負けたことがないのが自慢だ。小説は終盤で、最終節の試合を取り上げるが、それは、今年の収穫、津村記久子『ディス・イズ・ザ・デイ』を思わせる。津村作品でも、最終節が主な舞台として選ばれているのだ。私が言いたいのは、サッカー小説の名作は洋の東西を問わない、ということ。そして水原の小説に興味をそそられ、スコットランド・サッカーに踏み込みたいとお考えの向きには、小笠原博毅の『セルティック・ファンダム』をそっと差し出したい、ということである。
(講談社刊・税別定価一七〇〇円)本書は二つの中篇小説を収める。表題作の「蹴爪」と「クイーンズ・ロード・フィールド」。おそらくフィリピンの、ある小さな島で繰り広げられる闘鶏を生業とする父親と、その二人の息子の確執を描いた魅力的な小説「蹴爪」については、ここではあえて触れない。この小説に書かれている、主人公ベニグノらが作る子どもたちの共同体(暴力が支配する)は、著者・水原涼の、現在まで続くリアルな主題だと思うが、別の機会に。ここでは「クイーンズ・ロード・フィールド」を取り上げる。なぜか。サッカー小説だからである。そして、評者が大のサッカー好きだという以上に、この小説はサッカーを介して、世界に触れているからでもある。 今年はワールドカップの年だった。ベスト16での、日本代表のベルギー相手の惜敗を覚えている人もまだたくさんいるだろう。日本代表が帰国した直後、日本サッカー協会の幹部からは、サッカーを文化にしたいといった趣旨の発言があった。私はその言葉を耳にして、彼らの意図とはまったく別のことを考えた。水原涼や津村記久子の小説がもっと広く読まれれば、「サッカー文化」とやらも裾野をひろげることができるだろうに、と。「クイーンズ・ロード・フィールド」の舞台は、スコットランドの田舎町。「ケルト人が作ったとかいう古い城の形骸だけが誇りの田舎町」と作中にある。主な登場人物は四人。語り手の「ぼく」(クレイグ)と、ロベルト、アシュリー、そして紅一点のモリー。「ぼく」たちは十三歳のときに出会った。そのころ、「ぼく」とアシュリーはバンドを組んでいて、ロベルトはイタリア人のような名前に悩みながらも、サッカーに打ち込んでいた。モリーは赤ん坊のころに足を切断してしまった妹ジャスミンの面倒をみながら、恋人をとっかえひっかえしていた。 主人公たちが生きているのは、出会いからすでに二十六年の時間が経過した現在。「ぼく」はモリーと結婚し、アリスという娘もいる。ロベルトもアシュリーも健在。みんな三十九歳になっている。むろん小さくない不幸は、主にクレイグの周辺で起こるのだが、そのあたりは小説を読んでもらおう。物語は、十三歳で出会った彼らがどんな成長を遂げて現在まで生きて来たかを、幾つかのエピソードを点描しながら進む。そのとき、中心に坐っているのがサッカーだ。すなわち彼らの町のクラブ、「キャッスル・カルドニアン・FC」である。略して「カルドニアン」と呼ばれるクラブは、スコットランド・リーグの三部。毎年、残留争いを演じてはしぶとく生き残る。みんなはそれぞれ温度差がありつつも、カルドニアンを愛している。サポーターの中心人物になったり、スタジアムには行かないけれどテレビ観戦だけは欠かさなかったり……。そんななか、彼らは事件を起こす。アシュリーはクラブで唯一の黒人選手に向かって、バナナを投げ入れてしまう。モリーは、人のいなくなったスタジアムに入り込み、照明に攀じ登った挙句、そこに「asshole」とリップで落書きする。ロベルトは試合中、全裸になってフィールドを突っ走ってしまう。 じゃ、「ぼく」であるクレイグは? どんな爪痕をカルドニアンのスタジアムに残すことができるのか? ここが小説の肝なので、これ以上は言葉を慎むのが礼儀だろう(ラストシーンでこの「爪痕」は明かされる……)。 事件の中で、私が注目したいのは、アシュリーがクラブの右サイドバック、ブランドンに向かってバナナを投げ入れたこと。スコットランドの北の港町で、アシュリーとブランドンはたった二人しかいない若い黒人だった。ではなぜアシュリーはブランドンに向かってバナナを投げたのか? それが人種差別行為だと十分にわかっていたのに? 小説の中で、アシュリーはその理由を語る。アシュリーの事件以前に、ブラジル代表の黒人選手にもバナナが投げ入れられたことがあった。スペインでの試合。だがその選手は何事でもないようにバナナを拾い上げて食べ、栄養補給でもしたかのようにプレーを再開した。そのことが契機となり、世界中でサッカー界の人種差別に抗するべく、バナナを食べる行為が拡散した。だから、ブランドンにも食べて欲しかったのだ、と。 小説を少し離れるならば、この事件は事実だ。2014年4月、スペインの名門クラブ、FCバルセロナに所属するブラジル代表選手・ダニエウ・アウベスがコーナーキックを蹴ろうとしたとき、バナナが投げ込まれ、彼は何食わぬ顔をしてそれを拾い上げて食べ、ボールを蹴った。その行為が人種差別に抗議するユーモアとして世界中に拡散したのだ。水原はそのことを踏まえている。 アシュリーの行為は倒錯している。ピッチ上の黒人選手に対してバナナを投げ入れる行為そのものが明白な人種差別行為にあたる。だからユーモアで抗すべくバナナを食べて欲しくてバナナを投げ入れる彼の行為は、どれほど無邪気であろうと処罰される。じっさい小説の中で、アシュリーはスタジアムに出入り禁止になる。現実問題として、黒人選手に向けて、黒人サポーターがバナナを投げることはあり得ない。だが、だからこそ小説に書いてみたのだ、とも考えられる。つまり、フィクションでしか書けないこととして、アシュリーはバナナを投げたのではないか。 それと、もう一つ、カルドニアンはつねに三部に低迷するクラブだが、入れ替え戦で負けたことがないのが自慢だ。小説は終盤で、最終節の試合を取り上げるが、それは、今年の収穫、津村記久子『ディス・イズ・ザ・デイ』を思わせる。津村作品でも、最終節が主な舞台として選ばれているのだ。私が言いたいのは、サッカー小説の名作は洋の東西を問わない、ということ。そして水原の小説に興味をそそられ、スコットランド・サッカーに踏み込みたいとお考えの向きには、小笠原博毅の『セルティック・ファンダム』をそっと差し出したい、ということである。(講談社刊・税別定価一七〇〇円)