猫のエルは

町田 康 絵・ヒグチユウコ

1800円

読み終えた人が見に行くものは

井上荒野

 最初の一編「諧和会議」では、人語を喋れるようになった動物たちの世界が描かれる。人類は、どうやらしばらく前に絶滅したらしい。この日の議題は「猫君の暴虐に関しての対策案について」。議長の蛙に指名された馬が最初に発言するのだが、この演説がひどい。くどくどしくて何を言っているのかわからない。誰かの演説に似ているなと思いながら読む。漢字を間違えて読んだりする人だ。とすれば、これは寓話なのかもしれない。

 人語を駆使して平和に暮らそうとする動物たちの中で、猫だけが発語しない。猫は言葉がわかっていないのか、それともわかっているのにあえて発せず、得手勝手をしているのか。それをたしかめるために猿、柴犬、ドーベルマンが猫の元に派遣されるが、ことごとく失敗する。途方にくれる動物たちの頭上、高い木の枝の上に、一匹の猫がいる。そして猫の口からは│。これは寓話である前に、言葉の話であるのかもしれない。

 収録されている五編のすべてに、猫が登場する。著者自身が猫を飼い、飼い猫との日々を綴ったエッセイを何冊も上梓している。猫を愛する人に違いないが、猫への愛、というよりは猫への関心によって綴られた本というのが正しく思える。関心の中にはもちろん愛が含まれているとしても。著者は猫のことがとても不思議なのだと思う。不思議に思って、じっと眺めて、そうして生まれた五つの物語なのではないか。

 私も猫を飼っていて、猫を愛する者であるから、ヒグチユウコが描く猫の絵はもちろん、本書にちりばめられた、猫の様子をあらわす、この著者ならではの表現に過剰反応せざるを得ない。子猫たちを子猫たちと書かず、ただ「フワフワ」と書くとか、そのフワフワが「人の腹を後ろ足でゲムゲムするなどしていた」とか。町田康の文章を読むと、おかしな話だけれど私はいつもファッション誌のことを考えてしまう。ファッション誌では流行のスタイルが提案され、それをいかにこなれた感じに着こなすか、その「外し」方がレクチャーされている。けれどもレクチャーされた時点でそれは直球になってしまうから、その通りに服を着てもちっとも格好良くないのだ(と私は思う)。町田康の言葉の選び方は、いつでも「外れ」ているのだが、どうして格好いいのだろう、それはその外し方が、圧倒的なボキャブラリーに支えられていて、それなのに即興で、そのうえ必然としか思えないからだろうか。そのようにして言葉が使われる文体で、猫のことが書かれているのだから、私にとっては、それこそ「人の腹を後ろ足でゲムゲム」したいような(つまり興奮して、その興奮を世界中に訴えたいような)心地の読書体験となってしまう。

 とはいえ本書は、猫にさして関心がない人たちが読んでもいいはずだ。そういう人たちはどのように読むのだろう。ゲムゲムに反応はしないかもしれないが、考えるだろう。猫というよりは生きもののことを。そしてその生きものの中には、人間も含まれている。というか彼らは、人間のことを考えるだろう。私にしても、猫のことを考えているつもりで気がつくと人間のことを考えている。

 あるひとつの意識が体を変えたり、立場を変えたりする物語が、本書には三つ含まれている。「猫とねずみのともぐらし」は、猫がねずみに、ねずみが猫になってしまう。「ココア」は、泥酔して意識を失った男(人間)が目を覚ますと、猫と人間の立場が逆転した世界になっている。「とりあえずこのままいこう」は、死んだ犬が天国のようなところへ行ったあと、子猫となって地上に戻され、元の飼い主に巡り会う。

 それで、私はまず、うちの猫たちのことを考える。うちには十九歳の猫と十七歳の猫がいる。どうしてここにいるのだろう、とときどき思う。ベッドの上やダイニングの椅子の上に、ということではなくて、どうしてこの猫は私のそばにいるのだろう、という不思議さだ。もちろん猫が家に来たときの経緯ははっきりしている。十九歳のほうはまだ目が開いたばかりの子猫の頃、最初に住んだアパートの前で鳴いていたのを拾ったのだし、もう一匹はその少しあとに、友だちの子供が拾った子猫を譲り受けたのだ。どちらも偶然で、その偶然が、私と私の猫たちに起きたことが不思議になる。保護猫を引き取ったり、あるいは通りがかりのペットショップで目に留まった一匹を買い求めたという経緯であったとしても、きっと不思議になると思う。その一匹と自分が出会った不思議。そして次には自分のことを考える。自分はどうしてここにいるのだろうと。猫がここにいる不思議さと同じ道筋で考えて、やっぱり不思議になるのである。

 表題作「猫のエルは」は詩で、こんなふうにはじまる。「私の家には猫はいない/猫はいないがエルがいる/エルは猫である/猫ではあるがそれ以前にエルである」私はこの詩を何度でも読んでしまう。あるいは「とりあえずこのままいこう」の中に、子猫に生まれ変わった犬の、こんな感慨がある。「もしかしたら俺は霊魂のままなのではないか。(中略)でもいいじゃないか。ドンドンパンパンドンパンパンで行こうじゃないか。霊魂だって猫だって。俺はかつて家の人が好きだった。大分忘れたけど好きだった。そしてこの後、それも忘れてしまうかも知れない。でもいいじゃないか。いまはまだ覚えているし、思い出すことができる。いまは一緒に居ることができている。それでいいではないか。だから俺は、とりあえずこのままいこう。」

 最終的に私はこの考えに同意して、それからうちの猫を見に行く。どうしてもそうしたくなる。猫を飼っていない人はどうするだろう。好きな人の顔を見たいと思うかもしれない。一緒に暮らしている人がいるなら、その人を見に行くかもしれない。鏡で自分の顔を見る人もいるかもしれない。

本書は二つの中篇小説を収める。表題作の「蹴爪」と「クイーンズ・ロード・フィールド」。おそらくフィリピンの、ある小さな島で繰り広げられる闘鶏を生業とする父親と、その二人の息子の確執を描いた魅力的な小説「蹴爪」については、ここではあえて触れない。この小説に書かれている、主人公ベニグノらが作る子どもたちの共同体(暴力が支配する)は、著者・水原涼の、現在まで続くリアルな主題だと思うが、別の機会に。ここでは「クイーンズ・ロード・フィールド」を取り上げる。なぜか。サッカー小説だからである。そして、評者が大のサッカー好きだという以上に、この小説はサッカーを介して、世界に触れているからでもある。
 今年はワールドカップの年だった。ベスト16での、日本代表のベルギー相手の惜敗を覚えている人もまだたくさんいるだろう。日本代表が帰国した直後、日本サッカー協会の幹部からは、サッカーを文化にしたいといった趣旨の発言があった。私はその言葉を耳にして、彼らの意図とはまったく別のことを考えた。水原涼や津村記久子の小説がもっと広く読まれれば、「サッカー文化」とやらも裾野をひろげることができるだろうに、と。
「クイーンズ・ロード・フィールド」の舞台は、スコットランドの田舎町。「ケルト人が作ったとかいう古い城の形骸だけが誇りの田舎町」と作中にある。主な登場人物は四人。語り手の「ぼく」(クレイグ)と、ロベルト、アシュリー、そして紅一点のモリー。「ぼく」たちは十三歳のときに出会った。そのころ、「ぼく」とアシュリーはバンドを組んでいて、ロベルトはイタリア人のような名前に悩みながらも、サッカーに打ち込んでいた。モリーは赤ん坊のころに足を切断してしまった妹ジャスミンの面倒をみながら、恋人をとっかえひっかえしていた。
 主人公たちが生きているのは、出会いからすでに二十六年の時間が経過した現在。「ぼく」はモリーと結婚し、アリスという娘もいる。ロベルトもアシュリーも健在。みんな三十九歳になっている。むろん小さくない不幸は、主にクレイグの周辺で起こるのだが、そのあたりは小説を読んでもらおう。物語は、十三歳で出会った彼らがどんな成長を遂げて現在まで生きて来たかを、幾つかのエピソードを点描しながら進む。そのとき、中心に坐っているのがサッカーだ。すなわち彼らの町のクラブ、「キャッスル・カルドニアン・FC」である。略して「カルドニアン」と呼ばれるクラブは、スコットランド・リーグの三部。毎年、残留争いを演じてはしぶとく生き残る。みんなはそれぞれ温度差がありつつも、カルドニアンを愛している。サポーターの中心人物になったり、スタジアムには行かないけれどテレビ観戦だけは欠かさなかったり……。そんななか、彼らは事件を起こす。アシュリーはクラブで唯一の黒人選手に向かって、バナナを投げ入れてしまう。モリーは、人のいなくなったスタジアムに入り込み、照明に攀じ登った挙句、そこに「asshole」とリップで落書きする。ロベルトは試合中、全裸になってフィールドを突っ走ってしまう。
 じゃ、「ぼく」であるクレイグは? どんな爪痕をカルドニアンのスタジアムに残すことができるのか? ここが小説の肝なので、これ以上は言葉を慎むのが礼儀だろう(ラストシーンでこの「爪痕」は明かされる……)。
 事件の中で、私が注目したいのは、アシュリーがクラブの右サイドバック、ブランドンに向かってバナナを投げ入れたこと。スコットランドの北の港町で、アシュリーとブランドンはたった二人しかいない若い黒人だった。ではなぜアシュリーはブランドンに向かってバナナを投げたのか? それが人種差別行為だと十分にわかっていたのに? 小説の中で、アシュリーはその理由を語る。アシュリーの事件以前に、ブラジル代表の黒人選手にもバナナが投げ入れられたことがあった。スペインでの試合。だがその選手は何事でもないようにバナナを拾い上げて食べ、栄養補給でもしたかのようにプレーを再開した。そのことが契機となり、世界中でサッカー界の人種差別に抗するべく、バナナを食べる行為が拡散した。だから、ブランドンにも食べて欲しかったのだ、と。
 小説を少し離れるならば、この事件は事実だ。2014年4月、スペインの名門クラブ、FCバルセロナに所属するブラジル代表選手・ダニエウ・アウベスがコーナーキックを蹴ろうとしたとき、バナナが投げ込まれ、彼は何食わぬ顔をしてそれを拾い上げて食べ、ボールを蹴った。その行為が人種差別に抗議するユーモアとして世界中に拡散したのだ。水原はそのことを踏まえている。
 アシュリーの行為は倒錯している。ピッチ上の黒人選手に対してバナナを投げ入れる行為そのものが明白な人種差別行為にあたる。だからユーモアで抗すべくバナナを食べて欲しくてバナナを投げ入れる彼の行為は、どれほど無邪気であろうと処罰される。じっさい小説の中で、アシュリーはスタジアムに出入り禁止になる。現実問題として、黒人選手に向けて、黒人サポーターがバナナを投げることはあり得ない。だが、だからこそ小説に書いてみたのだ、とも考えられる。つまり、フィクションでしか書けないこととして、アシュリーはバナナを投げたのではないか。
 それと、もう一つ、カルドニアンはつねに三部に低迷するクラブだが、入れ替え戦で負けたことがないのが自慢だ。小説は終盤で、最終節の試合を取り上げるが、それは、今年の収穫、津村記久子『ディス・イズ・ザ・デイ』を思わせる。津村作品でも、最終節が主な舞台として選ばれているのだ。私が言いたいのは、サッカー小説の名作は洋の東西を問わない、ということ。そして水原の小説に興味をそそられ、スコットランド・サッカーに踏み込みたいとお考えの向きには、小笠原博毅の『セルティック・ファンダム』をそっと差し出したい、ということである。
(講談社刊・税別定価一七〇〇円)本書は二つの中篇小説を収める。表題作の「蹴爪」と「クイーンズ・ロード・フィールド」。おそらくフィリピンの、ある小さな島で繰り広げられる闘鶏を生業とする父親と、その二人の息子の確執を描いた魅力的な小説「蹴爪」については、ここではあえて触れない。この小説に書かれている、主人公ベニグノらが作る子どもたちの共同体(暴力が支配する)は、著者・水原涼の、現在まで続くリアルな主題だと思うが、別の機会に。ここでは「クイーンズ・ロード・フィールド」を取り上げる。なぜか。サッカー小説だからである。そして、評者が大のサッカー好きだという以上に、この小説はサッカーを介して、世界に触れているからでもある。 今年はワールドカップの年だった。ベスト16での、日本代表のベルギー相手の惜敗を覚えている人もまだたくさんいるだろう。日本代表が帰国した直後、日本サッカー協会の幹部からは、サッカーを文化にしたいといった趣旨の発言があった。私はその言葉を耳にして、彼らの意図とはまったく別のことを考えた。水原涼や津村記久子の小説がもっと広く読まれれば、「サッカー文化」とやらも裾野をひろげることができるだろうに、と。「クイーンズ・ロード・フィールド」の舞台は、スコットランドの田舎町。「ケルト人が作ったとかいう古い城の形骸だけが誇りの田舎町」と作中にある。主な登場人物は四人。語り手の「ぼく」(クレイグ)と、ロベルト、アシュリー、そして紅一点のモリー。「ぼく」たちは十三歳のときに出会った。そのころ、「ぼく」とアシュリーはバンドを組んでいて、ロベルトはイタリア人のような名前に悩みながらも、サッカーに打ち込んでいた。モリーは赤ん坊のころに足を切断してしまった妹ジャスミンの面倒をみながら、恋人をとっかえひっかえしていた。 主人公たちが生きているのは、出会いからすでに二十六年の時間が経過した現在。「ぼく」はモリーと結婚し、アリスという娘もいる。ロベルトもアシュリーも健在。みんな三十九歳になっている。むろん小さくない不幸は、主にクレイグの周辺で起こるのだが、そのあたりは小説を読んでもらおう。物語は、十三歳で出会った彼らがどんな成長を遂げて現在まで生きて来たかを、幾つかのエピソードを点描しながら進む。そのとき、中心に坐っているのがサッカーだ。すなわち彼らの町のクラブ、「キャッスル・カルドニアン・FC」である。略して「カルドニアン」と呼ばれるクラブは、スコットランド・リーグの三部。毎年、残留争いを演じてはしぶとく生き残る。みんなはそれぞれ温度差がありつつも、カルドニアンを愛している。サポーターの中心人物になったり、スタジアムには行かないけれどテレビ観戦だけは欠かさなかったり……。そんななか、彼らは事件を起こす。アシュリーはクラブで唯一の黒人選手に向かって、バナナを投げ入れてしまう。モリーは、人のいなくなったスタジアムに入り込み、照明に攀じ登った挙句、そこに「asshole」とリップで落書きする。ロベルトは試合中、全裸になってフィールドを突っ走ってしまう。 じゃ、「ぼく」であるクレイグは? どんな爪痕をカルドニアンのスタジアムに残すことができるのか? ここが小説の肝なので、これ以上は言葉を慎むのが礼儀だろう(ラストシーンでこの「爪痕」は明かされる……)。 事件の中で、私が注目したいのは、アシュリーがクラブの右サイドバック、ブランドンに向かってバナナを投げ入れたこと。スコットランドの北の港町で、アシュリーとブランドンはたった二人しかいない若い黒人だった。ではなぜアシュリーはブランドンに向かってバナナを投げたのか? それが人種差別行為だと十分にわかっていたのに? 小説の中で、アシュリーはその理由を語る。アシュリーの事件以前に、ブラジル代表の黒人選手にもバナナが投げ入れられたことがあった。スペインでの試合。だがその選手は何事でもないようにバナナを拾い上げて食べ、栄養補給でもしたかのようにプレーを再開した。そのことが契機となり、世界中でサッカー界の人種差別に抗するべく、バナナを食べる行為が拡散した。だから、ブランドンにも食べて欲しかったのだ、と。 小説を少し離れるならば、この事件は事実だ。2014年4月、スペインの名門クラブ、FCバルセロナに所属するブラジル代表選手・ダニエウ・アウベスがコーナーキックを蹴ろうとしたとき、バナナが投げ込まれ、彼は何食わぬ顔をしてそれを拾い上げて食べ、ボールを蹴った。その行為が人種差別に抗議するユーモアとして世界中に拡散したのだ。水原はそのことを踏まえている。 アシュリーの行為は倒錯している。ピッチ上の黒人選手に対してバナナを投げ入れる行為そのものが明白な人種差別行為にあたる。だからユーモアで抗すべくバナナを食べて欲しくてバナナを投げ入れる彼の行為は、どれほど無邪気であろうと処罰される。じっさい小説の中で、アシュリーはスタジアムに出入り禁止になる。現実問題として、黒人選手に向けて、黒人サポーターがバナナを投げることはあり得ない。だが、だからこそ小説に書いてみたのだ、とも考えられる。つまり、フィクションでしか書けないこととして、アシュリーはバナナを投げたのではないか。 それと、もう一つ、カルドニアンはつねに三部に低迷するクラブだが、入れ替え戦で負けたことがないのが自慢だ。小説は終盤で、最終節の試合を取り上げるが、それは、今年の収穫、津村記久子『ディス・イズ・ザ・デイ』を思わせる。津村作品でも、最終節が主な舞台として選ばれているのだ。私が言いたいのは、サッカー小説の名作は洋の東西を問わない、ということ。そして水原の小説に興味をそそられ、スコットランド・サッカーに踏み込みたいとお考えの向きには、小笠原博毅の『セルティック・ファンダム』をそっと差し出したい、ということである。(講談社刊・税別定価一七〇〇円)