私はあなたの瞳の林檎、されど私の可愛い檸檬

舞城王太郎

1650円(税込)

恋と創造と家族と出産

陣野俊史

 小説のみならず、翻訳や漫画にまで活動領域を拡張してきた舞城王太郎の、単行本としては三年ぶりの新作が、『私はあなたの瞳の林檎』と『されど私の可愛い檸檬』の二冊。二ヵ月連続でリリースされた。

 両著に収録された小説について。『私はあなたの瞳の林檎』のテーマは「恋」。表題作以外に「ほにゃららサラダ」「僕が乗るべき遠くの列車」が収録されている。『されど私の可愛い檸檬』のほうには、表題作以外に「トロフィーワイフ」「ドナドナ不要論」の二篇を収め、テーマは「家族」。つまり、合計で六篇の小説が、「恋」と「家族」のテーマに沿って書き継がれている。

 読後感を書けば、とてもゆっくりと舞城作品を楽しんだ。飛ぶはずのない人たちがラクラクと空を飛んだり、アメリカ帰りの天才外科医が超絶的な技術でもって人体を縫合したり、破天荒な様々な事象が、切なさの延長線上に花開いていた初期の作品群に親しんできた人間にとってみれば、エキセントリックなところがほぼ影を潜め、舞城独特の文体のドライブ感によって語られる「恋」と「家族」を堪能した、ということだ。微妙な言い回しになるが、普通の小説として楽しんだ。

 よくできた普通の小説、ということでいいのならば、書評はここで終わる。だがそうではない。珍しく小説観がうかがえる小説があるので、そこを入り口にしよう。「ほにゃららサラダ」という作品。

 主人公の「私」と「ビンちゃん」と「高槻くん」は美大の一年生で、「まだアートってより人との出会いに忙しい」。芸術系の大学には面白い人がたくさんいて、それなりに刺激を受けつつ、ワークショップの展示会のために制作に没頭したりしている。「文藝科」には「高橋くん」がいて小説を書いている。「私」は高槻くんと付き合いだすが、高槻くんが「絵を描いて写真を撮って動画を公開したら再生回数が多くてイベントに呼ばれたり雑誌に取材を受けたり有名な批評家の人と対談本を出すことが決まったり」しているうちに、「私」と高槻くんの関係は微妙になってくる。それでも福井の実家に帰ったときに、十字架を作り、「お兄ちゃん」に持たせ、雪の中を歩く姿を写真に撮ると、その写真をめぐって、高槻くんが的確なコメントをくれたり、高橋くんがインスパイアされて小説を書いたりする……。と、書くと芸術に携わる若者たちの群像劇のように思われるかもしれないが、そういった芸術的心性に絶妙な距離を置く「うんこサラダ」という語が作中では使われていて、このあたり、実に舞城らしいのだが、実際に読んでみていただきたい。

 注目したいのは、小説の比較的初めのほうで、ビンちゃんが高橋くんの小説を評する場面。「あとさ、最後に『悪しき造物主』って小説を主人公が台詞で引用するじゃん?どんなやっつけ仕事であれ世界をひとつ作るんだったら想像力が不可欠だ、みたいなさ。子どもを作ることを世界創造にかけてるってのは雰囲気がいいし上手く登場人物たちの慰めにもなってるし小説世界の希望にもなってるけど、私には言い訳に読めたんだよね。主人公のってことでもあるけど、誰より書き手の高橋くんのさ。その小説に書かれてる内容とは別に、世界の創造ときたら小説を書くことにももちろん通じるじゃん?で『やっつけ仕事でも創造力ってのは働いてるもんなんだ』っていうのは自己弁護にしか聞こえないでしょ。」

 この言葉は、このあと、創作をめぐる本質的批評として、静かに小説の中に響き渡る。私は右の言葉を素通りすることができなかった。

『悪しき造物主』とは、ルーマニアからパリに移住し半世紀以上にわたって住み続けた反時代的思想家、E・M・シオランの著作のタイトルである。もちろん小説ではない。シオランはその本の中でこう主張する。悪しき造物主とは、かつて存在した中でもっとも有用な神だ、と。善なる神こそは無能であり、その代わり、悪を司る神が創造に加担するのだ。悪魔はその造物主の代理人であり、下賤な仕事を任された天使である。私たちは神の中に美徳よりも悪徳を見届け、この世になにがしかの創造を果たすのだ……とすれば、「産むことはどんなものであれ例外なく、うさん臭い」。「幸なことに、天使たちは出産には向いていない」……。シオランは「創造」とか「出産」に痛罵の言葉を投げつける。「人間をもおかまいなしに造物主めいたものに仕立て上げてしまう」「出産」を「災厄」と断じるのだ。

「創造」と「出産」に対する呪詛の言葉は、舞城の小説において(ひとまず)遠ざけられる。だが、はたしてそうか。

「ドナドナ不要論」を読んでみる。

 冒頭、あの「ドナドナ」の悲しい歌に言及がある。「歌われている光景は哀しく、想像する子牛の気持ちは悲しい」と書かれる。主人公の「智」は、あの歌の悲しみに複雑な思いを抱いている。そうこうするうちに、智の妻の椋子が膵臓癌になる。かなり厳しい手術をなんとか乗り切る。家に戻ってきた椋子は、娘の「穂のか」(四歳)と暮らしたくない、と言い出す。穂のかが一度も見舞いに来なかったことに憤っている。椋子の母親、つまり穂のかの祖母が、衰弱した椋子を孫に見せたくないという配慮から、穂のかは病院に行かなかったのだが、椋子はそれを斟酌することができない。椋子は別人になっている。

 家族は形を変えなければならない。変えざるを得ない。出産し、家族として形を得ても、悲しみに塗り込められることが起こるかもしれない。シオランならば、そらみたことか、子を産むことは災厄なのだ、と言っただろうか。だが、舞城は、シオラン流の皮肉に敢然と反論する。悲しいという感情だけで終わらせてはならない、と小説を転換するのである。「この世にかなしみはたくさんある。だからかなしみを歌うべきなんだ」と書き換え、「ドナドナ」へとループする。小説に一瞬、光明が差し込む。素晴らしい。