人外

松浦寿輝

2530円(税込)

小説は四本足で

小山田浩子

「わたしたちはいつごろからかたぶん地中にいて、あるときふとアラカシの根のさきのほそいひげ根から吸いあげられ、樹液に溶けこんでその幹の内部をうえへうえへ、しずしずと、じりじりと、とろりとろりとのぼっていったのだろう。」アラカシは雑木林や公園などでよく見かける常緑樹で、横縞帽子の小ぶりなどんぐりが実る。液体のような粘液のような意識の集合のようなものらしい「わたしたち」は、身じろぎをしてアラカシの木の股のところから「ずるりと滲みだし地面にぽとりと落ち」る。雨粒、残照、暗さを感じているうち「外界のとも意識のともつかぬその薄明のただなかにアラカシだのエダだのイシキだのといったコトバが点滅し、ウエ、シタ、クサ、ソラ、(略)といったふうにコトバのむれが増殖していき、さらにサムイ、サムクナイ(略)カゼガフイテイルなどというコトバも浮かび、それらが意識の地の部分にしずかに染みこんでいくにつれてコトバそれじたいが意識になり意識それじたいがコトバになり、そのコトバをつかってわたしたちはワタシタチ│とかんがえてみた。」わたしたちは言葉を得、言葉は増殖する。それと同時に徐々に体の形は定まり脚が毛が生え水かきが生じねこにもかわうそにもあなぐまにも似た四つ足の獣となって這い歩き走り泳ぎ旅を始める。わたしたちの中には「記憶のなかからよみがえってくる残響や残り香や残像」があり、それが時折意識の中に立ち現れる。子供だったり恋人だったり母親だったり楽しかったり悲しかったり不安だったり幸福だったりする……どうやら、わたしたちはかつて人だった者たちの記憶や意識の集合であるらしい。とはいえ、わたしたちはもはや人ではない。わたしたちは自らを「人外」というものだと認識する。わたしたちは「かれに追いつかなければならない」と思っている。切迫感や焦燥感をともない激しく、しかし「かれ」が誰なのかはわからない。「かつてはヒトだったけれどもいまではヒトではない人外が、過去を想起し未来を予見しながらいまからいまへと飛びうつりつつこの世界をよこぎって」かれを探す旅が、本書では語られる。

 人外は川を泳ぎ到着した集落のそばで幼い男の子の死骸を見つける。生者からは石を投げられ、それを逃れ歩むうちらせん(対数らせんと呼ばれる、巻き貝など自然界でよく見られる形)状の石段をのぼっていることに気づく。らせんの無限さの不毛さと安らぎを思いつつのぼり詰めた最後にある小屋に住んでいるのは見張り番の老人で、彼は自分の仕事は辺りを見回して異常があったら電話で知らせることだと言うが、実際になにかを誰かに報告したことはないとも言う。人外は彼の収集品を見せてもらう。ブリキの観覧車、三角プリズム……人外は老人に「あなたはもうすぐ死ぬんだね」と語りかける。老人はほどなく本当に死に、わたしたちのひとりとなる。人外は海へゆき列車に乗り地下へおりまたのぼり町へゆき旅を続ける。世界は未来のようだが過去のようでもありどこの国ともわからない。人外は幾人かの人と言葉をかわす。偽哲学者や司書……過去を思い出し未来を予見しさまざまなことを考える人外が彼らからの問いかけに答える言葉は、どこか誰もが頭の中でくゆらせたことのあるひとり会話のような趣を帯びもする。

 意識のようなもの、もともとどろりと混じり合い曖昧な無数の「わたしたち」が不意に身じろぎして凝固しまず言葉を得、おずおずと形を定め、進み出したものが人外……それは何かに似ている、まるで小説ではないか。記憶や言葉が凝り連なり生まれいつしか動き出し……小説というのはなんでもいいなんでもあり、でも、なにかではある。それは主題とかテーマとかでは無論なく、なにと名指しできるならそもそも小説なんて書かれる必要がない、でもたしかにそこにあるなにか、人外もまさにそういうものだ。読書は自分との対話でもある。つまり本作は小説が旅をする小説なのではないか。

 たどり着いた遊園地で少女に出会い、一緒に(見張り番のブリキのおもちゃを思わせる)観覧車に乗り水族館に入る。人外は水の中で新たな人外「あの子」が生まれるのを目撃する。「過去と現在と未来のかけらたちのすべてが蝟集し凝集し、ちいさくちいさくちぢこまってゆき、そのちぢこまったものがある瞬間不意にふわりとやわらかな羅のようにほどかれた。」本作でとりわけ圧倒されるのは人外(語り手とあの子)の二つの誕生シーン(冒頭とここ)で、曖昧に鮮明で言葉以外では描写できないような、それはまさに、一つの小説が生まれ立ちあがることの、おそらく作者にもそれがどうしてなのかなぜいまなのかここなのか完全にはわかりきらないようなおののきを描いているからではないだろうか。いとまきえいに似て同時にうみがめやくらげにも似た「あの子」が横溢する水の中を泳いで旅立つのを見て人外は旅をする必要はもうないのかもしれないと思い、でも結局続け、さまざまなところへゆきさまざまなものを見、しかしかれは見つからず老いてゆき、そして「かれが、いまついにわたしたちとともにある。」と気づいたとき、人外の目は見えなくなり体は動かなくなり言葉は失われていっている。人外はおそらく死に小説は終わろうとしているその「最後の最後になって、ことごとくうすれて消え失せてしまったかに見えたコトバの、ほんのちいさなちいさな切れっぱしがとつぜんかすかによみがえってきて」それが、小説の冒頭つまり人外の、あるいは「あの子」の誕生を思わせて小さく揺れ、さざ波が立ち、増幅し、どんどん増えいつしか旋律となり響き合い、しかしそれも消えていき、無が残り……しかし、いつしか、凝ってゆらいだ意識が言葉が凝集してゆきそこから、また、どこかから、新しい宇宙がつまり新たな人外がすなわち小説が、生まれていくのだ。