山海記

佐伯一麦

2000円

災害の記憶を辿る長いバス旅

川本三郎

 語り手である「彼」はバスに乗っている。バスといっても日常に乗るバスではない。仙台に住んでいる「彼」の日常とは遠く離れた山のなかを走る。

 具体的に言えば、奈良県の橿原市にある大和八木から出発し、紀伊半島の真中を南下し、和歌山県の新宮に至る路線バス。途中、幕末の天誅組の乱で知られる十津川を通る。

 四時間半の行程。高速道路を使わない路線バスで日本最長として旅好きにはよく知られている。よくぞこのバスを。

 この小説は、東日本大震災で被害を受けた「彼」が、その後、災害の被災地に関心を持ち、これまでに何度も水害に遭っている奥奈良から紀州にかけての雨の多い土地を旅することで物語が進んでゆく。「彼」は、ある時、思い立って、紀伊半島をほぼ縦断するこの路線バスの存在を知り、乗った。

 ロードノヴェルであるが、鉄道でもなく自家用車でもなく、路線バスの旅であることは異色。私小説の形を大事にしている佐伯一麦氏の小説だから、語り手の「彼」は「私」と考えていいだろう。

「彼」は、3・11を体験してから、いや応なく災害というものに関心を持った。災害はどういう土地で起こるのか。どんな犠牲者が出たのか。実地を歩きたくなる。一種の民俗学の旅である。いわば「非日常の民俗学」。3・11で惨劇を目の当りにした「彼」には、災害に遭った場所のことが特別な土地に思われてくる。奈良の奥地も、他人事には思えなくなる。「彼」の被災地行脚が始まる。

 幸田文は、後年、『崩れ』という異色の作品を書いた。日本の山地に見られる「崩れ」という負の自然現象に関心を持ち、各地の「崩れ」を訪ね歩いた。

「彼」の「災害の記憶を辿る旅」も、幸田文の旅に似たものがある。現代社会で、死がおおい隠されることが多いように、災害も時がたつとやがて語られなくなる。負の歴史は、思い出したくないから。それでも、悲劇のあった土地では、過去がきちんと記憶され、現代へと継承されている。「彼」は、それを辿ろうとする。

 ここで重要なのは、仙台にいて、3・11の惨劇を目の当りにした「彼」がなぜ、仙台ではなく、奈良の山奥に旅したかだろう。

「災害」について書きたいのなら、地元の話ではなく、なぜ、遠く離れた十津川の水害のことを書くのか。

 ここに、この小説の「ためらい」がある。「彼」は、3・11のことをそのまま書くには、まだあの記憶があまりに重すぎる。実際、身近かにはいまでも「死」がある。

 叔母は震災後の精神的労苦があったのだろう、自死する。学校時代の親しい級友で、ともにクラシック音楽を愛した友人も、つい最近になって自殺した。

 その衝撃を「彼」はまともに受けた。東北を舞台にする小説は、あまりにもリアルで書けない。にもかかわらず、あの惨劇のことはしっかりと心に刻まなければならない。

 とすれば、物語の場所を遠くに設定する。つまり旅に出る。旅が3・11のあとの混濁する心を冷静にしてくれる。それで「彼」は日本一長い路線バスに乗った。

 ロードノヴェルは通常、旅の途中に起るさまざまな出来事によって物語が進んでゆく。しかし、この小説ではそうではなく路線バスに乗っている「彼」の思索や回想によって物語が動いてゆく。

 バスは山奥の小さなバスの停留所に止まってゆく。そのひとつひとつを佐伯一麦は綴ってゆく。「忌部」「国道曲川」「忍海駅」。バス停が、地名が重要になる。

 東北のように関西に比べ歴史の浅い土地では地名に歴史の厚味が感じられない。ところが「彼」の通る紀伊半島では、小さなバス停の名前に歴史が感じられる。

 ここで読者は気づいてゆく。

 なぜ「彼」は、地元である仙台から遠く離れた十津川へと旅に出たのか。

 本来なら「彼」は3・11の惨劇を体験した東北に旅するべきだったろう。しかし、それにはまだ心の準備が出来ていない。ワンクッション置く必要があった。

 実は十津川では何度か水害が起きている。とくに明治二十二年八月には大水害が起きて多数の死者が出た。さらに近年では百二十二年前の再来とも言われた二〇一一年の台風十二号による被害もある。

 同じ自然災害を受けた土地として、「彼」のなかで東北と十津川が重なった。身近かな東北のことはまだ惨劇の記憶が強すぎて書けないが、十津川の水害の歴史を知ることによって、心の準備が出来るかもしれない。

「彼」は旅に出る前に天誅組関係の資料に目を通しただけではなく『吉野郡水災誌』のような災害の記録も精読していた。そして、日本は古来、なんと災害の多い国なのかと心に刻んできた。

 この小説は後半になって主語が「彼」から「私」に変わる。

「私」は言う。はじめ「私」ではなく「彼」にしたのは、親友の死のあと、「私」で書くことの重みに耐えられなかったからだと。「私」にすると感情があまりになまになってしまう。それで「彼」にした。

 しかし、一度、十津川へのバスの旅をし、その二年後にもう一度、十津川を訪れた時には、どうにか心が落着いたのだろう。「彼」が「私」になった。私小説家らしい体験と言えるだろう。

 3・11によって「彼」の家では本棚の本が崩れ落ちた。その結果、それまで持っていたことを忘れていたような本が姿を現わした。『日本書紀』や『古事記』。隠れていた本、いわば知の古層にある本に導かれるようにして彼の旅は始まった。東北と十津川は確実につながっていた。

「ゆきてかえりし物語」といえばJ・R・R・トールキンのファンタジー小説『ホビット』の副題だが、行って帰ってくる物語とはようするに旅のことだ。
『前立腺歌日記』は、前立腺ガンを宣告された初老の男が、手術とリハビリと放射線治療を経験した後、日常生活に戻るまでの旅を物語る一冊である。「僕」と名乗る語り手は著者に瓜二つだから私小説のように読めるし、治療の段取りが詳細に描かれているので、闘病記の系譜に連なるノンフィクションとして読んでも差し支えないだろう。
 ただし、これは「歌日記」なので、散文の合間に詩篇がひんぱんに差し挟まれる。自作の詩が多いが、万葉集、和泉式部、高浜虚子から新川和江にいたる日本語詩や、シェークスピア、ランボー、T・S・エリオットなどの詩も邦訳で登場する。日々の報告を語る「僕」の文章に詩行が挿入されると、個人の経験がにわかに隠喩へと変容するかのようだ。読み進むうちに、芭蕉の『奥の細道』、ダンテの『神曲』、紀貫之の『土佐日記』、トーマス・マンの『魔の山』などが物語を下支えする構造も見えてくる。思えばどれも、行って帰ってくる隠喩的な旅を描いた書物ばかりである。
 ミュンヘン在住の「私」が語る物語の発端は一年前にさかのぼる。熊野古道を徒歩旅行したとき、中学生の頃に部活で痛めた膝関節の軟骨に負担がかかって痛みが再発した。ドイツに戻って医者へ行き、ついでに受けた血液検査がきっかけで前立腺ガンを早期に見つけることができた。
 この病気にかかりやすい傾向が父祖たちにあったことを知る「私」は、発病を「気の遠くなるほどの過去からの贈り物」ととらえ、前立腺全摘の手術を受けることを決める。そこまでが「奥の細道・前立腺」と題された第一章で、「尿道カテーテルをつけたまま詩が書けるか?」を問う第二章は、入院してから退院するまでの経緯を語る。入院生活のなかで気取らぬ生き方を学んだ「僕」(第二章から一人称が変わる)は、「これからは、どんな時でも、誰の前でも、胸の前におしっこ袋をぶら下げているつもりで生きてゆこう」と決意する。初老の男が人生の初心を取り戻す瞬間の描写が感動的だ。
 だがじつは、「尿道カテーテルをつけたまま書いた詩」と題された既出の詩(『現代詩手帖』、二〇一七年一月号)があって、その末尾に同じ決意が語られている。詩で語ったことをあえて散文で語り直すのはなぜだろうか。その理由はたぶん、『前立腺歌日記』に秘められた詩と散文の融合をめざそうとする意図とリンクしている。
 著者はかつて、「初めに言葉・力ありき」と題された講演(評論集『詩人たちよ!』所収)で、ダンテ、芭蕉、マンの文学を縦横に比較しながら、行為と言語の対立と協力関係について論じたことがある。四元は、『神曲』においては言葉と行為が対立せず、「無邪気なばかりに睦まじい関係を結んで」いるのに気づき、「詩人の操る特殊な力に満ちた言葉」によって、行為=現実が「固有性の世界」から「普遍的な世界、永遠の高み」へと導かれているのを発見した。
 なるほど、『前立腺歌日記』は、散文的な行為の世界と詩の言語が誘い込む永遠・普遍の世界とを調和させようとする実験場なのだ。
 手術後のリハビリのために滞在した療養所での暮らしが描かれた第三章「シェーデル日記」は現代版の『魔の山』であり、病院の地下にある放射線科へ通った経験を語る第四章「わが神曲・放射線」には、ダンテの地獄篇をもじった世界が描かれる。そして、先述の詩論において、中原中也の詩と井筒俊彦の言語哲学を参照しながら、「根源的絶対無分節の世界」「一にして無限な混沌宇宙」などと表現されていた、詩の言葉が向かうべき「意識の深層」は、本作では「クオリア」と言い換えられている。クオリアとは「赤ならば赤の『赤さ』そのものの質感」のことで、その出所について人間は何も知らないものの、「意識のクオリア」こそ「僕という存在の本質」ではないか、と語り手は考えるのである。
「終章 春雨コーダ」では一人称が「私」に戻る。第二章から第四章までの「僕」が渦中の語り手だったとすれば、「私」は発病から回復にいたる「ゆきてかえりし物語」を丸ごと見渡せる場所に立っている。三十五回にわたる放射線治療を終えて、地下から地上へ出た彼は、そこが「私の煉獄」だと気づく。
 今、新たな旅に出た「私」は来し方を顧みて、自分は「いつも何かを待ちながら生きてきた」とつぶやく。そして、「私は詩に憧れ、いつの日か自分の言葉の指先がそれに触れることを夢見た」が、「詩だけに満足することもできなかった」ので、「現世的な歓びを追い求め」、「ひとりの娘」と結ばれたことを語る。これ以上せんじ詰めることは不可能と思われる自叙伝が綴られたこのパラグラフにおいて、著者によく似た「私」は詩と現実、あるいは言葉と行為のあいだに折り合いをつけようとしてきた人生を振り返っている。
 終章の終わり近く、ミュンヘンからの旅の途上にストラスブールで下車した「私」は、大聖堂の隣の美術館を訪れて、かつて岳父とここを訪れたときの時間を生きなおす。美術館を出て、運河のほとりを歩き出したときには死者たちの思い出が胸中に押し寄せてくる。「私」は街中の「こぢんまりした教会」へ入り、合唱を聴く。合唱隊は「脳の中の、神経細胞の先端の、微小管の内部の素粒子を自己収縮させて、自分だけのクオリアを外界に照射して」いる。「私」はこの瞬間、ダンテそのひとを生きているかのようだ。合唱の声が響き合う、調和の世界に身を委ねる語り手は、比類のない天上の音楽の只中にある。
 病を得た経験をもとにして本作を書いた四元は、ダンテと同じくみずからを著者、作中人物(僕)、全知の語り手(私)の三人に振り分けつつ統合して、「歌日記」を広げてみせる。世界文学への愛と真摯な詩論に裏付けされた本作により、歌と物語を融合する古い器に新しい可能性がつけくわえられた。