美しい顔

北条裕子

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言葉の「汚れ」を通じて真実に触れる

田中和生

 二〇一七年に発表された辻原登の短篇「仮面」(短篇集『不意撃ち』所収)は、東日本大震災が起きるやいなや、神戸から被災地の東北へと向かう中年の男女を描いている。ふたりは十六年前に起きた阪神淡路大震災のときに知りあったが、男は大阪に本社がある繊維会社の課長代理で、女は岡山から医療奉仕団の一員として神戸に入っていた。女は被災者のケア・サポートをする延長線上で介護事業者となったNPO法人で働く介護士となり、会社が倒産した男は震災のどさくさで復興支援を謳ったTシャツで儲けたあと、そのNPO法人の代表に収まった。しかし復興しつつある神戸で震災後のお金の流れは止まり、介護事業が行き詰まっていた。

 その後ふたりは避難所の一つに落ち着き、NPOのボランティアという「仮面」をつけて救援活動をはじめ、被災者の子どもたちを東京まで連れ出して募金を行い、水際だった手口でかなりの額の義援金を手にする。そして女は「仮面」を捨てて詐欺的行為を完遂しようとし、男はぎりぎりのところで引き返そうとする。短篇として鮮やかな結末にここでは触れないが、震災後の現実でいかにもありそうな話だと感じさせる作品である。

 事実であればとんでもない話だが、この震災直後の被災地を舞台にした作品では、登場する男女が非常にしょぼくれた、生活に追われてとても立派とは言えない人物であることが重要である。なぜなら二〇一一年に起きた震災は現代日本を被災地とそれ以外に分断し、被災者とそうではない人々のあいだにも見えない亀裂を走らせることになったが、そこでは被災者はどうしようもなく悲劇的な人物となり、それを助けようとする人々もまた、しばしば英雄的な人物となってしまうからである。もちろんそれは現実では事実でありうるし、そうした人物像は感動的な物語を生み出す装置ともなるのだが、しかしその周囲に浮かび上がるのは日常ではない、劇的な舞台としての被災地である。

 だとすれば辻原登の「仮面」で描かれた、被災者を助けるふるまいをしながらまったく英雄的ではない男女は、いわば被災者とそうではない人々という分断を超えてある日常的なわれわれの姿であり、だからこそ事実では語ることのできない文学的な真実を表現していると言える。そのような意味で、北条裕子の長篇『美しい顔』で描かれた主人公が、自分を「汚らしい」と思っている被災者であることは、注目に値する。

 主人公である語り手の「私」は十七歳の女子高校生であり、地震が引き起こした大津波に襲われ、小学生だった弟の「ヒロノリ」を連れて高台まで逃げ、かろうじて生き延びる。それほど大きな町ではなく有名な土地でもなかったので、母の安否を気遣いながら入った避難所では物資が不足し、避難生活はなかなか厳しい。しかしテレビ局のカメラを見かけてから、「私」はマスメディアとテレビの向こうにいる人々に向けて、感動的な物語の登場人物となるような演技をはじめる。そこで「私」はこう感じる。

《自分をこれほどまでに汚らしく思ったことは、いまだかつてなかった。脳みそが好き勝手に邪悪な言葉をやすやすと並べ立てていくのをどうすることもできなかった。(……)絆、希望、助けあい。美しい言葉たちが輸入されてきた。絆、仲間、頑張ろう。清潔な言葉たちが支援物資とともに全国各地から入ってきた。海水が、やさしさを日本全国から運んできてこの田舎町を満たした。(……)波が過ぎ去って私が辺りを見回したとき、そこに残っていたのは剝き出しの建物の基礎と、私の浅ましさだけであった。私の醜さ、汚らしさだけであった。それらが浮き彫りになって取り残されていただけであった。尊いものは、みんな波が連れていった。》

 ここで「私」は、津波で死んでしまった者が「尊いもの」であり、生き残ってしまった自分は「汚らしい」と感じている。そしてその「汚らし」さは、被災者として生き延びるためにマスメディアが望むような被災者像を演じている「私」と、その向こう側にいる被災者ではない人々を結びつけている。だから「私」はテレビカメラの前で「美しい顔」をしているが、その背後に隠しているのは「醜い心」であり、しかもそれをもたらしているのは津波による「尊い」死者である。

 ここに隠されている構図は慎重な言い方が必要だが、津波の被害に直面しなければならなかった未熟な十七歳の語り手は、被災者も被災者ではない人々も等しく死者ではないという意味で「汚らしい」と示唆しているのであり、東京に住んでいて被災者ではなかったわたしは、その「汚らしい」という回路を通じて語り手の「私」を自分の分身のように感じる。その言葉が強すぎれば「後ろめたい」という言い方でもいい。津波の被害を免れて生き残ってしまったことが「後ろめたい」という感覚のなかでは、被災者も被災者ではない人々もほとんど区別されない。というよりわたしはこの作品を読んで、主人公の「私」が作品の後半でどうしようもなく被災者としての現実と向き合わなければならなくなるという展開に大きく心を動かされることを通じて、わたしが津波による死者や被災者に対して「後ろめたい」と感じていたことを発見した。その意味でこの作品は、被災地を舞台にしながら被災地ではない場所で生きる、悲劇的な人物にも英雄的な人物にもなり得ない人人の日常に通じる作品になっている。

 しかしだからこそ、読者にとって被災地の現実は切実なものになる。巻末に挙げられた参考文献なしには描けなかったであろう被災地の現実を、事実では語れない文学的な真実に触れられるものに昇華した、言葉の「汚れ」を引きうけた新人の力強いデビュー作である。