アウア・エイジ(our age)

岡本学

1540円

枯渇した生気が再び宿る

長瀬海

 生きるという営みには、当然のことながら、エネルギーが必要なわけで、いろんな抵抗を受け摩耗しながら、それでもベクトルを明日へと向けて進んでいく。だけど、不意に、人生のある地点に仕掛けられている窪みに落ちてしまうことがある。そのとき、人は、えぐられた穴のなかで、何かに引っ張り出されるのを待ちながら、ただただ、虚しく生の車輪を空転させるしかない。枯渇した生気はみずからを陥穽から救い出すだけの力を持たないのだ。

 小説の主人公である「中年の空虚で刺激に欠けた毎日」を送っている大学講師の男からは、そんな原動機がいたずらに空回りし続ける音が聞こえる。「離婚して、妻子と会うことなく数年が経過していた。早々に役を降りてしまって、ただひとり生存を続ける意義も見出せず、毎日を惰性で生きているようなていたらくだった。」まさしく人生の窪みに落ちてしまった「私」の手を摑んで引っ張り上げたのは、ある一枚の写真だった。

「私」は学生時代に名画座で映写技師として働いていた。かつての同僚から、「映写機の葬式」の案内が届くと、「私」は約二十年ぶりに昔の職場へと足を運ぶ。そこで見つけたのは、余白に「our age」と書き込まれた、塔の写っている写真。この写真を貼ったのは、ひとりの女性、「殺されるような女」のミスミだった─。

 塔の写真に自身の「欠落のピース」を見いだした「私」は、追憶に手を伸ばすことで、枯れ果てた活力の源泉を掘り当てようとする。立ったまま映画を見るという怪しげな客だったミスミは、ある日、映画館の受付の新人バイトとして「私」の前に現れた。彼女は写真を見せつけ、この塔の正体を知らないかと訊ねてくる。聞けば、母親が撮った写真だと言う。ミスミは複雑な家庭で育った。早くに死んだらしい父親の記憶はない。知っているのは医学博士だったということだけ。数学の教師をしていた母親は酒癖が悪く、病弱で学力のないミスミを「失敗作」として扱っていた。その母親を大学に入る年に亡くした彼女は、孤独を抱えて生きている。「私」は、次第にミスミに惹かれていく。

 実に多くの「マイ・ルール」─例えば、欲望に忠実に従い、本気で頼まれれば誰とでもセックスをする─を自らの行動規範として持つミスミは、常識から逸脱した、風変わりな女性だ。一見すると、ファム・ファタールのように見えるのかもしれない。確かに、一時期の「私」はミスミに翻弄され、彼女を失ったことで自己の内奥に欠損を抱えることになった。だが、ミスミは決して「私」を破滅させるために小説に存在しているわけではない。作者は、恋愛に踏み込めず、友情に止まらざるを得なかった男性が、想いを寄せた女性との間に、敗者と勝者ではなく、ギブアンドテイクの関係をどうやったら結び得るかということを、「私」とミスミの関係を通じて、提示しようとしているのではないだろうか。つまり、恋愛が成立しなかった関係において、その友情を負債の感覚なしに、肯定的に受け止めるにはどのような方法があるのかを物語のなかで描こうとしているのではないか。

 作中、突然に、ヘミングウェイ『日はまた昇る』のある一節が引用される。語り手に代わって、この文章が綴られている出典元の場面を説明すると次のようになる。主人公で、戦争で負った傷によってインポテンツになったジェイク(ヘミングウェイが自己を投影した男だ)は、爵位があり、奔放に振る舞うブレットに思慕の念を抱いている。だが、道徳的規範に縛られないブレットは、ジェイク以外の男性たちとも関係を持つ。ジェイクはブレットとの恋愛の不可能性に悩みながら、女性と友情の基礎を作るにはまず惚れること、しかし、その関係を一方的に享受するだけではダメで、代償を支払わなければならないこと、を説く。この警句を、自らのこととして引きつけて考える「私」は、二十年ほど前の「勘定書」の支払いを済ませに行く。そのことが、自身の欠落を埋めることになるからである。

 当時、「私」はミスミとともに、何度か塔を探しに出かけた。彼女はその都度、記憶の引き出しを開けて、その断片を「私」の前に並べていった。ミスミの出身地について知る手がかりは母親が遺したナルトとサンブという言葉だけであること、塔の写真を撮影した日に母親が彼女を轢死させようとしたこと、泣きながらカレーライスを食べていた母親の姿。現在の「私」はこうした記憶の切れ端をヒントに塔の正体、「our age」という言葉の謎、そして、ミスミすら知り得なかった彼女の母親の秘密を探っていく。

 書評の冒頭で述べたように、「私」はどこか生気が枯れ果てたような男として、まず、小説に現れた。思えば、このような生のエネルギーが枯渇した状態の人間をいかに物語のなかで捉えるかという試みは、岡本学という小説家の原点としてあった。デビュー作『架空列車』は社会からこぼれ落ちた主人公が、東北のある街に住み、そこで架空の路線図を地図に描き、自転車で日々、走行するという話が前半に置かれる。そのうちに主人公はそんな空疎な行動に生きがいを感じ始める。だが、東日本大震災が起きると、それすら失われてしまう。小説は避難所という社会でですら殻に閉じこもる主人公が、架空の財貨を失ったことで抱える途方もない虚しさと、震災以後、私たちが囚われていたうつろな感覚を共鳴させることに成功していた。

 あれから八年が経ち、本作で、作者はひとりの人間が、自身の内部に巣くう空虚さを満たしていく姿を描いた。作中にちりばめられた全ての謎が解けたとき、空回りしていた「私」の原動機が動き始める。かつての友情の対価としてミスミの探していた過去を代わりに見つけ出そうとした「私」は、逆に彼女によって生きる意味を与えられてしまう。それは皮肉だ。しかし、生きるということは、そんなアイロニーの上に成り立っているのである。小説は人生における一つの真理を導出している。

きるという営みには、当然のことながら、エネルギーが必要なわけで、いろんな抵抗を受け摩耗しながら、それでもベクトルを明日へと向けて進んでいく。だけど、不意に、人生のある地点に仕掛けられている窪みに落ちてしまうことがある。そのとき、人は、えぐられた穴のなかで、何かに引っ張り出されるのを待ちながら、ただただ、虚しく生の車輪を空転させるしかない。枯渇した生気はみずからを陥穽から救い出すだけの力を持たないのだ。
 小説の主人公である「中年の空虚で刺激に欠けた毎日」を送っている大学講師の男からは、そんな原動機がいたずらに空回りし続ける音が聞こえる。「離婚して、妻子と会うことなく数年が経過していた。早々に役を降りてしまって、ただひとり生存を続ける意義も見出せず、毎日を惰性で生きているようなていたらくだった。」まさしく人生の窪みに落ちてしまった「私」の手を摑んで引っ張り上げたのは、ある一枚の写真だった。
「私」は学生時代に名画座で映写技師として働いていた。かつての同僚から、「映写機の葬式」の案内が届くと、「私」は約二十年ぶりに昔の職場へと足を運ぶ。そこで見つけたのは、余白に「our age」と書き込まれた、塔の写っている写真。この写真を貼ったのは、ひとりの女性、「殺されるような女」のミスミだった─。
 塔の写真に自身の「欠落のピース」を見いだした「私」は、追憶に手を伸ばすことで、枯れ果てた活力の源泉を掘り当てようとする。立ったまま映画を見るという怪しげな客だったミスミは、ある日、映画館の受付の新人バイトとして「私」の前に現れた。彼女は写真を見せつけ、この塔の正体を知らないかと訊ねてくる。聞けば、母親が撮った写真だと言う。ミスミは複雑な家庭で育った。早くに死んだらしい父親の記憶はない。知っているのは医学博士だったということだけ。数学の教師をしていた母親は酒癖が悪く、病弱で学力のないミスミを「失敗作」として扱っていた。その母親を大学に入る年に亡くした彼女は、孤独を抱えて生きている。「私」は、次第にミスミに惹かれていく。
 実に多くの「マイ・ルール」─例えば、欲望に忠実に従い、本気で頼まれれば誰とでもセックスをする─を自らの行動規範として持つミスミは、常識から逸脱した、風変わりな女性だ。一見すると、ファム・ファタールのように見えるのかもしれない。確かに、一時期の「私」はミスミに翻弄され、彼女を失ったことで自己の内奥に欠損を抱えることになった。だが、ミスミは決して「私」を破滅させるために小説に存在しているわけではない。作者は、恋愛に踏み込めず、友情に止まらざるを得なかった男性が、想いを寄せた女性との間に、敗者と勝者ではなく、ギブアンドテイクの関係をどうやったら結び得るかということを、「私」とミスミの関係を通じて、提示しようとしているのではないだろうか。つまり、恋愛が成立しなかった関係において、その友情を負債の感覚なしに、肯定的に受け止めるにはどのような方法があるのかを物語のなかで描こうとしているのではないか。
 作中、突然に、ヘミングウェイ『日はまた昇る』のある一節が引用される。語り手に代わって、この文章が綴られている出典元の場面を説明すると次のようになる。主人公で、戦争で負った傷によってインポテンツになったジェイク(ヘミングウェイが自己を投影した男だ)は、爵位があり、奔放に振る舞うブレットに思慕の念を抱いている。だが、道徳的規範に縛られないブレットは、ジェイク以外の男性たちとも関係を持つ。ジェイクはブレットとの恋愛の不可能性に悩みながら、女性と友情の基礎を作るにはまず惚れること、しかし、その関係を一方的に享受するだけではダメで、代償を支払わなければならないこと、を説く。この警句を、自らのこととして引きつけて考える「私」は、二十年ほど前の「勘定書」の支払いを済ませに行く。そのことが、自身の欠落を埋めることになるからである。
 当時、「私」はミスミとともに、何度か塔を探しに出かけた。彼女はその都度、記憶の引き出しを開けて、その断片を「私」の前に並べていった。ミスミの出身地について知る手がかりは母親が遺したナルトとサンブという言葉だけであること、塔の写真を撮影した日に母親が彼女を轢死させようとしたこと、泣きながらカレーライスを食べていた母親の姿。現在の「私」はこうした記憶の切れ端をヒントに塔の正体、「our age」という言葉の謎、そして、ミスミすら知り得なかった彼女の母親の秘密を探っていく。
 書評の冒頭で述べたように、「私」はどこか生気が枯れ果てたような男として、まず、小説に現れた。思えば、このような生のエネルギーが枯渇した状態の人間をいかに物語のなかで捉えるかという試みは、岡本学という小説家の原点としてあった。デビュー作『架空列車』は社会からこぼれ落ちた主人公が、東北のある街に住み、そこで架空の路線図を地図に描き、自転車で日々、走行するという話が前半に置かれる。そのうちに主人公はそんな空疎な行動に生きがいを感じ始める。だが、東日本大震災が起きると、それすら失われてしまう。小説は避難所という社会でですら殻に閉じこもる主人公が、架空の財貨を失ったことで抱える途方もない虚しさと、震災以後、私たちが囚われていたうつろな感覚を共鳴させることに成功していた。
 あれから八年が経ち、本作で、作者はひとりの人間が、自身の内部に巣くう空虚さを満たしていく姿を描いた。作中にちりばめられた全ての謎が解けたとき、空回りしていた「私」の原動機が動き始める。かつての友情の対価としてミスミの探していた過去を代わりに見つけ出そうとした「私」は、逆に彼女によって生きる意味を与えられてしまう。それは皮肉だ。しかし、生きるということは、そんなアイロニーの上に成り立っているのである。小説は人生における一つの真理を導出している。
(講談社刊・税別定価一四〇〇円)