旅する練習

乗代雄介

1550円

書くという自然

金子由里奈

書評依頼が来たときもう飛びつくように「書きます!」って言ってしまったが、ずっと書けないでいる。書いては消してのわだちだけが残り、道路がぐちゃぐちゃ。二つ返事をしたのは乗代雄介の書く小説が、言葉がとても好きだったし、書き続けることが当然であるかのようなその態度に何度も勇気をもらったし、『旅する練習』は完全に傑作だったから。完全に傑作だったんだけど、読みながら私はかなり混乱した。書くように読んでしまって。揺れる心を律することなんてできなくて、忍耐が破裂するようにわんわん泣いたし、ちゃんと傷ついた。この体験とどう距離を取ればいいのかずっとわからないでいる。わからないなりに、でも、この小説に出会う人がひとりでも増えてほしい。そういう発願から不器用に手を動かしてみようと思う。
 サッカーの大好きな小学六年生・亜美が、叔父である小説家の「私」に頼み事をする。鹿島の合宿所に置いてあった本があまりに面白く持って帰ってきてしまったから、それを返すのに同行してほしいと。「私」は、亜美の卒業式が終わったら、鹿島アントラーズのホームゲームを見に行くついでに本を返しに行くという計画を立てる。しかし、ふたりの、社会の状況が一変する。二〇二〇年あの三月。新型コロナウィルスの感染拡大で、卒業式も入学式もクラブもなくなり、旅の計画も立ち消えてしまう。どこにも行けないのに、中学からの宿題だけが増えていく。問題集に、日記帳。やな宿題はぜーんぶゴミ箱に捨てちゃいたい退屈な亜美に「私」は鹿島の合宿所まで歩いて行こうと提案をする。「行く!」と無邪気に喜ぶ亜美に条件を加える。「私」が風景描写の練習をしているとき、隣でリフティングの練習をしながら大人しく待つというものだ。そうして、「歩く、書く、蹴る」練習の旅が始まる。
 旅で「私」が見た風景描写は、細かな筆で書き込まれ、見ることと書くことが一致しているかのよう。想像力の出番なし。まるで書くように読んで、彼の視線をまるごとメガネのようにかけられる。そして、「私」にとっては文学の旅でもあり、先々で瀧井孝作や柳田國男、小島信夫、その場所の文学の気配に耳をそばだてる。亜美はリフティングの前に、お不動さんで知った真言を意味も分からないまま、大好きな『おジャ魔女どれみ』の呪文みたいに唱えるようになる。やがて、偶然出会った大学四年生のみどりも旅に加わり、豊かな旅は続いていく。
 この小説は、旅から三ヵ月後の「私」が旅を振り返りノートを片手に書いたものらしい。旅の途中で彼が書いた写生文や亜美の日記も現在の時制の彼が書き写しているようだ。写生文には日付と時間、亜美のリフティングの回数が記録されている。例えば、三月九日 11:40~12:12 84というように。32分のリニアな時間を84回のリフティングが刻んでいる。サッカーボールに空気が入っているように、この文字には、そういう時間が内包されている。
 みどりが姿を消してしまった次の日、亜美がみどりの手に書いた真言を手がかりにみどりがどこへ行ったのかを探る場面がある。「心を込めて書いたんだろ」「書いたことはなくならない」「私」の書くことへの信仰がみえる台詞だ。心を込めて書いた右手が亜美より先にそれを思い出す。そうか。「私」は書くことで場所に散逸した亜美の記憶を手が真っ黒になるまでかき集めているんだ。ノートも文字で真っ黒になって、真っ黒だけどそれは光源で、亜美の影を照らす。私たち読者が、その姿を形取るために。見知らぬだれかの視線は、慰めであり祈りだから。過去で吸った息が、誰かの視線で声になるために。だから書く。だから、他者に視線を向けるんだ。思い出されることは命そのものなんだ。
 しかし、どこまで行っても言葉は不完全だ。だからこそ偽りのない真言があり、「魔法の呪文」がある。意味がわからないまま唱えたっていい。もしかしたらこれは写経で、我々は読経をしているのかもという気にすらなってくる。だから、この小説は映画化できない。「私」が手を動かし書いた時間、たった二四〇枚でもその地層のように深い時間と、それを掘り起こし続ける「私」の忍耐との対話は、書物という対話形式の中でしか成立しないだろう。
「どうやったらサッカーをするために生まれた人間になれる?」旅でたびたび見かけたカワウの生き方に感嘆し、亜美は「私」に尋ねる。人間はサッカーをしなくても、書かなくても死なない。それはカワウのように、魚を獲るための身体を獲得していないから。書く練習を続ければ、書くことが習慣化された身体を獲得すれば、カワウのようになれるのかもしれない。書くことが手段でなく、それが絶対的な方途であり自然であるような生き方ができるのかもしれない。著者自身も二〇年間「ブログ更新のため」に生きてきた。「僕にとってブログは、書いたものをたくさん置いておけて気に入らない文があればいつでも直せる自分のための練習の場で、それ以外の意味はあまりなかったように思います」(「週刊はてなブログ」)。著者が、カワウのように目が良くて、デッサン力も凄まじいのは、二〇年以上練習してきたからなんだ。私も、どっきりどっきりDON DON!! 不思議なチカラが使えるようになりたい! 私の好きなことは「映画」だ。映画館だ。ひとりひとりが自分のセコムを外し巨大なひとりになって映画に衝突するあの空間がだいすき。あれに、生きることを合わせてみたい。誰にも頼まれずとも映画を撮り始めた自分は、鳥が誰にも頼まれずとも飛ぶように、自然で、きれいだったと思う。練習しなくちゃ。映画を作ることを、映画館で映画を観ることを私が生きたことそれ自体にするために。本を読み終えたいまなら、水面をつよく蹴って、自分の内側へ思いっきり飛べそう。前より、自分の声が鮮明に聞こえる。そういう気持ちになれたから、『旅する練習』を「好きなこと」がなにかひとつでもある人に、絶対読んでほしいです。
(講談社刊・税別定価一五五〇円)

書評依頼が来たときもう飛びつくように「書きます!」って言ってしまったが、ずっと書けないでいる。書いては消してのわだちだけが残り、道路がぐちゃぐちゃ。二つ返事をしたのは乗代雄介の書く小説が、言葉がとても好きだったし、書き続けることが当然であるかのようなその態度に何度も勇気をもらったし、『旅する練習』は完全に傑作だったから。完全に傑作だったんだけど、読みながら私はかなり混乱した。書くように読んでしまって。揺れる心を律することなんてできなくて、忍耐が破裂するようにわんわん泣いたし、ちゃんと傷ついた。この体験とどう距離を取ればいいのかずっとわからないでいる。わからないなりに、でも、この小説に出会う人がひとりでも増えてほしい。そういう発願から不器用に手を動かしてみようと思う。 

サッカーの大好きな小学六年生・亜美が、叔父である小説家の「私」に頼み事をする。鹿島の合宿所に置いてあった本があまりに面白く持って帰ってきてしまったから、それを返すのに同行してほしいと。「私」は、亜美の卒業式が終わったら、鹿島アントラーズのホームゲームを見に行くついでに本を返しに行くという計画を立てる。しかし、ふたりの、社会の状況が一変する。二〇二〇年あの三月。新型コロナウィルスの感染拡大で、卒業式も入学式もクラブもなくなり、旅の計画も立ち消えてしまう。どこにも行けないのに、中学からの宿題だけが増えていく。問題集に、日記帳。やな宿題はぜーんぶゴミ箱に捨てちゃいたい退屈な亜美に「私」は鹿島の合宿所まで歩いて行こうと提案をする。「行く!」と無邪気に喜ぶ亜美に条件を加える。「私」が風景描写の練習をしているとき、隣でリフティングの練習をしながら大人しく待つというものだ。そうして、「歩く、書く、蹴る」練習の旅が始まる。 

旅で「私」が見た風景描写は、細かな筆で書き込まれ、見ることと書くことが一致しているかのよう。想像力の出番なし。まるで書くように読んで、彼の視線をまるごとメガネのようにかけられる。そして、「私」にとっては文学の旅でもあり、先々で瀧井孝作や柳田國男、小島信夫、その場所の文学の気配に耳をそばだてる。亜美はリフティングの前に、お不動さんで知った真言を意味も分からないまま、大好きな『おジャ魔女どれみ』の呪文みたいに唱えるようになる。やがて、偶然出会った大学四年生のみどりも旅に加わり、豊かな旅は続いていく。 

この小説は、旅から三ヵ月後の「私」が旅を振り返りノートを片手に書いたものらしい。旅の途中で彼が書いた写生文や亜美の日記も現在の時制の彼が書き写しているようだ。写生文には日付と時間、亜美のリフティングの回数が記録されている。例えば、三月九日 11:40~12:12 84というように。32分のリニアな時間を84回のリフティングが刻んでいる。サッカーボールに空気が入っているように、この文字には、そういう時間が内包されている。 

みどりが姿を消してしまった次の日、亜美がみどりの手に書いた真言を手がかりにみどりがどこへ行ったのかを探る場面がある。「心を込めて書いたんだろ」「書いたことはなくならない」「私」の書くことへの信仰がみえる台詞だ。心を込めて書いた右手が亜美より先にそれを思い出す。そうか。「私」は書くことで場所に散逸した亜美の記憶を手が真っ黒になるまでかき集めているんだ。ノートも文字で真っ黒になって、真っ黒だけどそれは光源で、亜美の影を照らす。私たち読者が、その姿を形取るために。見知らぬだれかの視線は、慰めであり祈りだから。過去で吸った息が、誰かの視線で声になるために。だから書く。だから、他者に視線を向けるんだ。思い出されることは命そのものなんだ。 

しかし、どこまで行っても言葉は不完全だ。だからこそ偽りのない真言があり、「魔法の呪文」がある。意味がわからないまま唱えたっていい。もしかしたらこれは写経で、我々は読経をしているのかもという気にすらなってくる。だから、この小説は映画化できない。「私」が手を動かし書いた時間、たった二四〇枚でもその地層のように深い時間と、それを掘り起こし続ける「私」の忍耐との対話は、書物という対話形式の中でしか成立しないだろう。

「どうやったらサッカーをするために生まれた人間になれる?」旅でたびたび見かけたカワウの生き方に感嘆し、亜美は「私」に尋ねる。人間はサッカーをしなくても、書かなくても死なない。それはカワウのように、魚を獲るための身体を獲得していないから。書く練習を続ければ、書くことが習慣化された身体を獲得すれば、カワウのようになれるのかもしれない。書くことが手段でなく、それが絶対的な方途であり自然であるような生き方ができるのかもしれない。著者自身も二〇年間「ブログ更新のため」に生きてきた。「僕にとってブログは、書いたものをたくさん置いておけて気に入らない文があればいつでも直せる自分のための練習の場で、それ以外の意味はあまりなかったように思います」(「週刊はてなブログ」)。著者が、カワウのように目が良くて、デッサン力も凄まじいのは、二〇年以上練習してきたからなんだ。私も、どっきりどっきりDON DON!! 不思議なチカラが使えるようになりたい! 私の好きなことは「映画」だ。映画館だ。ひとりひとりが自分のセコムを外し巨大なひとりになって映画に衝突するあの空間がだいすき。あれに、生きることを合わせてみたい。誰にも頼まれずとも映画を撮り始めた自分は、鳥が誰にも頼まれずとも飛ぶように、自然で、きれいだったと思う。練習しなくちゃ。映画を作ることを、映画館で映画を観ることを私が生きたことそれ自体にするために。本を読み終えたいまなら、水面をつよく蹴って、自分の内側へ思いっきり飛べそう。前より、自分の声が鮮明に聞こえる。そういう気持ちになれたから、『旅する練習』を「好きなこと」がなにかひとつでもある人に、絶対読んでほしいです。