ハロー、ユーラシア 21世紀「中華」圏の政治思想

福嶋亮大

2200円(税込)

鏡の国々のユーラシア

木澤佐登志

著者の出世作は『サスペンス映画史』(みすず書房)だった。同書は、世間で既に「サスペンス映画」として認知された作品群を論じたものではなく、「サスペンス(宙吊り)」に「不自由の体験」を見出した上で、「不自由の体験」の組織化という観点から映画史全体を書き直す試みだった。その際、著者はまた、脱線を許されず、敷かれたレール上をひたすら進む他ないという「不自由の体験」が、書物にも当てはまるだろうことを仄めかしてもいた。
「自分の身体を実験台にして」書いたとされる本書で、著者自身である「私」の周囲に幾つもの「不自由の体験」が積極的に組織されることになるのは、したがって、必然だ。序盤では、「LA(ロサンゼルス)」での「生活」全般において「いろいろと日本の習慣が通じないことを痛感させられ」る様子が描かれる。「おいしいもの探し」が開始される中盤では、ジョナサン・ゴールドの著作など、様々な「食べたくなる本」(著者の「料理本批評」書〔みすず書房〕のタイトル)に導かれるかたちで「料理屋を巡礼する日々」が語られる。「私」の勤務する大学の「在外長期研究休暇制度」を利用したLA滞在が終わって「帰国」する終盤では、「日本の日常のあらゆるディテイルに、違和感と驚きとを覚えた」ことが綴られる。この最後の点は、著者の「サスペンス」論に従えば、「不自由の体験」それ自体ではなく、その効果として理解することも可能だ。「不自由の体験」を強いる「スペース」での滞在は、「日常」そのものに対する知覚も根底的に変容させてしまうというのが、三浦の議論だった。
 しかし、「私」及びそれに連座させられる我々読者に「不自由の体験」を本書全体を通じて突きつけ続ける最たる装置は、やはり、「私たち家族」なる主体の存在だろう。「まえがき」では、本書で語られるのは、「二〇一九年四月から二〇二〇年三月までの一年間」の「LA」での「生活」、とりわけ「食経験」を通して「私たち家族」が「別人になる」あるいは「生まれ変わる」物語だと予告される。そして、LA到着から始まる第一章では、その「私たち家族」は「私」、「妻」、「五歳になったばかりの娘・春香」、「二歳半になる息子・秋良」から成ることが示される。本書の主人公は「私たち家族」であることが宣言されるわけだ。しかし、そうであるにもかかわらず、著者の筆は、章が進むにつれて、「私」が「体験して考えた」ことへと集中してゆき、「妻」も「春香」も「秋良」も行外に弾き出されていってしまう。こうして、本書では、主人公であるはずの存在について何も知ることができないという「不自由の体験」が組織される。「私」が「USC(南カリフォルニア大学)」で「映画と牛の関係について」の講演をしている間、「私たち家族」の他の構成員はどう過ごし、何を食べていたのか。講演に専念する「私」にも、その再録全文を読まされる我々にも、まったくわからない。
 だからこそ、本書終盤での彼らの再登場はサプライズを伴うものとなる。LA滞在の「最後の数週間」を描く頁では、「テレビのNBAチャンネルをつけてレイカーズ戦かクリッパーズ戦を観賞しつつ、近所の行きつけの良心的なメキシコ食堂〔…〕からテイクアウトしてきたカルニータス・タコ〔…〕とビールを満喫」することが、「妻」にとって、「気兼ねなくリラックスする」と呼び得る行為の一つになっていたことが明かされる。いつどのように彼女は「大のレイカーズ・ファンになっ」たのか、カルニータス・タコと出会ったのか、NBAテレビ観戦とタコとビールとを組み合わせるに至ったのか。本書を織り成す文字の外で、「妻」は「別人になる」過程を独自に辿っていたのであり、その結果だけがこうして文字内に突如として与えられるのだ。
「春香」についても同じだ。第一章冒頭では、「成田から北京経由で十数時間のフライトを終えて」LAに到着した夜に「春香」が「空港内にあるセブン−イレブンの菓子パン」を口にした際の様子が次のように説明される。「春香は、菓子パンを一口かじるなり、まずい、と言ってそれ以上食べようとしない」。これに対して、最終章では、「栄養」や「食育」の観点から「望ましい食品」を彼女に食べさせようとした際の彼女の反応が次のように描写される。「すこしでも異物感があると、とたんに警戒心で身をこわばらせ、「ヤック!(おえー)」と言って、吐き出す。/ケチャップはそこで娘にとって頼みの綱というか、わけのわからない食べ物の異物感を中和し、喉を通るようにしてくれる何かであるようだった」。「まずい」から「ヤック!」へ。「それ以上食べようとしな」かったことから、「ケチャップ」によって「異物感を中和」させることへ。「春香」もまた「別人にな」っている。「私」について書き連ねられる文字列に我々の目が縛り付けられていたその最中に、「私」と我々の視界の外で、彼女もまた、独自に「LA」を生き、いつの間にか「生まれ変わ」っていたのだ。
 最も謎めいた存在は「秋良」だ。「セブン−イレブンの菓子パン」の件には、彼もそれを拒んだとの記述があるが、それ以後、彼については、「別人になる」過程はおろか、その結果すら語られない。しかし、「LA」の「魔法のような」「力」によって自己を「再発明」したのはあくまでも「私たち家族」だとされる以上、「秋良」もまた、その「身体」に何らかの新たな「襞」を「折り畳」んだに違いない。成長した彼が何かを「おいしい」と感じたとき、そこで「輝き出」しているのは彼自身の「LAフード」かもしれない。文字の外で、しかし、彼もまた、確かに「LA」を生きた。だからこそ、本書は「春香」と「秋良」に宛てられた次の一文で締め括られるのだ。「やがてこの本を読み、君たちがどんな場所にいたかを知る日が来たらとてもうれしい」。
(講談社刊・税込定価一八七〇円)

 カエルのペペというミームがある。元はアーティストのマット・フューリーが生み出した漫画キャラクターで、その名の通りカエルを擬人化させたブサイクで愛らしいキャラクターだった。だが、ペペはインターネットの匿名掲示板4chanにおいてインターネット・ミームとして流行し、やがてそれは独り歩きをはじめた。ペペのミームは怒りやヘイトを伴う投稿にも用いられ、遂には後の大統領、ドナルド・トランプがツイッター上で自身の髪型を模したペペのイラストをリツイートするに至り、カエルのペペはオルタナ右翼の公式マスコットキャラクターと化した。二〇一六年、カエルのペペは名誉毀損防止同盟(通称ADL)によってヘイトシンボルに認定された─。

 以上のエピソードが本書とどのような関係にあるのか、訝しむ向きもあるかもしれない。実はこのカエルのペペ、二〇一九年の香港における民主化運動のシンボルになっていたのである。逃亡犯条例の改正に端を発するこの運動は、「普通選挙の実現」を含む五大要求を掲げた大規模なデモへと発展していた。そしてカエルのペペは、「自由」と「希望」の象徴として、香港のデモ隊と路上を彩ったのだ。

 この、一見すると不可解なペペの「転生」について、メディアは概ね肯定的に捉えているようだ。ペペのドキュメンタリー映画『フィールズ・グッド・マン』も、この「ヘイト」から「自由」と「民主化への希望」への劇的な(?)変貌を、オルタナ右翼からのペペの奪回として描き、ペペの生みの親マットは「ペペにも再び変われる可能性がある」と笑顔でコメントした。

 筆者としては、そうした事実があることに興味を惹かれながらも、香港でのペペの「転生」に対して、どこか腑に落ちない部分があったことも告白しておかなければならない。そんなわけで、ペペの「転生」エピソードは、魚の小骨のように筆者の喉に刺さり続けていたのであるが、本書を読んで、ようやく長年の疑問が氷解したような気持ちになれた。

 本書の中で福嶋は、香港の民主化運動の中心にあるのは「本土主義」、すなわち香港の利益を第一として、香港独自の価値(法治と自由)を守り、中国からの干渉に対して防衛線を張ろうとする考え方である、と指摘する。一九七〇年頃から徐々に醸成されてきた、自分の故郷としての本土の意識は、二〇一九年の反送中運動において香港内部のセクショナリズムを解消し、香港を本土主義の下でひとつに統一させた。本土主義の高まりの背景には、中国の政治的な圧力のみならず、悪質な中国人観光客の増加や、香港住民になる権利を得るために大陸から大挙して押し寄せてくる「新中国人」の存在があるという。新住民に抵抗する文化防衛を唱える本土主義には、香港を中国大陸から切り離す分離主義を唱導する、極めてナショナリスティックなイデオロギーとしての側面がある。

 香港で起っていることは、見かけよりもずっとややこしいのである。福嶋は、「日本のリベラルは香港の市民的不服従を礼賛するわりに、中国との分離を訴える右翼的な本土主義には目をつぶっている」と舌鋒鋭く指摘する。福嶋によれば、香港の本土主義者たちは、エリート的なリベラル左翼の偽善と道徳主義を唾棄し、エスタブリッシュメントに喧嘩を売り、中国の危険性を訴えるドナルド・トランプを自分たちの代弁者として担ぎ上げた、という。以上の記述を読んで、香港のデモで掲げられるカエルのペペの相貌が、どこか変容して見えてきた。そして、なぜ彼らがカエルのペペをこそ自分たちの運動のシンボルに選んだのか、その核心部分を垣間見た気がした。

 福嶋は、右派/左派(あるいはリベラル)といった区分に雑に還元して良しとするのでなく、香港を含めた東アジア情勢の複雑な襞を丁寧に腑分けしていく作業のなかで、個々のイデオロギーを支える核に迫ろうとする。その手付きは間違いなく信頼できるものだ。

 二一世紀に入って、地政学的な「空間」という観念がますます大きく浮上してきているように思う。たとえば、EUからイグジットした現在のイギリスにおいて、保守系論者の一角で唱えられている「アングロスフィア」なるイデオロギー。これは、カナダやオーストラリア、ニュージーランドといった、世界に散らばるかつてのイギリスの「移住植民地」や「ドミニオン」と呼ばれた国々との一層緊密な統合を訴える構想である(当然そこには香港も含まれるだろう)。この「帝国2・0」の構想は、すでに失われた大英帝国へのノスタルジーを未来への駆動力としているという点で、時間錯誤的であり倒錯的である。他にも、ロシアではドゥーギンを宗主とする新ユーラシア主義が勃興し、その脇には正教の復活を背景とするロシア宇宙主義の亡霊が漂っている。現代中国が推し進める天下主義や一帯一路構想─新しいシルクロードという物質主義的なユートピア─に象徴される地政学的イデオロギーの隆盛は、イギリスのアングロスフィアやロシアの新ユーラシア主義などとパラレルな現象として捉えることができる。だがそれだけではない。福嶋によれば、こうしたユートピア的なプロジェクトは、一九三〇年代以降の日本、すなわち大東亜共栄圏の記憶をも鏡のように映し出しているのだ。中国の「分身」としての日本。ユーラシアへの眼差しが、日本の過去(そして現在)を照らし出す、そのような惑星的な視座を本書は提示している。

 中国の鏡としての香港(天下主義と本土主義)、そして日本の鏡としての中国(大東亜共栄圏と天下主義)。大国は空間を志向し、片やロシア宇宙主義と劉慈欣『三体』は宇宙を夢想する。複数の鏡(の国)と複数のスペース(そこには往々にして集合的記憶という名の亡霊が徘徊している)が混在しながら乱立する、ユーラシアという時間と空間の蝶番が外れた魔境を散策する上で、本書は優れた手引きとなってくれることだろう。