近代を彫刻/超克する

小田原のどか

1430円(税込)

この国のかたち――小田原のどか著『近代を彫刻/超克する』が照らしだすもの

山本浩貴

 およそ近代以降に成立したあらゆる国家のうち、(さまざまな意味や位相において)歪んだ、歪なかたちをしていないものを想像することは困難である。それらは近代を特徴付ける帝国主義と(その鬼子としての)植民地主義の暴力的プロセスの直中で形成されたポストインペリアル/ポストコロニアルな産物であり、それゆえ、理不尽で凄惨な暴力を行使した側にとっても、された側にとっても、それぞれの国のかたちに不均衡な歪みが発生することは理の当然である。もちろん、この国も例外ではない。「彫刻」という芸術ジャンルを主題に据えて本邦の近代史を眺め直すことで、戦後日本がその内部にはらんできた歪み、そして、その歪みが塑造した歪なかたちが浮き彫りになってくる─小田原のどかによる最初の単著『近代を彫刻/超克する』は、日本を中心とした近現代彫刻史における具体的な事件や作品を例として取り上げながら、そのことを私たちに示す。

 この国が内包してきた歪みは、まだほとんど手つかず、つまりは本質的に未解決のまま残されてきた。「本質的に未解決」であるとは、そうした歪みを作り出している構造が温存されてきたことを意味する。そうした構造を暴き出すことにテキストを通じた介入の可能性が生まれ、ここに本書の現代的意義を見いだすことができる。そうした歪みを考えることは、現在の日本が抱える諸々の問題を考えることに直結しているのだ。その証左に、小田原は『近代を彫刻/超克する』のなかで、戦時中や戦後初期の事例だけではなく、現代日本を舞台として展開された「彫刻を取り巻く困難」にも言及を加えている。そのひとつが、いまだに(現代美術に関心のある)多くの人々の記憶に新しいであろう、2018年の福島市に出現した《サン・チャイルド》をめぐる一連の論争である。すなわち、これはわずか数年前に本邦で実際に起こった出来事ということになる。

《サン・チャイルド》は、現代日本美術を代表する彫刻家・アーティストのヤノベケンジが東日本大震災をきっかけとして制作を開始した、高さ六・二メートルの大型彫刻である。小田原によれば、その作品には「同じ造形、サイズのものが三体あり、そのうち一体は一二年から作家の出身地である大阪府の南茨木駅前広場に恒久設置されている」という。しかし、この像(のひとつ)が、2018年9月、福島市の文化施設「福島市子どもの夢を育む施設こむこむ」前に設置されると、それとほぼ同時に、その「痛々しい顔の傷、放射線防護服のような衣装、そして胸のカウンターが示す『000』の数値」などが問題視され、国内外のメディア、地域の人々、一般市民からの大量の批判にさらされることとなった。その結果、除幕から1週間も経たないうちに、ヤノベは「一部の方々に不愉快な思いをさせてしまったことについて」謝罪のコメントを発表し、さらにそれから1ヵ月ほどのちには、「こむこむ」前の《サン・チャイルド》が解体・撤去された。

《サン・チャイルド》はそれまでに、いくつかの国内外のビエンナーレ(国際芸術祭)などに出品されてきたが、周囲にほかの美術作品が置かれていない場所に展示されたのは、このときがはじめてであった。すなわち、福島の《サン・チャイルド》が設置された場は、きわめて公共性の強い空間であったと言える。ヤノベは、放射性物質の漏出を伴った1991年の美浜発電所での事故以来、自らの制作を通じて放射能の問題に真剣に取り組んできた作家であるが、「『こむこむ』前で作品を見る人は、作家の過去の取り組みを知るよしもない」。こうしたことから、小田原は本件を「公共」という問題に接続する。すなわち、「公共空間に置かれた作品は美術館や芸術祭とは異なり、造形表現に込められた暗喩や明喩をめぐる約束事を共有した者ばかりが見るわけではない」。

《サン・チャイルド》の件以外にもたくさんの事例を紹介しながら、小田原が本書の随所で指摘するように、彫刻は公共空間との結びつきが強い芸術ジャンルである(「『公共絵画』とも、『公共工芸』とも、『公共写真』とも人は言わない。しかし、『公共彫刻』と人は言うのである」)。それゆえ、ブラック・ライヴズ・マター(BLM)や#Me Tooムーブメントといった近年のグローバルな政治運動に端を発し、世界各地の公共空間でなされた彫像の建造や(反対に)引き倒しの動きも本書の分析の対象となっている。『近代を彫刻/超克する』がその主要な目的のひとつとして掲げる、「公共彫刻を「公共」という概念を探るための手立てに」することは、こうした分析においても貫かれている。

 美術展という枠組みのなかで展示された彫刻作品ではあったが、「公共」という概念をめぐって日本で激しい論争を巻き起こしたもうひとつの事例が、韓国のキム・ソギョンとキム・ウンソン夫妻の手で制作された《平和の少女像》である。これまた私たちの多くの記憶のなかにまだ生々しく残っているであろう、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の一企画「表現の不自由展・その後」での出来事だ。この出来事についても、小田原はそれを表現、アート、キュレーションの問題のみに矮小化するのではなく、戦争や植民地支配の歴史に関する本邦の戦後教育を含む、この国のかたちを映し出す鏡としての彫刻と社会の交わりという観点から広く考察することを提言する。

 アメリカやドイツでも、公共空間に設置された大型彫刻をめぐって政治的な論争や反対運動が起こってきた。『近代を彫刻/超克する』では、リチャード・セラの《傾いた弧》(ニューヨーク市)やジョージ・リッキーの《三枚の正方形》(ミュンスター市)をめぐる論争やその顚末が、鋭い分析を交えて語られている。その詳細はここでは省くが、反省的な熟議と対話のプロセスを経て、いずれのケースも両国の「公共空間の彫刻を考えるうえでのターニングポイントとなった」ことは重要な事実である。《サン・チャイルド》をめぐる騒乱においても、《平和の少女像》をめぐる騒乱においても、多様な視点から互いに襟を開いて率直に異なる意見─他者の実存を否定するようなヘイトスピーチが正当な「意見」として認められないことは言うまでもない─をぶつけ合い、ベターな合意を探っていくための民主主義的で成熟した議論が十分になされてきたとは言いがたい。それゆえ、これらの問題を、今後、いかにしてより開かれた公的プロセスを実装した、討議のためのプラットフォームの構築につなげていけるのか─その行く末が問われていくだろう。そして、小田原の新著が、そうした目的のために必要な、たくさんの思考の糧を未来に向けて解き放つことは間違いない。

 とりわけ《平和の少女像》をめぐって引き起こされた一連の事件は、ジェンダーにまつわる根深い問題をはらんでいる。このことは、『近代を彫刻/超克する』の第1章・第5節「空の台座と女性像」において中心的に論じられる、敗戦後に目立つようになった女性裸体像の濫造という現象との歴史的連続性が見られる。戦時中は金属資源の回収のため、戦後は占領軍による統制のため、軍神や将軍を模した銅像は急速に日本から姿を消していった。その代わりに各地に出現したのは、平和のシンボルという(強いられた)役割を(一方的に)担わされた無数の女性裸体像であった。この現象には、女性性にまつわる神話や「母性」なる虚構とも親和性の強い、ジェンダー・バイアスのかかったステレオタイプがへばりついているが、小田原は本邦における彫刻教育の問題点も指摘する─「この国において彫刻を学ぶこととは、裸の女の像をうまくつくる技術を習得することに等しいと言っても過言ではない」、と。この指摘は、近年さまざまな領域(社会学、文化政策、教育学、ジェンダー・スタディーズなど)から問題提起がなされ、さかんな議論が重ねられつつある、現在の美術教育におけるジェンダーにまつわる諸問題とも深く関与している。ここにも、『近代を彫刻/超克する』が含みもつ射程の長さ、その幅広い現代的アクチュアリティの一端が確認できる。

 小田原はあとがきのなかで、「彫刻を『思想的課題』として提示することを目論んだため」、『近代を彫刻/超克する』では「彫刻という存在を、美術史や美術批評の埒外に置きたいと考えた」と告白している。その目論見が、一定以上、達成されていることに異論の余地はない。だがしかし、「彫刻」という芸術ジャンルをメインテーマにしている以上、同書が美術史や芸術論の研究として読まれることは避けられないであろう。

 そこで、ここではこの本の美術史的な意義も考えてみたい。そのためには、あえて著書の意図に反するかたちで、「彫刻」という芸術ジャンルを、美術史や美術批評の「埒内」に置き直し、その特異な位置付けを前景化させる必要がある。美術史家の北澤憲昭らの調査に詳しいが、「美術」という言葉は、万国博覧会の開催などを背景として、明治期の日本で誕生した比較的新しいものである。この言葉の登場とほぼ時を同じくして、「芸術」の領域において視覚を優位とするヒエラルキーが生まれ、視覚と結びつきの強固な「絵画」がその頂点に立った。同時に、同じ力学の反作用として、触覚を重視する「工芸」は、「芸術」の領域からつまはじきにされることとなった。こうして、「芸術」において、「絵画」の中心化と、「工芸」の周縁化が同時に発生した。

「彫刻」は、「芸術」の領域のなかで、この─すなわち「絵画」と「工芸」の─中間地帯に位置する。その「in-betweenness」ゆえに、研究者にとって、「彫刻」はきわめて「elusiveな」存在となっている。そのことが、日本における近現代彫刻史の際立った空白を生み出してきた主要な原因ではないか─私はそのように考えている。そうした意味でも、小田原の新著は、美術史・芸術論のブラインドスポットを埋める、このうえなく重要な著作として輝きを放っている。

 小田原のどか著『近代を彫刻/超克する』を通読し終えて、私は一抹の清涼感と同時に、ぬぐいがたい疲労感(とはいえ、それは不快な感覚ではなかったが)を覚えた。この本は超長編というほどの長さではない。また、そこで展開されている議論はけっして単純なものではないが、その明快な論旨運びゆえに、読者を置き去りにすることもない。しかも、これは小田原の生まれもった才能(のひとつ)ではないかと以前から考えているのだが、同書は読む者の心をぐっとつかんで離さないような、「読ませる文体」に仕上がっている。では、そうしたことにもかかわらず、読後の際立ったエネルギー消費感はどこからやってきたのだろうか。それは、『近代を彫刻/超克する』の執筆を通して、小田原がなにか「パンドラの箱」のようなものを開けてしまったのではないか、という予感だ。その予感は、本文を読み進めていくうち、確信に近いものに変わっていった。

 小田原が同書で克明に描き出したこの国のかたちにひそむ歪みは、ジェンダー、教育、民主主義などに関係する、本邦が抱える多くの重要問題の根っこに存在しているものであろう。(繰り返すと)小田原自身は「彫刻という存在を、美術史や美術批評の埒外に置きたい」と言うが、それが「彫刻」という芸術の一ジャンル(とされているもの)を主題としているのであるから、私自身を含む美術史家・文化研究者は誰もが本書が提起する「思想的課題」を無視することはできない(その規格外の大きさにひるんで、見て見ぬ振りをすることはできるかもしれないが)。

 そして、最後になるが、このパンドラの箱をいったん開いてしまった以上、自身もあとがきで決意を新たにしているように(「これからもわたしは言葉を尽くしたい」)、今後、小田原には、そこから無数に派生するさまざまな問題(「思想的課題」)にひとつひとつ取り組む重責が課されてくるだろう─同世代のもっとも信頼に足る書き手の一人である(と私が信じる)著者にそう告げて、本稿を閉じたい。とはいえ、そのことはなによりも本人が一番自覚しているだろう。ゆえに、このように述べることを、友人に向けた単なる「エール」にとどめておくつもりは毛頭ない。そうした思想的課題への取り組みのため、私もできるかぎりのことをしよう。