畏れ入谷の彼女の柘榴

舞城王太郎

1650円(税込)

横溢する祈り (あああああ!)

高島 鈴

〈愛は祈りだ。 僕は祈る。〉

 初めて一人で反差別デモの行進に参加した一八歳のとき、私はプラカードにそう書いて持って行った。舞城王太郎不朽の名作、『好き好き大好き超愛してる。』の一節だ。のたうって跳ねる怪物的ビートのうえで、美しい事象の飛躍と生々しい会話劇の取り合わせがギラギラ光る。物語という構造そのものとがっぷり四つに組み合うメタな展開がレールを逸れながら疾走する。舞城作品の魅力は数え切れないほどにあるのだけれど、「舞城王太郎から何を教わったか」と問われれば、私は迷わず、それは祈りだ、と答えるだろう。

『畏れ入谷の彼女の柘榴』は、舞城王太郎デビュー二〇周年の節目に刊行された短編集だ。生命を「孕ませる」指を得た子どもによって家族が揺らぐ表題作、人語を話す謎の猿と人を弄ぶ謎のカニのいる町で主人公が愛に悩む「裏山の凄い猿」、そして人の姿をした誰かの心残り─「お残りさん」と呼ばれる─が来訪する家に生まれた三きょうだいの物語「うちの玄関に座るため息」が収録されている。いずれも一見突拍子もない設定で、帯に書かれた「異譚」の称号にふさわしい。しかしながらこれら三つの物語は、いずれも「正しさ」を超えたところにある「優しさ」を問題にしようとしている点で一貫している。

「畏れ入谷の彼女の柘榴」では、主人公・伸一が妻・千鶴の不誠実さに対峙する。四歳の息子・尚登の「孕ませる」指を用いてあちこちで野放図な「おめでた」を引き起こしていた千鶴は、いくら伸一が命の重みを説いてもヘラヘラとして決して責任を認めない。理解できないのだ。

 命の責任を理解できない人がいる、という現実自体はわりとどうしようもない、というか変えようがない。それでも伸一は千鶴を軽んじないために千鶴を真剣に批判したうえで、千鶴の新しい人生がよりよくなるように祈る。これは正義を司る伸一が千鶴を断罪する構図ではなく、ただスタンスの違う人と人とが各々生きていくための試行錯誤であった。「優しさ」とは衝突の回避ではなく、目の前の存在に真剣に向き合って道を選ぶ態度を言うのだと思う。そして優しさは難しい。だから伸一は叫び、祈るのだ。己の無力にのたうち回るときの叫びや祈りは、決して弱くない。

「裏山の凄い猿」では、周囲の指摘で自分には愛が理解できないのかもしれないと悩み始めた「俺」が、町の人に悪さをする「カニ」による誘拐事件の解決に乗り出す。「山と川と海からは、妙なものを持ち帰らない」─人語を操って町の人を助ける「裏山の凄い猿」こと角田チーズは、電話で「俺」に「人間のルール」を伝えるが、「俺」はルールを破って目の前の存在を「持ち帰る」選択をする。

 肝心なのは「正しさ」の飛び越え方である。私は「正しさ」だけでは何もできないと考える言説を警戒するが、それは「正しさ」への疑いが不正義に対する異議申し立てへの冷笑的嫌悪としばしば結びつくからだ。そういう態度は「正しさ」の意味も理解していないし、行動も伴わない。人に優しくするには、どっちも必要なのだ。正しいものを正しいと理解する言葉と、他者に力を尽くす行動の双方が。だからこそ「俺」は自分の選択を受け入れるし、「裏山の凄い猿」はやはり「凄い」のである。そして「俺」は結局愛を確信するには至らないのだけれど、どこかで愛する人に出逢うための祈りだけは手放さずに終わる。この展開は、根拠なく、しかしとてつもなく明るい。

「うちの玄関に座るため息」は、「お残りさん」の家に生まれた三きょうだいの末っ子である智英の視点から、長兄・和真とその恋人・直哉─〈女性にしか見えな〉い〈男性〉である─に訪れる関係性の危機を描き出す。

 この家で「お残りさん」が消えるまで話を聞いてやるのは女性だけで、男性たちは何もしない。この差異は〈私は、私のことを、後悔を引き受けるつもりで、選んで欲しかったの〉と告げて和真のもとを去ろうとする直哉と、〈後悔しないように〉直哉を選んだと語り、直哉を引き留めようとしない和真との断絶に連続している。自分の中の「正しさ」に留まるのではなく、目の前の人に向き合って行動せねばならない! 〈『正しいのに間違っている』ってことがある。それは、あるのだ〉という智英のモノローグ通り、やはりここでも「正しさ」の乗り越えが求められるのだ。

 ただし本作、直哉を巡る描写には違和感も覚えた。クィアであり、ジェンダーに関する問題意識を常に抱えている直哉の悩みに対し、〈そんな悩み、そもそもいらない〉と言い、敬意を払っても問題は解決しないと言い放つ智英の所作には問題がある。むしろ敬意こそ、目の前の人を「引き受ける」ために必要なプロセスではないのか。また作中「性自認」という表現も登場するが、これはジェンダー・アイデンティティを自由意志で選択可能なものとして誤解させる可能性があり、避けるべき表記であると考える。

 言葉と行動、どっちも必要で、特に目の前の相手のために力を尽くす行為こそ不可欠である─舞城王太郎は突き抜けたシチュエーションからそれを何度も語り直しているように見える。そして万策尽きたときに浮上する無二の選択肢こそ、「祈り」であった。

〈あああ、あああああああ、そういうことが、たくさん起こりますように。〉

 表題作の最後、たくさんの祈りの最後に叫びが挿入されるのは、祈る心が言葉になりきらないからだろう。横溢した祈りは、文体からもはみ出して世界に拡がっていく。馬鹿みたいな想像をするけど、数え切れないほどたくさんの人たちがそれぞれの形で祈るしかないところまで誰かに向き合ったなら、マジで世界って変わるんじゃないか。ていうか変わってほしい。

 世界がもう少しマシになりますように。

 あなたがなるべく生きていてくれますように。

 祈るしかないときの祈りを受け止めてくれる本書が、私はどうにも愛しい。