貝に続く場所にて

石沢麻依

1540円(税込)

永遠の「青」

亀山郁夫

 この世にひとしく生を享けながら、非業の死をとげた人々の記憶を、私たちはどのように受け止めていけばよいのか。その死にたいしてどのような責任を果たすことができるのか。「鎮魂歌」、すなわち死者の霊を鎮める文学が、かりに小説のジャンルにおいても存在しうるとすれば、それはどのような形式が理想的といえるのか。そんな根本的な問いを招きよせる、重く美しい作品に出合った。石沢麻依『貝に続く場所にて』は、言語表現のぎりぎりの可能性を追求する試みに重ねて、震災後の今に生きる私たちの生の意味を問う、入魂の一作である。

 かつて詩人アンナ・アフマートワは、スターリン獄の犠牲者を悼む歌を、冷厳な音楽的形式にはめこみ、近しい知人の脳裏に詩行を刻みこんだうえで原稿を焼き捨てた。文字として残さないこと、それは、生き残った者たちの安全ばかりか、悼まれる死者の記憶を守るためにも不可避の営みだった。

 他方、この『貝に続く場所にて』における作者の決断とは、メタファーと擬人化の限りない重層性のなかに自らの「感傷」を閉じ込め、語り手としてのわれを、どこまでも滅し去ることにあった。果たしてその決断は、最後まで守られたのか。

 語り手の主人公は、現在、ゲッティンゲン大学で美術史の研究に勤しむ若い大学院生。ある日、知人の澤田から、大震災で行方不明となった野宮が来るとの知らせを受け、彼を迎えに駅頭に立つ。過去九年、その問いに正面から向き合うことなく、平穏な日々を生きてきたことにたいする自責の念が、物語全体の基調音となる。マスク姿で駅頭に現れた津波の犠牲者には、どこか「聖者」の面影が漂っていた。ことによるとその印象も、ドイツ美術の研究に没入する「私」の「感傷」の産物だったかもしれない。

 野宮の出現とともに、「私」の知人たちの心やゲッティンゲンの町それ自体が微妙に変容をきたしはじめる。すべての事物が一種のモナドと化し、そのいっぽうで街並みの端々から歴史のほころびが露わとなるのだ。ホロコーストの記憶もその一つ。ゲッティンゲンの町も、この町なりに絶滅収容所の重い記憶を引きずってきた。

 地球規模の災厄の犠牲者を追悼するからには、その規模に見合うだけのライトモチーフが不可欠となった。小説では、極大から極小までの振幅をもつ二つの装置がプロットを駆動する。まず、ゲッティンゲン駅頭から郊外へ延びる「惑星の小径」。次に、震災の直前に野宮が共感を口にした十六世紀ドイツの画家アルトドルファーの絵「アレクサンダー大王の戦い」。この二つの装置の助けを得て、町それ自体が、死者と生者が同等の権利で息づく四次元空間へと変容する。そしてそれら二つのライトモチーフがやがて一つに統合されるとき、この密やかな「鎮魂」の儀式に終わりが来る。

 問題はやはり、アートと鎮魂をめぐる関係性のありようと倫理性ではないだろうか。物語は、その静謐なたたずまいのうちに、アート(作り物)とリアル(現実)のぎりぎりの境界線で微妙な揺らぎを見せる。作品全体が、パステルナークばりのメタファーを駆使したアートとして、巧緻な戦略性に裏付けられた世界であることは明らかだが、境界線上の揺らぎは、まさに「私」の内心の揺らぎをも映し出す。

 絶妙な役割をはたすトリュフ犬の存在がその一つ。この愛すべきトリックスターは、世界を絵画的に見るという「私」の行為そのもののうちに潜む罪悪性の証となる。トリュフ犬が搔きだしてきた「遺留品」を書斎に並べたウルスラは、「引き渡し役」と自嘲しつつ、一種のトータルインスタレーションと化した世界の異形に美的感興すら覚えている様子である。

 しかし作者はひるまず、アート(作品)とリアル(鎮魂)の境界線上で冒険を続ける。そのもっとも大きな冒険の一つが、「私」の背中にある日突然生え出した歯のモチーフだろう。ただし、一読して唐突なこのメタファーも、確実にその論拠が示され(漱石『夢十夜』の第三夜)、かえってこの物語における「私」の位置を明らかにしていく。「鎮魂歌」の歌い手である「私」とは、まさに冥界と現世を繫ぐ巫女のごとき存在なのだ。

 物語は、ラストに近づくにつれ、加速的にメタファーの洪水のごとき観を呈しはじめる。それぞれに傷の記憶を負う九人の巡礼者たちが、ビスマルク塔に近い冥王星のブロンズ板探索の旅に出る。ここで作者は、いっさいの迷いを吹っ切ったかのように、抒情的告白にのめりこむ。そこに現出するのは、世界への共感力と、驚くべき微細な視神経によって描きとられた美の四次元。それに比して、みずからの最期を語る野宮の「告白」がどこまでもストイックなのは、それがあくまでも巫女たる「私」の心の声だからだろうか。

「私が恐れていたのは、時間の隔たりと感傷が引き起こす記憶の歪みだった。その時に、忘却が始まってしまうことになる」

 おのずと一つの問いが浮かんでくる。ここでいう「感傷」に、アート表現は含まれるのか。アートは、記憶の歪みをもたらし、忘却を誘いだすものなのか、それとも、永遠の現前のための装置として有効に機能しつづけるのか。

 ラストにおける野宮消失の場面が感動的だった。作者は、この場面を描くためにこの物語を紡ぎはじめたと思えるほどだ。ここに改めて提示されるアルトドルファー。描かれた戦士たちに二重写しされているのは、トリュフ犬が掘り返した「遺留品」の数々と東北の浜に投げ出された瓦礫の山。背後の地中海と空の青に重ねられているのは、東北の海の「黒と灰色の暴力」。野宮の心をとらえたはずの青は、野宮の目そのものと化し地上の災厄を永遠の相のもとに眺め下ろす。こうして野宮がなぜ、ゲッティンゲンに姿を現したかという謎に対する答えが明らかになる。九年間のさまよいの果てに野宮の霊が辿り着こうとしていたのは、「私」という母の胸に収められた永遠の故郷、青い「骨壺」ではなかったろうか。