おいしいごはんが食べられますように

高瀬隼子

1540円

生きのびてしまうあなた

ひらりさ

「生きる」という字面は、たまに腹立たしい。三文字の裏側に巧妙に隠された意味の多さに、うんざりして叫びそうになる。

 本来は、呼吸して、栄養を摂取して、寝ていれば十分なはずなのだ。でも社会はそれだけでは、私たちを「人間」として認めてくれない。学校に通い、卒業したら就職して、毎日決まった時間に出勤して業務を行い、税金をおさめる……だけでも駄目で、女性は毎日メイクをしてストッキングを穿くべきだし、適齢期になったらパートナーがいるべきだし、周囲に結婚や出産の話題を振られたら、今はそういう時代じゃないからといなしつつ適度な愛想で流すべき。たまにサボってもセーフだけど、油断し過ぎたらアウト。この時代の「生きる」の項目には、目には見えない、学校でも教わらない、小さな注意書きが無数につらなっている。

 高瀬隼子は、現代人の首にまとわりつく柔らかく重たい真綿を見逃さない。誰もがそれを受け入れてしまっているありさまを、容赦なく暴く。気づくことは、しんどい。でも、カタルシスもある。『おいしいごはんが食べられますように』は、その二面性を有する小説だ。

 デビュー作『犬のかたちをしているもの』では、卵巣の手術以来男性との性交渉に抵抗を持っている女性、二作目『水たまりで息をする』では、突然風呂に入らなくなった夫に葛藤する女性を描いた高瀬。本作でも中心には、芦川という、30歳の女性が据えられている。舞台は、飲料や食品パッケージの製作会社の地方営業所。過去の職場でハラスメントを受け心身を壊したらしい芦川は、彼女の年次で求められるスキルを持たず、残業をこなす体力もない。その代わり、彼女にしかできない役割がある。飲み会では男性上司の私生活の愚痴にとことん付き合い、自宅でつくったプロ顔負けのお菓子を同僚に配る。

 彼女の努力は成功している。歳の離れたパート女性は、芦川のことを「いつも笑顔で、悪いところが一個もない」と褒めそやす。だが、いつも笑顔であることは「正しい」のだろうか? 自分の飲みかけのお茶を勝手に飲んだと伝えてくる男性上司に、その場で一口飲んでみせて微笑み返すのは。同僚に配ったお菓子がぐちゃぐちゃにつぶされて自分の机に放置される事件が発生しても、黙々と片付け、他の人間が気づくまで黙っているのは。

 本作が一筋縄ではいかないのは、そこで芦川の内なる悲鳴をつづるわけではないところだ。彼女に、変化や破局は訪れない。物語は彼女の「弱さ」「正しくなさ」に苛立ちを募らせる、芦川の同僚二人の視点で進む。芦川のいびつさに哀れみを抱きながらも、それが性的興味につながり、やがて交際をはじめる後輩男性の二谷と、それを知りつつも、芦川への愚痴を吐ける相手として二谷に親しみを持つさらに歳下の女性、押尾だ。

 洗わないで放置した鍋の中の濁った水みたいな胸の内に、毅然が足りない、という言葉が浮かんできた時、二谷は芦川さんを尊敬するのを諦めた。諦めると、自慰の手助けに彼女のことを想像するのも平気になった。(20ページ)

 わたしは彼女のことが嫌いでよかった。かわいそうなものは、かわいければかわいいほど虐げられるから。そうやってわたしが悪者側にならないといけないのも腹が立つ。仕事ができない人が、同僚に仕事を任せる人が、どうして被害者のように振舞えるのか。(49ページ)

 ねじれた二等辺三角形の頂点にいるのは、芦川だ。小動物にちょっかいをかけて反応を待つ子供のように、二谷と押尾は、芦川にそれぞれ「いじわる」を仕掛けていくことになる。それは、彼らの嗜虐心や、単純な怒りから来るものではない。二人を駆り立てるのは、芦川への怯えだ。なぜか? 芦川の振る舞いに彼女の「弱さ」「正しくなさ」を意識するほど、思い知るからだ。自分たちもまた、「生きる」のに一生懸命なのだと。

 芦川に比べれば二谷も押尾も、「生きる」のが上手に見える。求められた仕事をこなし、できない人のぶんも肩代わりし、一人暮らしの生計を立て、日々の家事も行っている。けれど、二谷も押尾も、全自動でストレスなくこなしているわけではない。職場や友人付き合いのなか、何が許され何が許されないかを体の内側でたえず計算し、「正しい」自分を選んできたのだ。

大学を選んだ十代のあの時、おれは好きなことより、うまくやれそうな人生を選んだんだなと、おおげさだけど何度も思い返してしまう。その度に、ただ好きだけでいいという態度に落ち着かなくなる。(65ページ)

 芦川を眺めるとき、二谷たちは、自分たちも彼女とは別の仕方で、注意書きだらけの世界に「適応」している気持ち悪さを嚙み締める。芦川が「弱さ」をさらけだすほど、「強い」ように見える彼らの口からは、生存への屈託があふれ出そうになる。二谷のそれは、手作り料理への忌避感としてあらわれる。二谷の家で手料理を作り、職場で手作りお菓子を振る舞うことは、芦川の生存戦略にして、二谷のあり方への侵略となる。二谷は抵抗し続ける。

 それでも芦川は破綻しない。彼女が身につけざるを得なかった「正しくなさ」は哀しいが、終盤に向かうにつれ、得体のしれない力に転じる。強い/弱いも、正しい/正しくないも、圧倒してしまう。よくよく考えたらそんな区分も、「生きる」に後から付け加えられた、些末な文言にすぎないのだろうか? 現実にその場所で生きのびているという事実しか、私たちの「生きる」を裏打ちしてくれない。押尾は去り、二谷は、芦川を受け入れる。そして読者も、いつの間にか自分の喉元を侵している、ぬるくて重い抑圧の甘やかさを味わうのだ。

「生きる」という字面は、たまに腹立たしい。三文字の裏側に巧妙に隠された意味の多さに、うんざりして叫びそうになる。
 本来は、呼吸して、栄養を摂取して、寝ていれば十分なはずなのだ。でも社会はそれだけでは、私たちを「人間」として認めてくれない。学校に通い、卒業したら就職して、毎日決まった時間に出勤して業務を行い、税金をおさめる……だけでも駄目で、女性は毎日メイクをしてストッキングを穿くべきだし、適齢期になったらパートナーがいるべきだし、周囲に結婚や出産の話題を振られたら、今はそういう時代じゃないからといなしつつ適度な愛想で流すべき。たまにサボってもセーフだけど、油断し過ぎたらアウト。この時代の「生きる」の項目には、目には見えない、学校でも教わらない、小さな注意書きが無数につらなっている。
 高瀬隼子は、現代人の首にまとわりつく柔らかく重たい真綿を見逃さない。誰もがそれを受け入れてしまっているありさまを、容赦なく暴く。気づくことは、しんどい。でも、カタルシスもある。『おいしいごはんが食べられますように』は、その二面性を有する小説だ。
 デビュー作『犬のかたちをしているもの』では、卵巣の手術以来男性との性交渉に抵抗を持っている女性、二作目『水たまりで息をする』では、突然風呂に入らなくなった夫に葛藤する女性を描いた高瀬。本作でも中心には、芦川という、30歳の女性が据えられている。舞台は、飲料や食品パッケージの製作会社の地方営業所。過去の職場でハラスメントを受け心身を壊したらしい芦川は、彼女の年次で求められるスキルを持たず、残業をこなす体力もない。その代わり、彼女にしかできない役割がある。飲み会では男性上司の私生活の愚痴にとことん付き合い、自宅でつくったプロ顔負けのお菓子を同僚に配る。
 彼女の努力は成功している。歳の離れたパート女性は、芦川のことを「いつも笑顔で、悪いところが一個もない」と褒めそやす。だが、いつも笑顔であることは「正しい」のだろうか? 自分の飲みかけのお茶を勝手に飲んだと伝えてくる男性上司に、その場で一口飲んでみせて微笑み返すのは。同僚に配ったお菓子がぐちゃぐちゃにつぶされて自分の机に放置される事件が発生しても、黙々と片付け、他の人間が気づくまで黙っているのは。
 本作が一筋縄ではいかないのは、そこで芦川の内なる悲鳴をつづるわけではないところだ。彼女に、変化や破局は訪れない。物語は彼女の「弱さ」「正しくなさ」に苛立ちを募らせる、芦川の同僚二人の視点で進む。芦川のいびつさに哀れみを抱きながらも、それが性的興味につながり、やがて交際をはじめる後輩男性の二谷と、それを知りつつも、芦川への愚痴を吐ける相手として二谷に親しみを持つさらに歳下の女性、押尾だ。
 洗わないで放置した鍋の中の濁った水みたいな胸の内に、毅然が足りない、という言葉が浮かんできた時、二谷は芦川さんを尊敬するのを諦めた。諦めると、自慰の手助けに彼女のことを想像するのも平気になった。(20ページ)
 わたしは彼女のことが嫌いでよかった。かわいそうなものは、かわいければかわいいほど虐げられるから。そうやってわたしが悪者側にならないといけないのも腹が立つ。仕事ができない人が、同僚に仕事を任せる人が、どうして被害者のように振舞えるのか。(49ページ)
 ねじれた二等辺三角形の頂点にいるのは、芦川だ。小動物にちょっかいをかけて反応を待つ子供のように、二谷と押尾は、芦川にそれぞれ「いじわる」を仕掛けていくことになる。それは、彼らの嗜虐心や、単純な怒りから来るものではない。二人を駆り立てるのは、芦川への怯えだ。なぜか? 芦川の振る舞いに彼女の「弱さ」「正しくなさ」を意識するほど、思い知るからだ。自分たちもまた、「生きる」のに一生懸命なのだと。
 芦川に比べれば二谷も押尾も、「生きる」のが上手に見える。求められた仕事をこなし、できない人のぶんも肩代わりし、一人暮らしの生計を立て、日々の家事も行っている。けれど、二谷も押尾も、全自動でストレスなくこなしているわけではない。職場や友人付き合いのなか、何が許され何が許されないかを体の内側でたえず計算し、「正しい」自分を選んできたのだ。
大学を選んだ十代のあの時、おれは好きなことより、うまくやれそうな人生を選んだんだなと、おおげさだけど何度も思い返してしまう。その度に、ただ好きだけでいいという態度に落ち着かなくなる。(65ページ)
 芦川を眺めるとき、二谷たちは、自分たちも彼女とは別の仕方で、注意書きだらけの世界に「適応」している気持ち悪さを嚙み締める。芦川が「弱さ」をさらけだすほど、「強い」ように見える彼らの口からは、生存への屈託があふれ出そうになる。二谷のそれは、手作り料理への忌避感としてあらわれる。二谷の家で手料理を作り、職場で手作りお菓子を振る舞うことは、芦川の生存戦略にして、二谷のあり方への侵略となる。二谷は抵抗し続ける。
 それでも芦川は破綻しない。彼女が身につけざるを得なかった「正しくなさ」は哀しいが、終盤に向かうにつれ、得体のしれない力に転じる。強い/弱いも、正しい/正しくないも、圧倒してしまう。よくよく考えたらそんな区分も、「生きる」に後から付け加えられた、些末な文言にすぎないのだろうか? 現実にその場所で生きのびているという事実しか、私たちの「生きる」を裏打ちしてくれない。押尾は去り、二谷は、芦川を受け入れる。そして読者も、いつの間にか自分の喉元を侵している、ぬるくて重い抑圧の甘やかさを味わうのだ。