おいしいごはんが食べられますように

高瀬隼子

1540円

文学の新たなキックオフを告げる

長瀬 海

 おいしい─毎日の生活のなかで、何度も繰り返し、繰り返し唱えられる、快楽のおとずれを告げることば。そんな魔法の呪文が口から零れた瞬間、めくるめく共感の世界が目の前の食卓に広がっていく。だって、おいしいものはみんなを幸せにするんでしょ? だけど、この小説はその自明さをひっくり返し、長らくそこに覆い被さっていた虚飾をそっと剝ぎ取っていく。

 まず本作の作者に触れれば、高瀬隼子は僕たちのコミュニケーションのあたり前を疑うことの稀代の妙手だ、と言っても決して過言ではない。彼氏が他の女性を身籠らせてしまい、挙句、その子を育ててほしいと頼まれた主人公が不定形な愛の輪郭を探る『犬のかたちをしているもの』や、夫が風呂に入らなくなった瞬間に家庭の空間に滲出する齟齬を通じて夫婦とは、共生とは何かを深く問いかける『水たまりで息をする』。高瀬は、そういった物語を通じて他者が他者である限り、そこに歴然と横たわる理解をめぐる不-可能性をずっと考え続けている。そうであるからこそ、「おいしい」という共感のことばを前に高瀬が本作で目掛けるのは、そこに内包されるディスコミュニケーションの痛みや戸惑いを暴き出すことなのだ。

 物語は、あるラベル製作会社のお昼休みの情景から始まる。支店長がみんなで蕎麦を食べにいこうと言い出す。それぞれの昼事情を無視する支店長の無神経さに呆れつつ、カップ麺に湯を注ぐ男性社員の二谷は、食事に労力をかける人たちの気がしれない。食事なんて腹が満たされればいい。それ以外のそこに付随する一切が煩わしい。おいしさを求め合う、その同調圧力がウザい。そう考える二谷を作者は、「いいね!」的コミュニケーションの彼岸に佇む、生活の合理性を希求してやまない人物として巧妙に描く。

 二谷たちの会社にはもう一つ、別種の同調圧力がある。それは女性社員の芦川をめぐるもの。芦川は前職でハラスメントにあったという。だから声の大きい人が怖い。顧客に怒鳴られると泣いてしまう。社外研修のグループワークも不得意で、しんどくなるとすぐに休む。だけど、みんなに優しいし、いつも笑顔だから、社内では庇護の対象となっている。芦川さんは弱いから仕方ない─彼女を守ることの合意がいつの間にか形成されていた。だから、「頼りない、弱い感じの、優しい女性が」タイプの二谷は、芦川の弱さがたまらなく好きだ。「彼女が泣けば泣くほどよかった」。静かな欲望が湧き上がる二谷は、芦川との距離を縮め、そして恋人となる。

 弱さがそのまま権力となる正義感がこわばった世界の危うさを絶妙に象る作者は、その空間に異議を唱える人物を呼び込む。芦川の弱さへ強烈な嫌悪を示す、彼女の後輩社員の押尾だ。嗜虐的な意思を秘める押尾は、二谷をこちら側の人間だと感じ、近づいていく。そして、悪魔的な提案を呟くのだ。「二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」。僕の予感が間違ってなければ、弱さと正しさを相対化する方向に作用していくこのセリフは、新たな文学的ゲームのキックオフを告げる、そんなことばとして文学史に残るのではないか。

 二谷、芦川、押尾。それぞれじぶんの格率を強く(外から見たら弱々しく)握り締める三人のキャラクターを、欲望の相関的な世界のなかで造形することに成功した時点で、作者は記念すべき第一試合の勝者となった。彼女たちは互いに共鳴し合えない関係にある。一見、芦川への違和を抱く点で連帯可能に見える二谷と押尾も、それによって孤独の窪みから引き上げられるわけじゃない(押尾はグルメ好きであることを隠して二谷のそばにいる)。象徴的なのは人称の使い方だ。押尾の視点は「わたし」で語られるのに対し、二谷のパートは三人称。不均衡な人称の語りが、この作品の「わかりあえなさ」という主題を掘削する機能を持つのは、男女の会社員の均衡な視点で語られる小説─そうだな、たとえば、津村記久子『ワーカーズ・ダイジェスト』と比べればわかるだろう。

 転勤先で理不尽なクレームに苦しめられる重信と、先輩から謂れのない無視を受け続ける奈加子。同じ佐藤の苗字を持つ二人の男女を主人公に置くあの小説は、均衡の取れた視点を往還することで、会社の不条理を背景にした希望のような「共鳴」の物語と成り得たのだった。そう考えると高瀬がこの小説で不均衡な視点を採用したのも理解できる。正しさとか、善とか、悪とか、社会的な規範が曖昧にぼやけている現在にあって、それによって高瀬は共鳴の成立しないディストピアを顕現させるのだ。

 だから、物語は頭痛で早退した芦川がお詫びに手作りマフィンを振る舞うと、絶望度がグッと増す。周囲に持て囃された芦川は次第に、作ってくるスイーツの度合いをエスカレートさせていく。苛立ちを募らせる押尾は対して、ある「いじわる」をし始める。そして彼女たちの営みによって、やがて小説に破局が生まれる。

 やはり僕は男性だからか、二谷の不気味さが気になる。作中では、もう一人名前を持つ男性に藤という社員が出てくる。芦川を愛でるそのあり方からしてオールドタイプの男性像だ。女性によるケアを当然のこととしてありがたがる藤に対して、二谷はケアさえも疎む。それでいて結婚願望だけはある。文学がほんとうは好きなのに、合理性を鑑みて経済学部に進学した二谷は、だが、文学に対する想いをほんのり残している。そこに僕は二谷の心のフラジャイルな部分を見てしまう。そして、共鳴が成り立たないこの世界で、二谷の脆弱さはそのまま孤独として表出してくる。ディスコミュニケーションに光をあてたからこそ浮かび上がる孤独。共感という救いを求めない、ひとりだけの弱さ。

「おいしい」というコミュニケーションのためのことばを見事に異化させた本作は、僕たちに二谷的な弱さを見つめることを迫る。理解ではない、シンパシーを抱くことではない。その凝視を通じて、じぶんたちの世界を眺めること。この傑作はそれを促すのだ。

 おいしい─毎日の生活のなかで、何度も繰り返し、繰り返し唱えられる、快楽のおとずれを告げることば。そんな魔法の呪文が口から零れた瞬間、めくるめく共感の世界が目の前の食卓に広がっていく。だって、おいしいものはみんなを幸せにするんでしょ? だけど、この小説はその自明さをひっくり返し、長らくそこに覆い被さっていた虚飾をそっと剝ぎ取っていく。
 まず本作の作者に触れれば、高瀬隼子は僕たちのコミュニケーションのあたり前を疑うことの稀代の妙手だ、と言っても決して過言ではない。彼氏が他の女性を身籠らせてしまい、挙句、その子を育ててほしいと頼まれた主人公が不定形な愛の輪郭を探る『犬のかたちをしているもの』や、夫が風呂に入らなくなった瞬間に家庭の空間に滲出する齟齬を通じて夫婦とは、共生とは何かを深く問いかける『水たまりで息をする』。高瀬は、そういった物語を通じて他者が他者である限り、そこに歴然と横たわる理解をめぐる不-可能性をずっと考え続けている。そうであるからこそ、「おいしい」という共感のことばを前に高瀬が本作で目掛けるのは、そこに内包されるディスコミュニケーションの痛みや戸惑いを暴き出すことなのだ。
 物語は、あるラベル製作会社のお昼休みの情景から始まる。支店長がみんなで蕎麦を食べにいこうと言い出す。それぞれの昼事情を無視する支店長の無神経さに呆れつつ、カップ麺に湯を注ぐ男性社員の二谷は、食事に労力をかける人たちの気がしれない。食事なんて腹が満たされればいい。それ以外のそこに付随する一切が煩わしい。おいしさを求め合う、その同調圧力がウザい。そう考える二谷を作者は、「いいね!」的コミュニケーションの彼岸に佇む、生活の合理性を希求してやまない人物として巧妙に描く。
 二谷たちの会社にはもう一つ、別種の同調圧力がある。それは女性社員の芦川をめぐるもの。芦川は前職でハラスメントにあったという。だから声の大きい人が怖い。顧客に怒鳴られると泣いてしまう。社外研修のグループワークも不得意で、しんどくなるとすぐに休む。だけど、みんなに優しいし、いつも笑顔だから、社内では庇護の対象となっている。芦川さんは弱いから仕方ない─彼女を守ることの合意がいつの間にか形成されていた。だから、「頼りない、弱い感じの、優しい女性が」タイプの二谷は、芦川の弱さがたまらなく好きだ。「彼女が泣けば泣くほどよかった」。静かな欲望が湧き上がる二谷は、芦川との距離を縮め、そして恋人となる。
 弱さがそのまま権力となる正義感がこわばった世界の危うさを絶妙に象る作者は、その空間に異議を唱える人物を呼び込む。芦川の弱さへ強烈な嫌悪を示す、彼女の後輩社員の押尾だ。嗜虐的な意思を秘める押尾は、二谷をこちら側の人間だと感じ、近づいていく。そして、悪魔的な提案を呟くのだ。「二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」。僕の予感が間違ってなければ、弱さと正しさを相対化する方向に作用していくこのセリフは、新たな文学的ゲームのキックオフを告げる、そんなことばとして文学史に残るのではないか。
 二谷、芦川、押尾。それぞれじぶんの格率を強く(外から見たら弱々しく)握り締める三人のキャラクターを、欲望の相関的な世界のなかで造形することに成功した時点で、作者は記念すべき第一試合の勝者となった。彼女たちは互いに共鳴し合えない関係にある。一見、芦川への違和を抱く点で連帯可能に見える二谷と押尾も、それによって孤独の窪みから引き上げられるわけじゃない(押尾はグルメ好きであることを隠して二谷のそばにいる)。象徴的なのは人称の使い方だ。押尾の視点は「わたし」で語られるのに対し、二谷のパートは三人称。不均衡な人称の語りが、この作品の「わかりあえなさ」という主題を掘削する機能を持つのは、男女の会社員の均衡な視点で語られる小説─そうだな、たとえば、津村記久子『ワーカーズ・ダイジェスト』と比べればわかるだろう。
 転勤先で理不尽なクレームに苦しめられる重信と、先輩から謂れのない無視を受け続ける奈加子。同じ佐藤の苗字を持つ二人の男女を主人公に置くあの小説は、均衡の取れた視点を往還することで、会社の不条理を背景にした希望のような「共鳴」の物語と成り得たのだった。そう考えると高瀬がこの小説で不均衡な視点を採用したのも理解できる。正しさとか、善とか、悪とか、社会的な規範が曖昧にぼやけている現在にあって、それによって高瀬は共鳴の成立しないディストピアを顕現させるのだ。
 だから、物語は頭痛で早退した芦川がお詫びに手作りマフィンを振る舞うと、絶望度がグッと増す。周囲に持て囃された芦川は次第に、作ってくるスイーツの度合いをエスカレートさせていく。苛立ちを募らせる押尾は対して、ある「いじわる」をし始める。そして彼女たちの営みによって、やがて小説に破局が生まれる。
 やはり僕は男性だからか、二谷の不気味さが気になる。作中では、もう一人名前を持つ男性に藤という社員が出てくる。芦川を愛でるそのあり方からしてオールドタイプの男性像だ。女性によるケアを当然のこととしてありがたがる藤に対して、二谷はケアさえも疎む。それでいて結婚願望だけはある。文学がほんとうは好きなのに、合理性を鑑みて経済学部に進学した二谷は、だが、文学に対する想いをほんのり残している。そこに僕は二谷の心のフラジャイルな部分を見てしまう。そして、共鳴が成り立たないこの世界で、二谷の脆弱さはそのまま孤独として表出してくる。ディスコミュニケーションに光をあてたからこそ浮かび上がる孤独。共感という救いを求めない、ひとりだけの弱さ。
「おいしい」というコミュニケーションのためのことばを見事に異化させた本作は、僕たちに二谷的な弱さを見つめることを迫る。理解ではない、シンパシーを抱くことではない。その凝視を通じて、じぶんたちの世界を眺めること。この傑作はそれを促すのだ。