この道   古井由吉
そのかりそめの心   評者:松浦寿輝

近作の短篇八作を収める。その一つ一つを独立した作品として読もうと、八篇が全体としてゆるい絆で繫がった連作をなしていると読もうと、どちらでも構わない。また、一篇ごと、虚構の細部をちりばめた小説とも読めるし、著者自身とぴたりと重なる「私」の視点から書き下ろされた感懐吐露のエッセイと読んでもよい。どのようにでも読めるこの散文の融通無碍ぶりは、独立した作品の観念にも、小説とエッセイを分かつジャンルの境界の観念にも信を置くまい、という著者の強固な意志によってもたらされたものだ。  ただひたすら、文章が│小説だのエッセイだのに分化する以前の、野生の、始源の、荒々しくも繊細な文章が、書き継がれてゆく。言葉の水が流れてゆく。流れるかに見えてふと途絶え、かと思うとまた思いがけない場所から湧出し、新たな川筋を作り出す。この光景は古井由吉の読者にはすでにきわめて親しいものである。すなわち、ある時点以降古井氏が選びとった散文のスタイルが本書でも継続しており、本書を読むことでわたしたちは、そのスタイルの生成変化が現時点で至り着いた最新局面を体感することになる。  この生成変化が著者の身体の現在と絶えず同期していることは言うまでもなく、従って、傘寿を越えられた古井氏の場合、当然と言えば当然ながら、その現在とは、端的に老いの深化として文体に露呈することになる。小説かエッセイかはともかく、本書を、ある年の早春(初篇の「たなごころ」には「大寒が明けて梅の香が夜に漂う頃」とある)から始まって、季節を追って月日が流れ、翌年の盛夏で終わる、ほぼ一年半ほどにわたる、一老人の暮らしのクロニクルとして読むことは可能である。  視力、聴覚、嗅覚の衰え、足腰の弱りがしきりと嘆かれるが、文章じたいにはいささかの衰弱も感知されない。選び抜かれた言葉の稠密な持続が、ロジックというよりアナロジックの思考の軌跡をうねうねと描いてゆく。それは一見きわめて奇態なようで、実は身体の自然に密着した、艶やかな詩的思考である。身体の自然、災禍の続く世界の風情の自然にもっとも即してあろうとする意志が、予期せぬ破れ目や迂路を次々に作り出し、結果として文章にかえって佶屈したねじくれの外観を賦与するに至ってしまう、とでも言うべきか。  過去の出来事の想起がおびただしく挿入される。そこには現実には起こらなかったことも紛れこんでいるかもしれないが、起こらなかったことを思い出したり、起こったことも思い出すごとにその内容に変形や歪曲が施されていったりというのは、それこそ老いの自然にほかなるまい。そもそも、一定不変の過去の「現実」などはたして実在するのかという哲学上の難問じたい、完全にけりがついているわけではない。従って、古井作品の愛読者にはきわめて親しい幾つもの挿話は、本書にも飽きずに再登場する。敵軍の空爆下に逃げ惑った少年時、椎間板ヘルニアの治療で仰向けの姿勢を強いられた日々……。同じことが何度も何度も想起され、そのつど想起主体の現在と共鳴して新たな意味を充塡され直され、詩的豊饒へと向けて熟れてゆく。熟すというより、熟れ鮨というような意味で熟れてゆく、と言ってみたい。単調さの印象などかけらもない、ひたすら不穏で獰猛な反復だ。「なれ過た鮓をあるじの遺恨哉」という蕪村の句がふと心をよぎる。  両親や兄姉について克明に語られた過去の作品もたしかあったはずだが、本書ではその影が薄く、またこれは従来から同じだが、まだ存命の妻や子や孫などにはほとんど触れられない。結果として、天地に係累のいっさいないよるべない幼子のような存在へと、老年の「私」は戻ってゆくようだ。戦禍で親を見失った哀れなみなしごや、不意に家を出て行方知らずになってしまう老耄の人の運命へ、思いはしきりと向かう。「……自身の本来を思い出せぬままにまた孤児の身となった老年に、もしも埋められた記憶がひらくとしたら、背後からではなく前方の天に、赤い光芒となっておごそかに立つのではないかと思われる」(「野の末」)。太陽の異変で起きた磁気嵐で、江戸期の京都にオーロラが立ったという記録があるというが、そんな異様な天変のように、記憶の数々がはるか前方の空にいきなり現出するのが、老いの窮まりの秘蹟なのだろうか。  そのとき、生の時間とは、誕生から死へ向かって一方向に流れてゆく持続ではなく、何もかもが同時に現前する異形の「静まり」となる。「行きかふ年も又旅人也」と芭蕉は言ったが、はたしてそうか。歳月の去来というが、「去来というものではなさそうだ。去るも来るもなくなり、生まれてこの方がここにひとつに静止する、そんな果ての境はあるように思われる」(「花の咲く頃には」)。  行方不明者。迷子。故地から追われ根こそぎになってしまった新住民。「居つきの人に聞いたところでは……」と語り出される箇所があるが(「野の末」)、同じ場所に何十年住もうと決して「居つき」になれないのだ。自身のものと得心できる場所を決して所有できぬまま終わるほかないのが、この現世での仮初の生の実態であろう。「……戦中から敗戦後にかけて流転を見た家の子は、中年になってから定めた居を一途に守ってきても、避難者や居候の心をどこかに留めて、老いに入るにつれてそのかりそめの心が時に、変りもせぬ日常の中へ訝りとなって上ってくるものかと思った」(「行方知れず」)。  本書末尾に不意に現われるのは笑いである。「気がついてみれば、寝床の中で笑っていた」(「行方知れず」)。この笑いは恐ろしく、すさまじい。それは同作中の行文を少しばかり遡行して、「言葉はつき詰めるとすべて諧謔、徒労の諧謔なのか。人は最期まで言葉という危うい綱を渡り、そして渡り果てぬ者なのか」という物書きとしての覚悟を照射し返すことになる。未だ時ならず、時ならず、と呟きつつ、古井由吉はまだまだこの途方もない綱渡りを続けるだろう。
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ニムロッド   上田岳弘
功利主義のオルタナティヴを求めて   評者:江南亜美子

 上田岳弘はテーマを持っている。不老不死を扱った二〇一三年のデビュー作「太陽」から、十万年の時を超えて転生し、記憶を共有する三人の人物を描く『私の恋人』、新興宗教と天才ハッカーの結節点が描かれた『異郷の友人』など、どれをとっても最終的にひとつの光景に行きつく。それは、人類なきあとの世界を、まるで神のごときマクロ的な全知の視点から見るというものだ。その世界が完成されてしまう一日前とでもいうべき、人類の最後のあがきを、様々なバリエーションでとらえて各々の作品はできている。  先行する作品の題材や細部を新作にも再登場させ、老舗うなぎ店の秘伝のたれのように継ぎ足しつつ更新させるのも上田の特徴的な創作法で、『ニムロッド』は『塔と重力』を、『塔と重力』は『異郷の友人』を、部分的に引き継いでいると考えられる。要するに、同じテーマを一貫して書く作家なのだ。しかしその書きぶりはつねにダイナミックで、読む者を倦ませず着地点まで運んでいく。 『ニムロッド』が終盤に見せるヴィジョンもまた壮大である。だが始まりはあくまでも卑小な人間の日常だ。  主人公は中本哲史、サーバー保全管理の仕事をしている。彼に、社内の余剰サーバーで仮想通貨の採掘をする役目が回ってきたのは、中本がビットコイン創設者とされる人物と同姓同名がゆえの社長の気まぐれか。実体を持たない仮想通貨の取引履歴を記載する報酬として、新規発行された通貨をもらうことを採掘と呼ぶが、この錬金術のような無から有を生む作業は、仮想通貨自体の価値を担保し、他者に欲しがらせ続けるためのシステムサポートでもある。  中本には、プロの小説家を目指したものの、新人賞の三回落選でうつを発症、いまは名古屋支店に籍を置く荷室仁(ニムロッド)という同僚がいる。彼は時おり、「駄目な飛行機コレクション」と題して、原子力を動力としたり(操縦士が被曝する)、鳥の形状を模倣しながら揚力が伴わなかったり、垂直浮上と平行移動を両立させようとした、人類の無謀にして失敗の飛行機たちを紹介するメールを送ってくる。それとは別に、奇妙な書きかけの小説もメールしてくるのだった。  ニムロッドの小説には、塔を建てる男が出てくる。スカイツリーもブルジュ・ハリファも超えた高層のそれは、人類の高さへの憧憬と発達した技術が具現化したものだ。〈鳥さえも寄せつけない高さでもまだその先端にはほど遠い。見る者に沈黙を強いるその佇まい。/僕は、なんとしてもその、何よりも高い塔を手に入れなければならない〉  そんなニムロッドにただならぬ関心を寄せるのが、中本の恋人の田久保紀子である。彼女は外資系証券会社に勤務し、中本と会うのは決まって高級ホテルの一室、世界規模での企業買収もこなす現代社会の成功者だ。ただ出張時に睡眠薬を手放せないのは、かつて自身の結婚生活を瓦解させたある記憶に囚われているから。妊娠時、出生前診断で子の染色体異常が判明し、いわゆる「命の選択」を一人でしたことがトラウマなのだ。  田久保紀子は、中本とニムロッドに〈優しい世界〉の住人としての同質性を感じ、好ましさを覚える。この〈優しい世界〉が意味するところは複雑で、直接的にはニムロッドのような経済活動の第一線から撤退した男たちが生きられる社会なのだが、広義では、たとえダウン症の子でも構成員としてきちんと包摂してくれる社会、失敗飛行機の残骸たち、無謀な挑戦者たちに敬意を払う社会、人々の多様性を認める社会のことである。ただ世界はこうした理念を掲げつつ、実際には経済至上主義のもと、効率的かつ実践的なシステムに適合できる人々だけを選別し、他を切り捨てるシビアな面も隠さない。田久保紀子はいまは競争社会の勝者側だが、特攻隊員の乗った桜花のように、図太いたくましさと生還可能性の予め奪われた死の欲動が表裏一体となった飛行機で「東方洋上に去る」ことを夢見もしている。  こうして本作は、私たちにふたつの価値観を突きつけるのだ。功利主義的振る舞いに疑問を持たず、さらには出生前診断での「選別」も合理的とみなして、現行社会システムに最適化していくのが幸福か。あるいはシステムから離脱し、自我に懊悩しながらも個人の自由を手放さないのが幸福なのか。ただいずれも少し不幸で、少し鈍感である。ニムロッドは作中で、塔の上の男に、生産性を最大限に高めるため人類がひとつに溶け合ってしまった下界の様を覗かせた。溶け合った人類たちは、〈あのファンド〉と呼ばれる経済システムそのものとも同一化し、一種の涅槃を形づくる。しかしニムロッドは、そして田久保もおそらく中本も、そんな最終ヴィジョンには同化できない人間たちである。  田久保はかつての自身の合理的判断や、それを可能にした技術革新を(そうは書かれないが)恨んでいる。中本は原因不明にも左目から水のような涙を流し続けることで、この身体性を現前化させる。そしてニムロッドは、小説を書くという行為こそが、どろどろと不分明になった者たちへの楔となるのではないかと信じているのだ。それぞれの場所で抵抗する三人。この泥くさい戦いの様こそが、人間という存在へのオマージュとなる。  上田岳弘が本作で、あるいはつねに描かんとするのは、資本主義に基づき設計された冴え冴えとした現代社会のどんつきで、システムにとっては本来無用の存在ながらひとりの名も感情も備えた個人が、健気に世界に立ち向かう姿だと言える。それは哀愁(今風の言い方ではエモさ)をおびる。〈この涙が流れるたびに、僕はもう連絡が取れなくなった田久保紀子とニムロッドのことを思い出す。僕の頭の中で彼らとこの涙が結びついているらしい〉。卑小さと気宇壮大さ。温かみと酷薄さ。このふり幅を収める上田の小説世界には、間違いなく中毒性がある。
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鬼子の歌 偏愛音楽的日本近現代史   片山杜秀
鬼子の偏愛する交響曲・オペラ   評者:細川周平

 鬼子とは誰でしょう。「置き所に惑う子」と著者は答えます。これってご自分のことじゃありませんか。批評でも研究でも感想でもない。どこにも置けない文章で読ませてきたご自身ではありませんか。鬼子が鬼子を語る本。語られるのは日本人作曲家一四名によるクラシック音楽です。歌とありますが交響曲、オペラのような大曲が主な対象です。このうち評伝があるのは山田耕筰ほか数名、それに地味な通史が数冊、まとめてかかってもヨーロッパの大作曲家一人にもとうてい及びません。学校でもきちんと教えませんし、めったに演奏されません。分の悪い鬼子です。でも一五〇年前には誰も読めなかった五線譜を使って、この国にしかない芸術音楽を創作した方々と片山は尊敬しています。  ヘタな文体模写して敬意を表していますが、元はもっと滑らか絶品、乗せられたら降りられません。普通の学者評論家が踏むお約束事ははなっから無視、あふれ出る知識を制御せず、序奏、第一主題から第二主題、間奏=感想があって変奏=変装があって転調=展張があって第一主題にもどって一気にコーダ、どの章も結論部は鮮やか。重い主題を陽気に語るアレグロ・マ・グラーベ、軽快だが重厚の感じ、即興曲に見えて実は計算高いシューベルトの境地、いや狂詩曲と訳されるラプソディかもしれません。なるほどザ・ミュージックです、音楽講談です。講談社だからっていうのじゃありません。ただ朗読するだけなら一〇分で終わるお話を一時間かけて、文学や流行をきっかけに話を切り出したかと思うや、師弟関係の話題に入り、作曲家の思想的・芸術的葛藤=濡れ場でじっくりインテリ読者を喜ばせ、伝記の基本知識を押さえつつ、他の作品を筋道立てて語り、気を持たせる結語を用意してちょうど時間となりました、またのお越しを。この読み応えはたまりません。これまで小劇場で切り売りしてきた講談師が、満を持しての檜舞台、語り放題というやつです。  たとえば全体で一番の力演と思う三善晃の章は『赤毛のアン』から始まります。著者のアニメの思い出が語られます。そこからめぐりめぐって支倉使節団についてのオペラ『遠い帆』に至るのです。関連する和洋古今雅俗五〇曲三〇人ぐらいを全体七〇ページにちりばめつつ、知識人のフランスびいきや劣等感、三善のパリ留学の挫折と転向、キリシタンの挫折、初演地仙台と縄文的イメージ、松本清張の矛盾語好み、西洋のソナタ形式の予定調和と日本の序破急の前進構造、丸山眞男の日本論、これら脇役に場面を持たせつつ、『遠い帆』を日本回帰も西洋崇拝もしない鬼子作曲家の「自画像オペラ」と看破し、最後に木下順二の『子午線の祀り』と重ねて終幕に到達します。論文でも評論でも分析でも伝記でもありません。探偵のように聴き込み読み込みました。入れ込みました。そして調べ上げ書き上げました。探偵の眼だから荒俣宏を思い出します。話題の偏差も集中も。それに探偵の耳も加わるから常人ではないのです。  一作曲家の創造活動すべてをこの一曲に集約させるべく、右耳と左耳、右脳と左脳が猛烈なジグザグで言葉を編み出すのです。軽業、お手玉、ボレロ舞、何とでもお呼びください。音楽ですから曲の芸、曲芸と呼ぶのが一番でしょうが、長年の思いのたけを果たしたようで、読者は目まいを覚えます。一見軽く飛び回っているかのようで、要所ごとの論点は重厚で、常識にかみつき、学者頭ならそこで沈没してしまいますが、片山はさっさと次の幕へ回り舞台を進めます。和洋伝統の衝突と融和という重い持続低音を奏でる一四曲の組曲とも読めます。作品や作者にピンポイントで光をあてつつ、一五〇年の近代史も時には千年のくに作り、うた作りの歴史も忘れないのです。日本語にはそれだけ重い歴史があるのを忘れません。  普通の批評なら一、二行で流される作曲家の家系を重く見ます。偏愛たる所以です。尾高尚忠の交響曲を語るのに、章の半分以上をあてて血縁の渋沢栄一から始めて、当人の兄弟全部の業績を調べ上げ、一族の文明観と尚忠の作風との関与を探り出します。戸田邦雄の明治百年バレエ『ミランダ』の章は、龍馬の同志で維新の基本路線を決めた祖父尾崎三良に四、五ページかけます。作曲者が言及していれば幸い、いなくても構いません。血は争えませんで人を見ます。講談の沸かせどころです。伊福部昭の放射線障害で亡くなった兄の仕事が『ゴジラ』にはめこまれ、諸井三郎のピアノ協奏曲もまずセメント王の血族の事績が先決です。そのうえで彼の没頭した神智学について十数ページ。話しだしはユリ・ゲラー、といってもご存知ない方が多いでしょうが。驚いたのは黛敏郎のオペラ『金閣寺』の章で制作に縁のある日生劇場の元締め、日本生命について一〇ページも由来が記され、このオペラとの成立事情に滑り込む件りです。最後の章の松村禎三・遠藤周作のオペラ『沈黙』の一幕に、高浜虚子がここぞの役で登場しても驚きません。キリスト教と古代は全体のサブテーマです。お確かめください。  こうしたひっかけで沸かせる反面、スコアを精読した成果をあまり専門的にならない程度に読ませてくれます。音楽学者が誰もやっていないことです。そもそも入手困難な楽譜もあります。特に信時潔の「海ゆかば」と耕筰の「赤とんぼ」の旋律を一音一音比較する段には驚愕しました。そこから二人の対照的な性格や作風を鮮やかに描くのです。それぞれ聴き慣れた十数秒間にかくも綿密な力学がはたらいて音符は連なっているのか、比喩でなしに音の舞だと思いました。  実際の片山さんを少し知っていますが、この文章通り、何を訊いても思わぬ方向に話題を引っ張っていくキケンな方です。覚悟していないとついていけません。勢いに押されます。他にも作曲家ストックがたくさんあるそうですから、続編を期待しましょう。そして語られた作品の演奏を待ちましょう。
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前立腺歌日記

評者:栩木伸明

私はあなたの瞳の林檎、されど私の可愛い檸檬

評者:陣野俊史