春、死なん   紗倉まな
家族、夫婦、老境。そのイメージと実像   評者:瀧井朝世

「〇歳ってもっと大人かと思っていたけれど、実際自分がその歳になってみたら全然成長してなかった」という台詞はよく耳にするし、自分も実感してきた。それでも老境にさしかかったらもっと人生を達観しているだろうと期待してしまう。しかしやはり、相変わらず悩んだりあがいたりしているのだろう。紗倉まな『春、死なん』を読むと、ますますそう感じる。  収録されているのは二篇。表題作の主人公、畠山富雄は七十歳。定年退職後に息子の提案で分離型の二世帯住宅を建てたが、数年前に妻を亡くして現在は一人住まい。最近悩まされているのは世界が霞んで見えるという異変だが、眼科医は異常はないという。高校生の孫娘には近所の人を怒鳴るなと叱られるが、自身にその記憶はなく、認知がおぼつかなくなっている部分もあるようだ。そんな彼の日々の主な活動といえば、スーパーでの買い物、食事、アダルト雑誌やDVDを観ての自慰。すっかり日常に倦んでいる折、学生時代に一度だけ関係を持った元サークル仲間、高坂文江に再会する。  併録の「ははばなれ」の語り手は三十歳手前の女性、コヨミ。ヘアメイクの仕事をしていたが二年前に結婚して現在は専業主婦。夫は物事にこだわりのない性格で、家では主にゲームに没頭。そんな彼らが久々にコヨミの実家を訪れる。父親はコヨミが九歳の時に脳梗塞で死亡、四歳上の兄も家を出ているため、そこで暮らすのは母親一人。父の死後数日間姿を消すという出来事はあったものの、母親にはその後浮いた話ひとつなかった。だが、還暦を迎えた今、彼女はあっけらかんと恋人の存在を明かすのだった。  独居の七十歳男性、と聞いて想像するのはどんな姿か。性欲はとっくに失せて、淡々と暮らす老人の姿だろうか。では、還暦の独り暮らしの母親と聞いて想像するのはどんな女性か。子供たちのことを案じながら倹しく暮らす姿だろうか。もちろん違う姿を想像する人もいるだろうが、テレビコマーシャルやドラマで描かれがちなのは、そうした人物像ではないか。だが、本作の彼らは、性欲はあるし、恋愛もする。もちろん誰もが彼らと同じわけではないが、ただ、コマーシャルやテレビに描かれるようなステレオタイプに当てはまる人は実際少ないのではないか。なのに、人は往々にして、そのステレオタイプに自分や他人を当てはめようとしてはいないだろうか。富雄やコヨミの母親だけでなく、他の登場人物たちも、そう問いかけてくる。  親、子供、大人、妻、夫。社会のなかでさまざまな役割を与えられて生きるなか、人は無意識のうちに世間に望まれていると感じる理想像を求め、演じる時があり、他者にもその像をおしつけてしまう時もある。そして自分自身を裏切り、他人を傷つけてしまうのだ。その社会通念や理想像という不確かなものと、個々人の本音の微妙なあわいを、本書は浮き彫りにしていく。  妻に先立たれた老人が、欲望はもう枯れて淡々と生きているかといえば、そうとは限らない。良き母親が、子供のためだけに存在しているわけではない。そもそも、息子の賢治から二世帯住宅を提案された時、富雄と妻の喜美代は喜んだわけではない。彼らはもともと那須に移住しようと考えていたのだ。賢治も、本当に両親にそばにいてほしかったというよりも、「親孝行する良き息子」像を演じる自分に酔い、両親がどんな老後を望んでいるのか斟酌せずに話を持ち出した節がある。そして、富雄と喜美代は、そうした提案は喜ぶべきものとして受け入れてしまったのだ。互いが本当に望んではいないのに、「こう振る舞うのは理想的な親子」という幻想に呑まれて、彼らはその役柄を引き受けてしまったのである。 この賢治が結構クセモノで、妻の里香と結婚したのも「母さんみたいに黙っていろいろとやってくれるような人が、やっぱり一緒にいて気が休まるわ」とほざいたり、精神に不調をきたして伏せってしまった喜美代に「母さんは、贅沢だな」と言ってのけてしまうあたり、相手の気持ちを考える、という姿勢が希薄という印象。その分、無意識のうちに他者に自分が望む役割を強いているのである。一方、喜美代は善良な人ではあるものの、無邪気に里香に「二人目を作るラストチャンス」と言って場を凍らせてしまうところがある。それもまた、相手の本音や事情を考えずに、「結婚したら子供を産むもの、一人目を産んだら次は二人目」という古い通念の押し付けだ。他人を苦しめるのは悪人とは限らない。心優しい人間でも、何かしら、そうした押し付け決め付けによって人を傷つけている。  ただ、押し付ける人間だけの問題ではない。終盤、富雄から飛び出す「老人は黙ってゲートボールでもしていれば満足なのか」という憤怒に対し、里香は「理解したいのに、お義父さんが理解させてくれないというだけです」と返す。夫の賢治によって理想的な妻という役割を期待されてきた彼女にもまた葛藤があり、富雄のよき理解者になる可能性を垣間見せる瞬間だ。 「ははばなれ」のコヨミの場合は、もう子づくりへの情熱も失せた彼女が、これからも性を楽しもうとする母親の姿(とその恋人の行動)に圧倒される。とっくに子離れしていた母親に置いてけぼりにされた彼女は、自分の未来を思う。彼女はまだ、将来の自分の姿がイメージできないのだ。  二篇とも、年配の登場人物たちが自分の望むように生きようとしているのに対し、下の世代は生き方を模索している様子。そして若い世代の読み手に対しても、この先をどう生きたいのか問いかけてくる。彼らの性を含めて、富雄やコヨミの母親の姿、周囲の家族や夫婦の言動をどう感じるか。家族観や人生観が大きく変化している今の時代をどう見つめているか、我々を試す作品だ。
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