『ピエタとトランジ〈完全版〉』   藤野可織
家父長制を殺しに来た   評者:山内マリコ

 藤野可織が二〇一三年に上梓した短編集『おはなしして子ちゃん』収録作のなかで、熱狂的な人気を呼んだ「ピエタとトランジ」が〈完全版〉となって帰ってくる! これは二〇二〇年の文学ホットトピックだ。帯に光る〝最強最高の女子バディ物語〟の文字が、いやが上にも期待をそそる。  ものすごく頭のいい女子高生トランジが転校してきたことで、ピエタの周囲で殺人事件が頻発し、おもしろいように人が死んでいく様が爽快だった短編「ピエタとトランジ」。「このままふたりで学校を全滅させちゃおうか」なんて会話が小気味よく、「死ねよ」「おまえが死ねよ」とじゃれあう二人の関係はまさに永遠だった。永遠とは、けして年をとらないこと。時間の束縛から自由であること。  しかし〈完全版〉で、彼女たちは刻々と年をとる。この二人が年をとることは特筆すべき事件だ。なぜなら加齢は、女子高生という記号化した存在を消費するカルチャーへのアンチテーゼそのものだから。日本では現実でもフィクションでも、女子高生という、例外的に自由を与えられた存在にしか〝荒唐無稽〟は許されない、その理不尽を、〈完全版〉は逆説的に描き出していくのだ。  医大に進学したピエタが、備忘録として事件を記録する〈完全版〉には最初、ホームズとワトソンの香りが漂う。トランジの「事件誘発体質」は名探偵の職業病みたいなものだから、さして問題はないだろう。ロンドンのあの二人組と同じシリーズ化の道を、大学生になったピエタとトランジがたどっても不思議はない。なんなら、それを望んでいる読者の方が多数派かもしれない。  しかし多数派の代表意見ともいえる、子どもを産むことの素晴らしさを唐突に語る森ちゃんが登場する「女子寮連続殺人事件」あたりで、もう雲行きがあやしくなる。〈完全版〉は、ただただクールで最高だった短編「ピエタとトランジ」とは、どうも様子が違う。二人が行く先々でばたばた人が死んでいき、天才すぎて推理らしいこともせぬまま真相を言い当て、「私たちって最強だよね」と笑い合っていられる世界線に、二人はいないのだ。そう、〈完全版〉の彼女たちはどうやら、永遠ではない。  それが確定するのが「海辺の寒村全滅事件」だ。二人は二六歳になり、ピエタは研修医として働いている。そして天才ゆえにトランジの事件誘発体質が感染した森ちゃんは、産科医になる夢も、結婚してたくさん子どもを産む夢もダメになったと嘆く。森ちゃんの挙児願望は、ちょっと異様な迫力がある。結婚して子どもを産むことが女の幸せであるという価値観が、何度も、グロテスクなまでに強調される。  その価値観は、次の「無差別大量死夢想事件」でピエタ自身を蝕む。ピエタは森ちゃんが志望していた産科医の職に就き、私立高校の英語教師と交際している。いやになるほどしみったれた現実を生きている彼女は、キャリアと自身の出産について憂う、どこにでもいる大人の女性だ。ありきたりな現代女性の肖像。そして彼女はそんな自分を─ピエタという奇妙なあだ名で呼ばれなくなった自分を─「意味がない」と思っているのだ。ここに来てようやく、〈完全版〉がなにを描こうとしているのか、つまびらかになるのだった。  旧来の物語の〝型〟を突き崩そうと、物語自体が蠢き、もがいているような〈完全版〉。そもそも物語とはなんだ? なんでもアリの想像の世界? たしかに物語のなかでは、「年をとらない」禁じ手も、永遠ループのなかで次々に起こる事件を解決しつづける定型の幸せも、許されているはずだった。  しかし、たとえ物語のなかであっても、女性にはその自由がない。リアリティラインがどれだけぶっ飛んでいようが、ばたばた人が死んでもなんの問題もない世界であろうが、そこに女性がいる限り、「結婚しないの?」「子どもはまだ?」と、親が、親戚が、同級生が、そして読者が─つまりは多数派の価値観が、足を引っ張ろうと追いかけてくる。結婚したピエタもまた、「一年後には、私は妊娠を最大の目的として生きることになる」という岐路に立たされているのだった。 「私の産む子どもは、私を救うのか、それとも私を破壊するのか」という彼女の煩悶は、赤ちゃんが産まれた瞬間にすべて自動解決し、めでたしめでたしのハッピーエンドを迎えるのが、旧来の物語の〝型〟だ。これまで量産されてきたその物語は女性に、子どもさえ産めば幸せである、それがあなたの役割だから、たくさん産んで! というメッセージを送りつづけている。〈完全版〉は、怠惰にくり返されてきたそれら旧来の物語に、真顔で中指を突き立て、そこに巣くう家父長制的な価値観を殺そうとする。そして二人は、自分たちが本当に生きるべき世界を探すように、日本を飛び出すのだった。 〈完全版〉はたしかに〝最強最高の女子バディ物語〟だ。しかしそれは、思っていた形とはずいぶん違うだろう。そこには、現実にからめとられながら、自分たちの生き方を模索し、軋轢と闘う、生身の女の姿がある。新型コロナウイルスが世界中に蔓延した現在と、奇妙にリンクする展開へと広がる、黙示録的な後半。「子どもを産むことによって世界を救おうとする有志の集まり」である世界母子会の襲来によって、その主題はいよいよ明確になる。  最後に再録された短編「ピエタとトランジ」を改めて読むと、それはまったく別の意味を持つ物語になっている。あのとき「学校を全滅させちゃおうか」とうそぶいていた二人は、学校どころか人類が滅亡せんとする世界で、いちゃつく。あんなふうにいちゃついてた二人が、もう一度いちゃつくには、こんなに遠くまで来る必要があったのだ。
・・・続きはこちら
春、死なん   紗倉まな
家族、夫婦、老境。そのイメージと実像   評者:瀧井朝世

「〇歳ってもっと大人かと思っていたけれど、実際自分がその歳になってみたら全然成長してなかった」という台詞はよく耳にするし、自分も実感してきた。それでも老境にさしかかったらもっと人生を達観しているだろうと期待してしまう。しかしやはり、相変わらず悩んだりあがいたりしているのだろう。紗倉まな『春、死なん』を読むと、ますますそう感じる。  収録されているのは二篇。表題作の主人公、畠山富雄は七十歳。定年退職後に息子の提案で分離型の二世帯住宅を建てたが、数年前に妻を亡くして現在は一人住まい。最近悩まされているのは世界が霞んで見えるという異変だが、眼科医は異常はないという。高校生の孫娘には近所の人を怒鳴るなと叱られるが、自身にその記憶はなく、認知がおぼつかなくなっている部分もあるようだ。そんな彼の日々の主な活動といえば、スーパーでの買い物、食事、アダルト雑誌やDVDを観ての自慰。すっかり日常に倦んでいる折、学生時代に一度だけ関係を持った元サークル仲間、高坂文江に再会する。  併録の「ははばなれ」の語り手は三十歳手前の女性、コヨミ。ヘアメイクの仕事をしていたが二年前に結婚して現在は専業主婦。夫は物事にこだわりのない性格で、家では主にゲームに没頭。そんな彼らが久々にコヨミの実家を訪れる。父親はコヨミが九歳の時に脳梗塞で死亡、四歳上の兄も家を出ているため、そこで暮らすのは母親一人。父の死後数日間姿を消すという出来事はあったものの、母親にはその後浮いた話ひとつなかった。だが、還暦を迎えた今、彼女はあっけらかんと恋人の存在を明かすのだった。  独居の七十歳男性、と聞いて想像するのはどんな姿か。性欲はとっくに失せて、淡々と暮らす老人の姿だろうか。では、還暦の独り暮らしの母親と聞いて想像するのはどんな女性か。子供たちのことを案じながら倹しく暮らす姿だろうか。もちろん違う姿を想像する人もいるだろうが、テレビコマーシャルやドラマで描かれがちなのは、そうした人物像ではないか。だが、本作の彼らは、性欲はあるし、恋愛もする。もちろん誰もが彼らと同じわけではないが、ただ、コマーシャルやテレビに描かれるようなステレオタイプに当てはまる人は実際少ないのではないか。なのに、人は往々にして、そのステレオタイプに自分や他人を当てはめようとしてはいないだろうか。富雄やコヨミの母親だけでなく、他の登場人物たちも、そう問いかけてくる。  親、子供、大人、妻、夫。社会のなかでさまざまな役割を与えられて生きるなか、人は無意識のうちに世間に望まれていると感じる理想像を求め、演じる時があり、他者にもその像をおしつけてしまう時もある。そして自分自身を裏切り、他人を傷つけてしまうのだ。その社会通念や理想像という不確かなものと、個々人の本音の微妙なあわいを、本書は浮き彫りにしていく。  妻に先立たれた老人が、欲望はもう枯れて淡々と生きているかといえば、そうとは限らない。良き母親が、子供のためだけに存在しているわけではない。そもそも、息子の賢治から二世帯住宅を提案された時、富雄と妻の喜美代は喜んだわけではない。彼らはもともと那須に移住しようと考えていたのだ。賢治も、本当に両親にそばにいてほしかったというよりも、「親孝行する良き息子」像を演じる自分に酔い、両親がどんな老後を望んでいるのか斟酌せずに話を持ち出した節がある。そして、富雄と喜美代は、そうした提案は喜ぶべきものとして受け入れてしまったのだ。互いが本当に望んではいないのに、「こう振る舞うのは理想的な親子」という幻想に呑まれて、彼らはその役柄を引き受けてしまったのである。 この賢治が結構クセモノで、妻の里香と結婚したのも「母さんみたいに黙っていろいろとやってくれるような人が、やっぱり一緒にいて気が休まるわ」とほざいたり、精神に不調をきたして伏せってしまった喜美代に「母さんは、贅沢だな」と言ってのけてしまうあたり、相手の気持ちを考える、という姿勢が希薄という印象。その分、無意識のうちに他者に自分が望む役割を強いているのである。一方、喜美代は善良な人ではあるものの、無邪気に里香に「二人目を作るラストチャンス」と言って場を凍らせてしまうところがある。それもまた、相手の本音や事情を考えずに、「結婚したら子供を産むもの、一人目を産んだら次は二人目」という古い通念の押し付けだ。他人を苦しめるのは悪人とは限らない。心優しい人間でも、何かしら、そうした押し付け決め付けによって人を傷つけている。  ただ、押し付ける人間だけの問題ではない。終盤、富雄から飛び出す「老人は黙ってゲートボールでもしていれば満足なのか」という憤怒に対し、里香は「理解したいのに、お義父さんが理解させてくれないというだけです」と返す。夫の賢治によって理想的な妻という役割を期待されてきた彼女にもまた葛藤があり、富雄のよき理解者になる可能性を垣間見せる瞬間だ。 「ははばなれ」のコヨミの場合は、もう子づくりへの情熱も失せた彼女が、これからも性を楽しもうとする母親の姿(とその恋人の行動)に圧倒される。とっくに子離れしていた母親に置いてけぼりにされた彼女は、自分の未来を思う。彼女はまだ、将来の自分の姿がイメージできないのだ。  二篇とも、年配の登場人物たちが自分の望むように生きようとしているのに対し、下の世代は生き方を模索している様子。そして若い世代の読み手に対しても、この先をどう生きたいのか問いかけてくる。彼らの性を含めて、富雄やコヨミの母親の姿、周囲の家族や夫婦の言動をどう感じるか。家族観や人生観が大きく変化している今の時代をどう見つめているか、我々を試す作品だ。
・・・続きはこちら
地上生活者 第6部 最後の試み   李 恢成
「在日」として、 書かねばならない小説   評者:金ヨンロン

「私」を書いた小説が大長編になり、個人史を反芻したことで世界史をおのずと描いてしまったならば、その生は波乱に満ちたものであったに違いない。だが、そのような生を送った作家であったからこそ、「私小説的全体小説」という壮大な構想をし、実現することができたのだろう。日本が敗戦する一〇年前に樺太(サハリン)の真岡で朝鮮人として生まれ、戦争が終わってから日本に引き揚げてきて「在日」となった小説家・李恢成。『地上生活者』は、五〇年を越えた作家生活の後半の、二〇年の歳月をかけて書かれ、そして未だ書かれつづけている小説である。本書は、その第6部「最後の試み」である。  本書全体を支配するのは、語り手「ぼく愚哲」の、小説を書かねばならないという焦燥感である。だが、読者は直ちにこの設定が孕む矛盾に気づかされるはずだ。作中の「ぼく愚哲」は、「私小説的全体小説」を夢見ながらもそれを書けずにいるが、作家・李恢成は現にその小説を書いているからである。「ぼく愚哲」がしばしば「ぼく」と「愚哲」とで分離し、不安定な語りの場を創り上げるように、この自伝的小説における語り手と作家との関係も常に揺れ動く。他の登場人物も実名のままか、漢字を変えていてもモデルが判明できるようになっており(ここでは実名のみ表記)、フィクションと現実との境界が周到に操作されている。 「ぼく愚哲」が書きたい小説とはどのようなものか。一言でいえば、それは「在日」として書かねばならない小説である。その中身については、「ぼく愚哲」はまだ書けずにいるのだから、現在ではすでに書かれた本書からその内容を推定してみるしかない。 「ぼく愚哲」が書きたい小説は、日本と朝鮮の近代化を再考するようなものではなかったか。本書は、二〇一四年四月のある日、かぞえ八〇歳の「ぼく愚哲」が家族とともに富岡製糸場に訪れるところから始まる。明治初期に建てられたフランス式の製糸工場から近代日本の始まりを凝視する彼は、「朝鮮に資本主義の萌芽はあったのかなかったのか」という問いを立てて思考をめぐらせる。その延長線上にある第二章では、甲申政変(一八八四年)に失敗して日本に亡命した金玉均と福澤諭吉の交流、近代化への取り組み方が描かれる一方で、上海で金玉均を暗殺した洪鍾宇の生が並置される。このように「ぼく愚哲」には、自らの歴史的考察にもとづいて、日本と朝鮮の近代史を生々しく再現するという構想があったかもしれない。  さらに「ぼく愚哲」は、「在日」による文学史の再編を試みたかったのではなかろうか。とりわけ彼がこだわるのは、世界のなかに「在日」文学者を位置づけることであり、在日同胞のために新しい民衆文芸誌を立ち上げることである。切掛けは、一九八〇年代に西ドイツや広島などで開かれた一連の国際集会・文学者会議に、「在日」として参加した経験である。そこで彼は「在日」として世界の動きにつながっていく必要性を痛感し、南北に分断された祖国の現実のみならず、日本に定住している「外国人」として向き合うべき環境問題や核問題を考えはじめる。そうした過程で「ぼく愚哲」は、大江健三郎をはじめ、堀田善衞、小田実、野間宏、有吉佐和子など多くの日本の作家たちと交流する一方で、厳しい政治状況に置かれた韓国の作家たちとも出会う。光州事件の後にアメリカに逃げていた黄晳暎が帰国の途中に立ち寄った日本で行った活動、韓国民主化闘争と金芝河の動向、『糞地』を書いた南廷賢、朴正煕維新体制と対立して大学から除籍され、パリでタクシードライバーをしている洪世和との会話が挿入される。こうした世界情勢と結び付けながら日本と朝鮮半島の文学者達を横断的に語る文学史の再編成を、「在日」の「ぼく愚哲」は考えていたと想定できる。 「在日」の観点から捉え直す歴史と文学史に加えて、「ぼく愚哲」が書くべき小説には家族史も入ってくるはずだ。本書では、「ぼく愚哲」と恋人・安淑伊との関係によって崩壊しつつある家のドラマが、息子たちの反抗や民族学校の問題などを交えながら展開される。「在日として生きる」ことを強調しても「オレはオレ」と答える次男を見ながら、「ぼく愚哲」は父との過去を振り返る。この「家」には、「在日」の各世代の歴史が刻印されているのである。  以上のようにまとめると、「ぼく愚哲」が書きたい小説は、「在日」として書かねばならないというより、「在日」しか書けないもののように思える。しかし、それを書くことは容易ではなく、本書にはその困難も暗示されている。ヒントになるのは、本書の中盤、章のタイトルにもなっている中野重治の短編「小説の書けぬ小説家」である。この小説は、戦時中の激しい言論弾圧のために書きたいことが書けない小説家の話であり、書けない部分を空白のままにすることで読者の想像力を促すような方法を取っている。「ぼく愚哲」がこの方法論を受け継いでいるのは確かだ。ソ連領のサハリンに残された朝鮮人たち、共和国に戻っていかねばならない「北の工作者」、独裁政権下の韓国で闘っている人々たちの立場を考えて、「ぼく愚哲」は「ありのままに」書くことができない。それでも彼は、「頭をめぐらし、仕掛けはつくっておいた」と述べている。この「仕掛け」を工夫することで書けない状況を書き記し、読者の参与に期待する方法こそ、中野重治が戦時中に試みたものである。  こうしてでも「ぼく愚哲」は、「在日」として書かねばならない。書かないと誰にも知られないまま消えていく人々と、その歴史があるからだ。この「懐かしい人びと」を、現在進行形の小説のなかで生かし、永遠に保存せねばならない。
・・・続きはこちら