愛と人生

滝口悠生

1870円(税込)

言葉で言葉の裏をかくこと

三浦雅士

 滝口悠生第一作品集『寝相』収録の短篇「わたしの小春日和」に次の一節がある。

「問題はあなたが無職だとか収入がないとかいうことではないのです。それは多分あなたもわかっている。問題はあなたが見るべきものを見ず、考えるべきことを考えていないことではないですか。それは卑怯なこと、という言い方が悪ければ、やさしさを欠いた振る舞いだとわたしは思います。噓のない答えなどないとあなたは思っている。そして、だから問うまい、考えまいとする。わたしはそれが、それだけが我慢ならない。あなたのそれ以外の部分は今も大好きなのに。」

 別居している男に妻が離婚を通告した手紙である。引いたのは、「噓のない答えなどない」と思っているのは作者すなわち滝口悠生にほかならないと考えられるからだ。この作家にとって書くことは「問うまい、考えまい」とすることなのだ。というか、書くことに真正面から向き合って唯一導き出すことができた方法がこれだった。そのことはこの直後にほとんど決然とした口調でこの男つまり語り手が述べていることからも明らかである。

「なぜ毎日地面を這っているのか、私は今も洋平に訊けないままでいた。私は洋平の行動原理もまた、答えざるべき問いであり、留保であるように思え、なぜと問わないことが彼に対する唯一許される態度であると思っていたが、実は彼の理由なき行動それ自体が、噓を追いつかせまいとする答えなのかもしれなかった。」

 洋平というのは近所に住む小学生。自宅前の道路を毎日這うのである。その不可解な行為を「私」はあたかも「書を捨てよ、街へ出よう」といった宣言として受け取ろうとしている。「私」ひいては作家自身が、「書くこと」を「行動」と同じ次元に引き上げようとしている、つまり「噓を追いつかせ」ない速度で書こうと考えているからである。この作家にとっては、見るべきものを見、考えるべきことを考えることは、噓にからめとられる、歴史と社会にからめとられることなのだ。だが妻にいわせればそれは、結婚することがすでに噓にからめとられることの是認――やさしさ――である以上、卑怯なことなのである。けれど男つまり作家は、それは逆ではないかと考えている。

 言葉は噓をつく。言葉とは噓のことなのだ。したがって、言葉で言葉の裏をかくことによってしか噓ではない何かを手にすることはできない。だが、それは歴史と社会から脱落すること、ドロップアウトすることにほかならない。短篇集『寝相』の魅力がドロップアウトした人間の魅力と重なっているのは必然である。

 第二作品集『愛と人生』に収められた短篇「かまち」と「泥棒」は連作だが、その魅力も同じところにある。しかし、冒頭におかれた表題作「愛と人生」はちょっと違っている。方法そのものを対象化しようとしているからだ。『寝相』では、とりあえず主題を限りなく横にずらしてゆくこと――些細なことが重要になり重要なことが些細になる――によって「噓を追いつかせまい」としてきたが、噓から逃れようとしてたんに噓を重ねたにすぎないともいえる。実際、作者は噓をつくのがうまい。卓越したストーリーテラーだ。それは「愛と人生」の、仲居として登場して食事の世話をする女将の物語や、網走刑務所から出所して昔の女のもとへと向かう男の物語などをたちどころにでっちあげる、その手際のよさが証明している。

 歴史と社会が虚構であることはそれらが次々に書き改められることからも明白である。だが歴史的事実、要するに史料には何かしら堅牢なところがある。共同幻想の堅牢さといってもいい。たとえば映画『男はつらいよ』で寅次郎を演じつづけた俳優・渥美清の人生は事実ではないか。あるいは、映画という虚構の世界が逆にその背景となった街・葛飾柴又の現実を変えてゆくとすれば、その変化は事実ではないか。作者が、噓の仕組を見極めようとして、映画『男はつらいよ』シリーズを真正面から取り上げることにした理由だ。そのうえ「帝釈人車鉄道」、「豆相(ずそう)人車鉄道」も取り上げられている。レールを敷いた鉄道の上を人が押して車両を走らせる人車鉄道、とりわけ「帝釈人車鉄道」なるものが柴又に実在したことは、知る人ぞ知る噓のような史実だ。作者はその史実を簡明にしるしてゆく。結果的に作者は、吉田健一晩年の小説、あるいは高橋源一郎の一連の小説のように、批評と小説の間を縫う手法を採ることになるわけだが、その効果は吉田や高橋のそれとはかなり異質なものになっている。

 戦後の一時期、小説家が神の視点に立つことを難じる風潮があったが、むろん意味をなさない。神は言語の所産であり、言語こそ神の次元、超越論的次元にほかならないからである。作者は、『男はつらいよ』シリーズ第三十九作に登場して寅次郎とともに母を捜すことになる少年・佐藤秀吉(虚構)の視点にいともやすやすと立ち、それを語り手すなわち「私」とする。そうしてシリーズで重要な脇役を演じつづけた美保純を役名ではなく芸名(現実)のまま登場させ、「私」の欲望の対象とする。二人が「人車鉄道」に乗る後半が小説の白熱する場であり、荒唐無稽というほかないこの後半の展開はいつしか異様な現実性を帯びるにいたる。これが小説の魅惑の核心である。愛の現実性、人生の現実性とはすなわち濃厚な虚構にほかならない。「噓のない答えなどない」が、噓にはいわば濃密な噓と希薄な噓があるのである。

 小説の先端を切り拓く実験的な作品といっていい。だが同時に、吉田の小説がそうであったように古典的な相貌をもつともいわなければならない。作者の問いかけは古典的なものなのだ。実際、たとえば中国の伝統的な隠遁者文学――ドロップアウト小説――はほとんどつねに、現実と虚構が折り重なってバウムクーヘンのような多層を形成する人間の世界を描き出してきたのである。言葉によって言葉の裏をかくことこそ、文学の常套であったとさえいっていい。とはいえ、そういう座標を的確に提示したことにおいて、「愛と人生」は群を抜いて新鮮であるという事実はいささかも揺るがないだろう。