憂国者たち

三輪太郎

1980円(税込)

三島のよろめき

苅部 直

 南横浜、海沿いの丘陵地帯にあるという、大学の研究室でこの物語は始まる。時は四月、「樹々のどんより白濁した匂い」が微風に乗って窓から吹きこんでくる昼休みである。部屋の主は五十歳くらいと思われる近代日本文学の教員。峰岸という名字も登場するが、この小説では「私」と名乗る男の語り手である。

 その語りには、自分が大学生だった三十年前と、いまの大学文化のちがいについて嘆く言葉が散見される。政治的な立看板が消滅し、社会秩序を覆すような言説に学生が共感を示さなくなったことに、「私」は苛立ちを見せる。しかしそのくせに、「テクストを丹念に正確に読んでいくという作業が政治に邪魔されておろそかになることを、私はもっとも恐れる」と無邪気に思いながら学生を指導する。まだ政治の空気のあった三十年前の大学にノスタルジアを抱くにもかかわらず、政治意識と文学研究との相互関係については真剣に考えたことがなかったようである。

 いまの学生たちに対しても「私」はどうやら辟易しているらしいのだが、その「私」を強く惹きつける学生が二人、近代日本文学のゼミから現われた。「私」が「あなた」と呼ぶアカネと、「君」と呼ぶ恭一朗である。二人はそれぞれに卒業論文を準備する過程で三島由紀夫に惹かれてゆくことになり、その過程で「私」とのあいだに交わす言葉が、この小説を進行させてゆく。

 二人との関係においても「私」はダメ教員ぶりを発揮する。帰宅途中の学生を呼び止めて安酒場に誘い、強い酒を飲ませて、はたして大丈夫か。研究室へ卒論の相談に現われたアカネが、構想にゆきづまって泣き出してしまったとき、「私」は他人に見られてはまずいとドアの鍵をかけるのだが、かえってハラスメントを疑われる行動である。こういう場合の正解は、自分がしばらく外に出るか、電話をかけて第三者に同席してもらうという選択肢だろう。

 しかし「私」が凡庸で情けない教員として描かれる分、若い二人の真剣さと、その反面での危うさがきわだって読者に迫ってくるのである。アカネはインターネットを通じて、かつてのボスニア–ヘルツェゴヴィナ紛争でのセルビア人勢力の指導者、ラドヴァン・カラジッチが三島由紀夫の作品を愛読していたと知って、みずから東欧の現地に赴き、関係者から話を聞く。

 恭一朗ははじめ、三島の起こしたクーデター未遂には反感しか抱かなかったのだが、新大久保での排外主義デモと批判派との衝突を目撃したのをきっかけに、小さな右翼団体と出会い、やがて三島の『豊饒の海』四部作を独自に読み解くことを通じて、「本物の憂国者」としての実践へと身を投じてゆくのである。

 三島は、政治と文学とは究極的にあいいれないという断絶から出発する。そして、あえて虚構としての「政治」を実践し、生命を犠牲にすることで、みずからの文学を完結させようとした。そうした非政治的な政治実践者、非文学的な文学者として三島を理解する点で二人は共通している。アカネはカラジッチの民族主義の政治行動にそれと通じるものを見いだし、恭一朗は三島をこえて「本物の天皇と日本」を求める運動へと向かうことになる。

 しかし、この二人が示す思考もまた、いかにも薄っぺらいのである。「私」が懸念を示すとおり、アカネはほとんどセルビア側の関係者からしか話を聞かず、ムスリムの女性の証言に対しては、中立的と思えない通訳が加えた補足を鵜呑みにする。また、民族間の虐殺行為と広島・長崎への原爆投下とを同一視するセルビア人の妄言に感化されて、素朴な反米主義を信奉するようになる。

 恭一朗は左翼の父親に連れられてデモに参加した経験が豊富なのに、排外主義デモをめぐる騒動が示す感情の「凶暴さ」に衝撃を受け、その空気に囚われてしまう。そして出入りすることになる右翼団体も、「武家」と「儒教道徳」を混同してしまう程度の不勉強な集団である。どちらも、あまりにも純朴すぎるのではないか。いま卒論や就職活動に汗を流している大学生たちは、もう少し大人だろう。

 これはむしろ、三島が求めようとしたナショナリズムの感情が、もはや希薄なものとなっていて、排外主義のヘイトスピーチも、それに対抗する運動も、両方とも着脱可能なファッションにすぎないものとなっていることを示しているように思える。実は小説のなかで恭一朗もまた、三島事件のさいの演説の録音を聞いたところ、その声が意外にも「弱々しい」ことに衝撃を受けている。一九七〇年にはすでに、三島ですら愛国心に本気になることができなかった。それ以後、国民の一体性の意識はその根柢のところで拡散し、希薄になる一途だったのであろう。もちろんそうだからと言って、現実にある排外主義の運動が、危険性をもたないというわけではないが。

 もしかするとこの小説の全体が、四月のうららかな午後に「私」が見た夢だったのではないか。二人の学生が、いかにも「私」が喜びそうな態度で、長々とメッセージを書いたり口頭報告をしたりするのは、日常の学生対応に疲れている大学教員が夢に見そうな情景である。アカネと恭一朗という名前にも、昭和歌謡のような気配が漂っている。

 三島は『豊饒の海』の末尾で、すべてが記録係としての本多繁邦の夢想であった可能性を登場人物に指摘させ、小説のリアリティの全体を宙づりにした。この小説は、それ自体が作者の三輪太郎自身の三島由紀夫論であるともに、三島の作品へのオマージュとも言えるような、巧みな仕掛けを潜めている。