もう生まれたくない

長嶋 有

1650円(税込)

カジュアルな死

山城むつみ

 カバンの中からボールペンを取り出そうとして見当たらなくても、どこかで失くしたかな、くらいにしか思わない。百円台のペンだからまた買うことにして、さしあたりは別のもので代用する。それがふつうだ。盗られたなどと騒ぎはしない。なくなっていても、そのことに気づいていないことさえあるのだ。こういう、無意味とは言わないが、代用可能で、大事でないもの、取るに足らないものが身の周りには少なからずある。少なからずどころか、かなりある。

 女子学生が無防備に置いて席を立ったトートバッグの中のボールペン、ビールの開栓のために中華屋の席に置かれている栓抜き、スマートフォンを見るたびに友人が入力する四桁のパスワード、そういうものだけを選んで、しかも何に使うためでもなく、ごくカジュアルにくすねる奇妙な「盗癖」を持った、根津神子なる女性が作中に出て来るが、モノだけではない。コトにもそういう些末なものはある。

 本書から一例を抜き出すと、桜塚やっくんの交通事故死がそうだ。聞いたことがある名前だくらいの認識しか私にはない。検索し、スケバンに女装した風貌を写真で見て、ああ「エンタの神様」で観たことがあったと思う程度で、このタレントが事故死した事実は、トートバッグの中のボールペン同様、無意味とは言わないが、さして大事でない、決して歴史を左右することのない些事だ。

 あるいは、こういうモノやコトたちは、私の生のかなりの部分、いや案外、本質をさえ構成しているのかもしれないが、意識はされない。と言って、無意識と言うほど、深く沈潜しているわけでもない。SNSのタイムライン上の記事のように、新しい情報が書き込まれるごとに、下へ押しやられ、やがて意識のディスプレイから消えるだけで、二、三のキーワードで安直に浮上して来る。

 作者は、これら取るに足らないモノたち、コトたちを積極的に取り上げる。さながら神子のように、カジュアルな健忘の領域をまさぐり、無意味ではないが、大事というわけでもない、この軽く、うすい記憶を選り抜いて来て、読む者の脳を適度に刺激するのだ。そうそう、忘れていたけど、そういうのもあったねという確認のリアクションを引き起こすべく諸アイテムは絶妙に選び抜かれている。

 むろん、モノもコトも、ただ懐かしさを確認し合うために抜き出されるのではない。最後に「本作に登場する主な死者と死因」というリストが掲げられているとおり、それらの固有名は死という糸で数珠つなぎになっている。当然、リアルな死ではない。ダイアナ妃や桜塚やっくんの事故死のように、書き込まれてまもなく「ディスプレイ」の下に沈んでいった、所詮は他人事の、平板な死である。だが、作者の筆先は、トートバッグから抜き取られたボールペンのようにカジュアルなその平板さに、リアリティなどとは異質の「生々しい感覚」を繊細に触知している。

 それは、端的には、「海外の、大昔のパソコンゲーム」の中で小波美里が経験した殺人の感触として描かれている。寂れた無人の街を歩いていたら、武器を手にした、見知らぬ女が現われる。とっさに、殴れと言う意味でhit herと入力したら相手は死んでしまった。女から暗号を聞き出せなくなったこの時点でゲームはクリアできなくなったわけだが、ゲームオーバーにはならず、moveと入力すれば、その後も街中を移動し、もはやどうにもならなくなったその世界を徘徊できたという。

 この「「人を殺した」瞬間の「あっ」という感じ」は「生々しい」偶然性から来る。「殺意があって殺すとき、殺す側の人はもちろん「あっ」とは思わない」。他方、このゲームの中で生じた殺人にはその「あっ」という事故性があり、それは「指数関数的に強まる」。結果、「後悔のようなもの」がどうしようもなく残る。

 あたりまえのことだが、ダイアナ妃の事故死はゲーム内の出来事ではないし、王妃は神子が殺したわけではない。だが、神子は、ダイアナの訃報に接したとき、ニュースが伝えるその平板な死に、どうしようもなくカジュアルな闇が(小野遊里奈を脅かさずにはいない、バイト先のビルの非常階段の細い手すりとワイヤーの間の「不自然な隙間」のように)ぱっくり口をあけるのをまのあたりにして、右の「「人を殺した」瞬間の「あっ」」に通じる叫びを心に発しなかっただろうか。彼女が地元のマクドナルドで初めて人のものをくすねたのはその日の夜なのだ。神子の場合も「「あっ」は遅れてじわじわと訪れ、そして長い時間、支配した」のである。

 同じカジュアルな「隙間」は、ゲームやテレビの中の死だけでなく、リアルな死にも見出される。首藤春菜の夫はアウトドア雑誌に載っているグッズに憧れるばかりで山へは行かなかった。春菜は運動不足解消のために実地にキャンプをしたらと夫にすすめる。夫は、友人とキャンプをやって自信をつけた。二度目は一人で山に野営に出向いた。そして、事故死した。あの「「人を殺した」瞬間の「あっ」という感じ」はここにも潜んでいる。決して他人事ではない夫の死においてカジュアルな穴が不意に口をひらき、「後悔のようなもの」が「遅れてじわじわと訪れ」、長期間、彼女から眠りを奪い続けるのだ。

 本書は「2011年7月」、「2012年10月」、「2013年6月」、「2014年4月」の四部から成る。現実においてと同様、作中でも東日本大震災の「爪痕」は年々うすれてゆく。しかし、本書においては、そのcasualtyが「遅れてじわじわと訪れ、そして長い時間、支配」するようになる。casualty──「1《広義》(事故・災害などの)死傷者、被害者、犠牲者(victim);[~ies]死傷者数[規模];《狭義》[軍事]死傷病兵;消耗兵;消耗人員〔中略〕/2大事故、惨事/3[無冠詞で]=~department/4[しばしばおどけて]損害を受けた物、損失物;[比喩的に]状況[物事]のあおりを受けた人[物]」(『ジーニアス英和大辞典』)。