四月の岸辺

湯浅真尋

1980円(税込)

加害性の自覚

水上 文

「あれはきっと、暴力だったんです」

「暴力?」

「そう、私から、一ノ瀬さんへの」

「話しかけるだけで、暴力?」、念を押すようにぼくは訊いた。

「ええ」と言う芹澤良子の声に迷いはなかった。「すくなくとも、あのときの私はそう思ったんです。ほとんど直感的に」

 

 湯浅真尋の初の小説集『四月の岸辺』に通底するのは、「話しかけるだけで、暴力」なのだと迷いなく断言する態度であるように、私には思える。

 本書には二つの短編、「四月の岸辺」と「導くひと」が含まれている。

 いずれも既存の社会で異端視されてしまう人々を描いていた。小説の中の人々はみな、異端視されることによって傷を受けていた。暴力がなんであるかをよく知っていた。だがよく知っているからといって自らがそれをなすことを避けられる訳ではない。「話しかけるだけで、暴力」なのだと迷いなく断言する感性に貫かれて描かれるこれらの作品は、どのような場所であれ生じてしまう加害/被害の関係を、暴力の発生を、丹念に描き出すのだ。

 たとえば「四月の岸辺」では、小学生までスカートを穿いていたが中学生になって規定の制服のズボンを穿くようになった「私」と、「森の子ども」と呼ばれる、ある種の宗教的コミューンで生きる少女の交流が描かれていた。

 主人公は小学生時代、スカートを穿き、髪を伸ばし、「ほかの男の子たちのようにはスポーツにもゲームにも全然興味が持てないし、男の子よりも女の子と話しているほうが楽だし楽しい」と考えるために「女男、とか、男女」とよくからかわれていたのだった。だから中学に入ると同時に「私」は髪を切り、他の男子生徒と同じ制服を着るようになる。

 けれども少女は「私」とは違う態度を選択していた。入学式の次の日の自己紹介にあたって、自らを「森の子ども」であると朗らかに宣言する作文を書いて朗読するのだ。そんな少女の姿は「私」に鮮烈な印象を残す。「私」は少女に話しかけ、交流を望む。二人の交流が始まる。けれども「私」は、しばしば生じる少女への、周囲からの好奇の目と攻撃的な言葉に耐えることができない。少女はそれについて何も言わないが、共にいる「私」はまるで自分のことのように傷つき、具合が悪くなる。その場にいることを耐え難く感じる。少女は背筋を伸ばしたまま、超然とした態度を保っているが、「私」はそんな少女を眩しく感じるばかりであり、少女が実際には何を感じているのか聞くこともできない。

 異端視されることの傷をよく知っている「私」は、「森の子ども」であるがゆえに異端視される少女を、周囲の人々と同じように切り分けてしまうことに抵抗を感じているのだった。

 だから読点のみで息の長い一文を連ねて描かれるこの作品は、中学生になった「私」の声そのままに、あらゆる物事を地続きにつなげて描写しようとするものである。物事や人を整然と区別してはばからない、あちらとこちらの境界線を強固に引いて恥じ入ることのない「大人」の世界観とは別のものを見出したい「私」の願いそのままに、文体は長々と続いていく。

 けれどもそんな「私」の願いを裏切るように、小説が描き出すのは一種の破綻なのである。

 少女を異端視する人々に与したくないと思いながら、しばしば感じる少女との断絶の中で揺れ続ける「私」は、最終的にある出来事によって少女との交流を断つ。境界線を引かず滑らかにつながっていくような関係をついに得ることはできない。暴力が、加害と被害が発生する瞬間を、完全に避けることはできなかったのだ。

 そしてこうした「四月の岸辺」が描き出す破綻を、また別の角度から、より明快かつ劇的に描く小説こそ「導くひと」である。

 ここでは、「四月の岸辺」でも描かれた宗教の問題が中心的主題となって扱われている。

 それはテロ事件を起こした教団─オウム真理教がモデルになっていると思われる─から離れ、山梨県の集落に移住した男を中心点に、様々な人物が登場する小説である。語り手は行方の知れなくなったこの男を探している。そして男がバイトしていた先で知り合った女性に話を聞きに行き、この女性の語りから小説は始まるのだ。

 そのうちに、「四月の岸辺」にも登場した青年─かつて「森の子ども」であった青年─も登場する。もちろん二つの短編は、独立して読むことができる。けれども二つの短編を共に読むことによって、私たちはいかに「導くひと」が感傷を排した恐ろしいまでの場所に立っているのか、一層明瞭に気づくことができるのだ。「導くひと」では、「四月の岸辺」で採用されていたあの「私」の願いが託された長々とした文体が、つまり境界線を乗り越えたいと願う幼い子どもの純粋な、だが不可能な願いが姿を消していた。「導くひと」はだから、もう何によっても緩和され得ない暴力をじかに描くものであるのだ。

 さて、小説には女性から語り手に送られてきたメールや、男が女性に対して宛てた手紙、あるいはかつての教団の仲間から男に宛てられた手紙など、様々な「誰かが誰かに語りかける」形式のものが登場している。それらが折り重なって物語は展開していく。

 折り重なって─けれども、決して通じ合わないこと、様々な人が人に「話しかけ」ながらも、結局のところその話が一向に相互的にならないところに物語の核はあるのだった。

 人は皆、語りかける当の相手とは別の「何か」を求めている。だから「話しかけ」ることは無残なすれ違いを、こう言ってよければ「暴力」を生んでいく。小説が最後にたどり着くのは、もはや何によっても取り繕えず、自らの加害性を自覚してしまった人の姿である。それは恐ろしいものである。だが、ここからしか始まらないのだと、どこへ行っても暴力を発生させ得る私たちはここから始めるしかないのだと、そう言われているように、私には思える。