戒厳

四方田犬彦

2200円(税込)

問いの賞味期限

斎藤真理子

 二十二歳の男性が外国へ行く。一年後、戻ってくる。そういう話である。だがこの小説は、若者が異文化の真っ只中に投げこまれて一回り大きく成長するといった筋書きではない。そうではなくて、『戒厳』の主人公である瀬能の役回りは、もともといた地点で足踏みしつづけることのようだ。

 一九七九年、買春観光と軍事独裁政権の国というイメージしかなかった韓国へ、瀬能は大学の日本語教師として赴任する。このあらましは、著者自身の経歴と重なっている。だが、『戒厳』は、「半自伝的小説」と銘打たれているものの、「自伝」よりは「小説」の方に軸足を置いて読んだ方がいいかもしれない。瀬能と著者との間には、計算された違いがあるからだ。

 瀬能が赴任したのは、大学を出たての二十二歳のときである。ところで、韓国には徴兵制度がある。男子学生の多くは在学中に三年近い兵役(現在は一年九ヵ月)をすませるので、卒業時には二十五〜二十六歳だ。従って瀬能は、自分自身は社会人経験がないのに、年長の、しかも軍人経験を積んだ学生たちも教えなくてはならない。といっても韓国で教師は無条件に尊敬の対象なので、瀬能も彼らに丁重に遇されるのだが。

 一方、著者自身は修士課程を終えてから赴任したので、渡韓時には二十六歳だ。一歳の違いでも呼称を変えなくてはならないほど長幼の序にうるさい韓国で、この違いは大きい。

 こうして瀬能は、著者自身より少し純情で、無知で、より白紙状態に近い、また、ある意味保護された観察者として登場する。そして、今の韓国しか知らない読者が読んだら驚くに違いない荒ぶる時代の韓国で多くの人に会い、さまざまな経験を積む。だが、そこがアメリカやヨーロッパ諸国だったら絶対に体験しない濃密な困惑や屈託が、終始、瀬能に自分の出てきた国を振り返らせる。

 例えば、「わたしが日本語を学んでいるのは日本の本を読みたいからです。それだけです」「民主主義についての書物を読みたいのです」と話す学生の真摯さに瀬能はたじろぐ。かと思うと突然KCIA(中央情報部)に呼び出され、行ってみると、新規職員を採用するから日本語会話能力の試験官をやってくれと頼まれる。いったいKCIAはその日本語で何をさせるのか。そしてこの試験には、植民地統治時代に身につけた日本語能力が落ちていないか確かめるためだけに受験したという白髪の紳士までが参加しているのだ。日本語一つとっても、親日・反日のグラデーションなどに収まらないリアリティが充満している。ショックは大小入り乱れ、その一つひとつが目眩を伴うほどだが、それをどう咀嚼すればいいのかというところで、瀬能は足踏みせざるをえない。

 韓国と日本の決定的な違いは徴兵制度の有無だと、瀬能は早々に見抜く。大学には「軍隊が露出して」いる、しかし学生たちは軍隊の話などしない。軍隊は部外者に語るようなものではなく、ただ、行くところなのだ。

 興味深い場面がある。瀬能はある日、二人の全羅南道出身の学生に誘われて扶余や光州に旅行に行く。節約のため、何泊かは山中でのキャンプだ。そのとき、二人の学生の身体に「兵士」の経験がはっきりと染みついていることに瀬能は改めて驚く。彼らは、「リュックを地面に降ろすやいなや、すばやく後方を振り返った。ほとんど自動的な、反射的ともいうべき動作だった」。

 そして、この小説のクライマックスである「戒厳」がやってくる。十月二十七日の早朝、医大生である友達から瀬能は電話を受ける。「全国にわたって非常戒厳令が発動された。大学はみんな無期限休校で、集会は禁止だ」。

 ソウルのどこかで本格的な反政府暴動が起きたのだろうか。いや、混乱に乗じて北朝鮮軍が攻めてきたのか。非常戒厳令が出たことはわかったが、なぜなのかはわからない。それは韓国人の友人も同じなのである。

 やがて、十月二十六日(それは安重根が伊藤博文を狙撃した日でもある)に、朴正煕(パクチョンヒ)大統領が金載圭(キムジェギュ)に狙撃されて死亡したためと明らかになるが、瀬能は「これまで予期もしていなかった大きな芝居に立ち会っている」と感じる。そして、自分は決してその登場人物ではありえないことを思い知らされつつ、帰国の途につく。

『戒厳』に書かれた、暴力と激情と予兆に満ちた迷宮のようなソウルはもはやない。韓国は大きく変わった。けれども、約四十年が経った今も朝鮮戦争は休戦中にすぎず、徴兵制は消えていない。リュックを地面に置くとき反射的に後ろを振り返る仕草のような何かは、露出してはいなくとも、今も韓国社会の底を支えている。

「国家とは何か。軍隊とは、民族とは何か。歴史と言語の記憶とは何か」。そんなむき出しの疑問を抱えて瀬能は日本に帰国した。けれども、それを受け止める人は日本にいない。『戒厳』に出てくるエピソードの多くは、今まで著者が何冊かの本で書いてきた内容と重なるが、本書の新しさは、瀬能がこうした問いを抱いて足踏みしてきた年月そのものを強く意識させることだ。そのせいか、本を閉じても微量の戦慄のような、ホワイトノイズのようなものが続く。それに浸っていると、例えば、なぜ日本は二・二六事件以後、「戒厳」を経験していないのだろう? といった唐突な問いが湧いてきたりする。

 このように『戒厳』は、一つの青春の肖像であると同時に、日本という国の肖像でもある。物語の終盤で瀬能は、「問いというものには賞味期限があるのだろうか」と問いかける。バブルのはるか前の時代から現在まで、保留にされ、持ち越されてきた何かが、著者流に言うなら「韓国という〈無意識〉」に引きずり出されて眼前にあるという印象を受けた。

 賞味期限は過ぎたのかもしれない。だが、賞味期限が過ぎても消費期限がある。それがどのあたりまで迫っているのかは見当もつかないままだ。