今日よりもマシな明日 文学芸能論

矢野利裕

1870円(税込)

芸能としての文学は政治の夢を見る

倉数茂

 この原稿を書いている2022年4月上旬、ウクライナでの戦争は6週間目を迎えている。ロシアの侵略が始まってからというもの、全世界はウクライナのゼレンスキー大統領の姿から目を離すことができなかった。卓越した指導者は偉大なパフォーマーでもあることを彼は強く印象づけた。俳優出身の大統領は、政治が芸能の力に基づいていることをよく知っているのだろう。

 文芸評論家であるとともにDJ、音楽評論家としても活動する矢野利裕は、本書で、文学を芸能の一形態であるとする。折口信夫は文学の起源に人と神とが交わる祭祀の場を見出したが、その後、同時代的に生み出されている文学を芸能として捉える批評家はほとんどいなかった。矢野はその空白を埋めるように現代の芸能(ヒップホップ、ソウルミュージック、歌謡曲、お笑い……)と完全に等価なものとして現代作家を取り上げる。

 では、矢野の考える「芸能」とはなにか。端的に言えば、それは不可視だったり、光の当たらなかったりする存在を、衆人の前に引き出し、声と身体によって人々を沸かせることである。死者や精霊の声をもたらすシャーマンも、無意識の情動を掬い上げてフロアの客たちを踊らせるDJも典型的な芸能者である。芸能者は、観客の前に現前する生身の身体を通じて自分とは異なる何かを表示する。例えば矢野は、いとうせいこう論で、ラッパーでもあるいとうに触れる中で次のように述べる。「ラッパーの言葉は単一の声(モノフォニー)ではなく、多くの声を束ねたもの(ポリフォニー)としてある。いま、この声を「代表」しているのはたまたまその人だが、そのうしろには「多数の声」による《ざわめき》がある。ヒップホップを聴くとは、いま・ここに表象された声を通して、その背後に存在する無数の《ざわめき》を感じ取ることに他ならない」。

 この言葉を読めば、「芸能」がそのまま「政治」に通じていることに気づくだろう。不可視の多数者を少数の「代表」によって表象するとはそのまま代表制の原理だからだ。だから本書の前半の町田康論といとうせいこう論で論じられているのは政治だと言っていい。特権的な身体を通じて声なき声にかたちを与え、コミュニティの意思決定に参与させるという意味では、民主主義はある意味きわめて「芸能」的なのだ。

 しかし、矢野がコミットするのはより現代的なマイノリティ・ポリティクスや社会的包摂である。彼はフランスの哲学者ジャック・ランシエールを引きながら、政治の場に居場所を与えられていないものたちが、突如として声をあげる局面こそが本質的な意味での「政治」であり演芸なのだという。それまでいないとされていたものが不意にステージに上がる瞬間のスリルと戦慄、矢野はそこに芸能のコアを見ている。そしていとうせいこうは小説というかたちで、そうした芸能=政治を行なっていると解釈される。このように、芸能という項を挟むことで政治と文学が通底する。

 とはいえ、これはいくらかお行儀の良すぎる議論のようにも見える。リベラルなトレンドとしてのマイノリティ・ポリティクスに芸能を引きつけすぎているからだ。芸能とはいつでも弱者に寄り添い、マイノリティをケアする一方のものだったろうか? いや、もちろんそんな生易しいものではなかったはずだ。伝統的に芸能は被差別民が担うものとされ、差別の構造を維持する役割も果たしてきたのだから。

 本書の後半(西加奈子論と小山田圭吾の東京オリンピック開会式降板を扱った補論)は、まさにそうした芸能と差別の問題に踏み込んでいる。矢野は西加奈子作品の登場人物に見られる「おかしさ」に注目する。パフォーマー(芸能者)の身体が生み出す「おかしみ」。このおかしさは日本語では、おもしろい、笑える、変だ、逸脱している、といった意味を全て併せ持つ。西加奈子作品の登場人物はしばしばこうした「おかしみ」を持ち、そのために笑われたり除け者にされたりすると同時に、周囲から愛される。この「おかしさ」は、必死だったり余裕がなかったりすることによって生まれるのだと矢野はいう。人は夢中なとき、正しいとされている規範やマナーを忘れる。身体が勝手に自走しだす。そこに現れる過剰さや逸脱こそが、芸能の、あるいはマイノリティの輝きなのだ。

 際どい論理である。矢野自身が意識しているように、他者の「おかしさ」を認めることは同時に差別の構図にもなるからだ。芸能はマイノリティに光を当てることで、それを見せ物、晒しものにするという面を持つわけだが、それはいわば政治的エンパワーメントのネガティブな反転像である。 例えば日常的に出会う過剰で逸脱的な身体というのは、端的に(健常者から見られた)身体障害者であろう。身障者の「夢中」で必死な動作を「おかしい」と感じることはありうる。しかしそれが愛と共感につながるか、侮蔑と嘲笑につながるかは決め難い。

 ここで矢野は、リベラルな多文化主義、つまりマイノリティをひとしなみに等価な「市民」の枠に押し込めていくのとは違う論理を探ろうとしている。それは他者の身体の過剰さ、その奇矯さを積極的に肯定し、情緒でもって接近することだ。言葉をかえるなら、他者の「おかしさ」をおおらかに笑うことだ。しかしそれは差別と紙一重の位置であるかもしれない。それが文学=芸能の立場だと矢野は述べているのだと思う。

 現在、文学でもあらゆる場面で「倫理」が問われるようになってきている。それは時代的な必然である。今さら文学や芸術を倫理の通用しない場だと主張するのは明らかに分が悪い。けれどもその倫理にある種の柔軟性や複数性を導入する必要はあるのかもしれない。杓子定規の正義は作品を硬直させる恐れがある。

 矢野が文芸批評に持ち込もうとしているのは、理屈ではうまく制御できないような身体性や情動性、あるいはリズム、響き、ノリである。実際、矢野の文章から感じられるのは論じている対象への強い思い入れだ。今の批評の言葉に飽き足らないという人に読んでほしい。