雲をつかむ話

多和田葉子

1760円(税込)

響遏行雲

円城 塔

 雲をつかむような話、ではなく、雲をつかむ話である。つかむからには、握るような動作を伴う。捉える、閉じこめるといった気配をまとう。『雲を掴む話』ではない。「掴」の字には「手」と「国」が寄り添い並ぶ。ここで「掴む」は開かれ、霧散する。多くの国を移動しながら、わたしは過去に出会った犯人たちをつかもうとする。捕まえようとするのではない。

 雲はときに蜘蛛でもあるが、このすりかえは日本語でしか成立しない。わたしはわたしだけの脈絡を見る。作中に登場する蝶と鰈、そうして作者の多和田葉子。いずれの中にも枼字がひそむ。漢字圏の読者には即座に見える単なる事実も、他言語読者にとっては存在しない。いやもしかして意味を欠いた字面を見る分、むしろそちらが目につくこともあるかも知れない。一方、日本語話者にとってさえ、耳で聞いた音だけから、鰈と蝶の共通点に気がつくことはむずかしい。確固とした存在がひらりと身をかわすのではなく、雲のようにそこにある。手を伸ばすと形を変えて、腕を引いてもそのままでいる。そのくせ不意に現れて、突然消えてしまったりする。

 全十二節からなる本作には、世界各国、わたしの出会った多数の犯人たちが登場する。あるときわたしの家に現れて、姿を消した奇妙な男。わたしの家から日本の文芸誌(だと思われるもの)を盗む少年、等々等々。節を追うごとに様々な犯人たちが登場してきて、その幾人かは別の節にも再登場する。あるいは姿を変えてまたやってくる。

 犯人の自覚のある者があり、ないものがある。期限の切れた滞在許可を延長もせず過ごす男は社会的には犯人だが、本人には少しの悪気しかない。犯人であるかないかは、当人の意向だけで決まらない。自分では犯人ではないと思っていても、あなたは犯人であるかも知れない。あるとき急に犯人と名指されてしまうことだってある。冤罪という大きなものを持ち出さなくとも、単なる無知があなたを犯人にすることがある。法律や慣習を知らないままに他所の国に滞在すれば、知らず法を破ることは大いにありうる。もしかしてほんの何気ない一動作が、その国では重罪と見なされることもあるかも知れない。あるいは何かをしないでいることが、それだけで犯罪を構成することだってありうる。明確な法があれば従う従わないの判断もまだ可能だが、何かをしないことだって、その場にあっては罪かも知れない。しない、ということまでをいちいち名指すことは困難だから、この場合、あなたが犯人であるかないかは、多分に事故に似たものになる。

 路面電車に乗り込んできた検札係が、切符を持たない男を一人見つけ出し、両脇を固め、次の停車場で降りて行く。その路面電車に何人切符の非保持者がいようと関係はない。切符を持たない者は犯人だが、捕まったのはまず一人。残りの切符非保持者は犯人なのか違うのか。

 あなたには、犯人の知り合いがいる。そっくりの人物に出会って話をすると、相手は双子の兄弟だという。それではあなたが以前出会ったと思っていた犯人は、こちらの方かあちらの方か。もしかしてその相手は犯人ではなく、双子の一方だったのでは。それではあなたが犯人と思っていた相手は誰だったのか。双子であると知った時点で、記憶の中の相手が犯人になったりならなかったりするものだろうか。

 記憶は激しく変転していく。何も記憶力の減退や話し慣れていくせいだけではない。新たに加わる知識からでも、過去はたやすく書き換えられ、文脈は新たに置き換えられる。当然わたしも他人にとっては、置き換えられる記憶の中の存在でしかない。

 人は話を好む生き物である。ひょっとして聞くよりも話す方が好きである。何も話すことはないと言う人物でさえ、犯人、という強い言葉を向けられると、つい自分の知る犯人について語り出す。わたしは犯人について話をはじめ、犯人についての話を聞いていく。わたしはだんだんと聞き手の側へと移っていくが、わたしは黙する聞き手ではなく、こうして節を進めるごとに、聞き知った犯人たちをお話へ移していくことになる。犯人たちは夢の中へも登場してきて、夢とは無論、わたしという名の他人から見せられ、聞かされるお話である。わたしはそれを語り続ける。

 わたしは自分のあずかり知らぬところで、既に何かの種類の犯人であるかも知れない。それと同時にこうして語るわたし自身は、わたしに語られるわたしにすぎない。つまりわたしは登場人物であるかも知れない。かといってわたしの経験自体はただのお話ではありえず、わたしは登場人物というだけに留まらない。たとえそう読まれてしまうことがあるにせよ。

 ここにある種の閉じ込めがあり、わたしは飛行機に乗り、路面電車に乗り、移動を続ける間でさえも、固い箱に閉じ込められて身動きもままならないでいる。わたしはわたしの中に閉じ込められて、移動の間もわたしを離れることはできない。ここでのわたしは小説の中に書かれたわたしで、声を荒らげたとしても、登場人物の荒らげになるにすぎない。

 だがしかし、その閉じ込めは雲ではないのか。ときにわたしを犯人と名指すかも知れず、登場人物や書き手と名指してくるかもしれないとても奇妙なこのかたまりのとりとめのなさ、掴みがたさを逆に用いて、閉じ込めからの抜け道を見つけることもできはしないか。
 雲をつかむことにより。

 移動、旅、越境をよくする多和田葉子は本作でまた一つ、わたしからの越境を果たす。

 雲を吹き払うのは容易いが、それでは単に見ないことに決めたというのと同じである。雲へと静かに対し続けるその姿は確かに、雲をつかむものだと映る。