ムラカミのホームラン

川崎 徹

定価(税別):1,700円

思い出すこと、語ること

江南亜美子

 劇場長編映画も撮れば、小説も書くという現代アーティストのミランダ・ジュライが、かつてウェブサイト上で展開していたプロジェクトのひとつに、「Learning To Love You More」というものがある。ジュライが与えたお題と、それに応えた一般の人々の作品が、サイト上にずらりと並ぶ。七〇項目にわたるお題には「両親がキスしている写真を撮る」「したかった電話の内容を書く」「紙であなたのベッドのレプリカを作る」などチャーミングなものが多いが、なかでも「傷の写真とそれについての記述」は興味深い。

 百人を超える人の、身体に残る傷痕の写真と、その傷の物語。人は九死に一生を得る大けがもするし、幼少期の小さな失態が傷として長く残ることもある。犬に嚙まれ、泥酔中に流血もする。その人にとっては他人に語りたいほどの一大事の体験も、しかしほとんどの写真はうっすらと傷の痕を写すだけで、生々しさは失われている。

 このお題は三つのことを教えてくれる。ひとつは、語ることによる現前性(再現性)。そして、写真が示す時間の不可逆性。三つ目が、多数の人の投稿が並列されることによる非固有性だ。これは人間が生きる上での本質をつかんでいる。そしてわたしは、川崎徹の小説から、それと同じものを強く感じるのだ。

 一九八〇年代を代表するCMディレクターだった著者は、キンチョールや富士フイルムなどのCMでシュールな世界観を体現していた。その彼がCM制作をぷつりとやめたあと取り組んだのは、小説である。二〇〇五年『彼女は長い間猫に話しかけた』から断続的に、死と猫と記憶をテーマとする、どこか私小説ふうの作品を発表しつづけている。本書表題作ではとくべつ猫の姿は見えないが、これまでのスタイルは踏襲され、しかもより洗練の度を高めている。

 語り手は、著者自身を彷彿させる初老の男だ。冒頭、男は香典の額を気にしている。同い年の仕事仲間の訃報を受けたのだ。そしてとつぜん舞台は一九八一年のニューヨークに移る。そこで男はあるCMを撮りつつある。繰り返し確認する演出コンテ。成功体験に裏付けられた自信。撮影に向かう道すがら、観光用馬車の馬が倒れる光景に出くわす。

 また場面は転換。こんどは五〇年来の友人と、ムラカミという同級生について語る。彼らは、敗戦のあとが残る一九五八年の東京池袋で、ともに野球にのめりこみ、収集した切手を交換しあった仲なのだった。少年だった男は、アジア競技大会の日、道で荷馬の倒れるのを見た。しかしその記憶は、初老となった彼らにはブラインドスポットのような不確かさがつきまとう。

 つまりこの一編で男は、幼少期から現在までの時間をなんども往還しながら、いくつかの記憶を連想ゲームのようにして細い糸で手繰りよせていくのだ。馬(たち)の死から叔父の死、夭折したムラカミ少年が東京拘置所の塀の向こうに打ちこんだホームラン、仕事仲間とニューヨークで撮ったCMでウディ・アレンがみせた圧倒的な才能の差……。死者が媒介し、自分に思い出させる記憶の数々は、もちろん時系列通りには並んでいない。そしてアレンが登場するから重要とか、過去ほど不鮮明というものでもない。このとき「現在」も、なんら特権性を帯びない、ただの一点となる。親切にも、本作内で男自身が言うように、〈記憶の序列に人は関与できないのだ〉。

 語ることは、そのものを現前=再現する。傷のことを語るたびにいちいちその古傷から鮮血が吹き出してはかなわないが、しかし脳内に限れば、その痛みや状況は鮮やかによみがえる。死者も同様だ。思い出し、それを語る人の記憶のなかで、彼らはたしかに生き直す。なんどでも、ムラカミは生き直してホームランを打ち、また死に直すのだ。思い出す人がいるかぎり。

 げんに、天才ムラカミ少年のことを回想している男のまなざしは優しい。

〈そんなスイングができるのは彼だけだった。みんなが真似をしたものの、打席に向かう歩き方やスタンスを決める手順、構えを似せただけで、ボールが当る瞬間まで目を離すな、当ったらぱちんと振り抜けとくり返した彼の教えを実践できた者はいなかった。(中略)彼はわたしたちの教科書だった〉

 著者がこれまでの作品で一貫して描いてきたことは、人間は過去を固着させることなどできないということである。とりわけ、家族や友人などの近しい人々の死は、固着した過去=情報になりようもなく、現在の「わたし」によってつねにかたちを変える。そして、変形/流動する記憶にさらされつづけることこそ、「わたし」が生きることなのだ、との実感を読者に運んでくる。

 通常の意味でいう、物語(ドラマ)を徹底的に排除して、著者はここ一〇年、そうした「わたしと記憶」の問題を小説にしてきた。このスタイルが今後、かわらないとも限らない。しかし、「現在」を特権化しない、どこか禁欲的な高潔さをも感じさせる、著者の小説に対する基本姿勢に、わたしはあらためて小説家としての覚悟をみる。

 本書にはもう一作、「ヨシダ」という作品も収録される。こちらは、CM制作においてシュールな笑いを得意とした著者らしい、ユーモアに満ちている。

 のら猫である「わたし」は、カラスのヨシダに「お前、死んでるぞ」と告げられる。もう死んだはずの猫が回想していく、えさやりのおじさんの話。先の一作と対置すれば、なにが死に、なにが生きているのか、その境界はなおいっそう、あいまいになるだろう。

〈土中に横たわる自分の上で知った顔たちの暮らしが続いていると考えれば、いつか旅人が言った「死は場所の変更にすぎない」という言葉もその時は胡散臭く聞こえたが、いまとなれば納得がいった〉

 死屍累々の物語も、ふしぎと辛気臭さは感じない。それはこうした死生観に、わたしがなにか救いを見出すからかもしれない。