殺人出産

村田沙耶香

定価(税別):1,400円

10作後の彼女にむけて

市川真人

 村田沙耶香は、不思議な小説家だ。多くの読者や同業者たちに愛されて、わかりやすいところで言えばいわゆる「新人三賞」のうち野間新人賞と三島賞はすでに得て、芥川賞もそう遠くない若手と期待される反面、その作品技術が批評的に抜きんでた印象を与えるかというと、必ずしもそうでもない。理由はおそらく事物の形状や様相を描くこと、つまり対物描写にあまり執着しないことにある。

 それができないわけではないのは、いまのところの彼女の最高傑作と呼ぶべき『しろいろの街の、その骨の体温の』などにもあきらかで、街のひとびとが未来に期待を寄せた開発計画の数々が頓挫したあとの、駅前から学校へと至る道筋の描かれ方などは、新緑の色合いとは対照的なその白い寒々しさのくっきり思い浮かんだ一読時の記憶が、二年近くたった今でも克明に残るくらいなのだが、そうした質感の描写が不断になされるかといえば決してそうではなくて、ほかの多くの作品、とくに『星が吸う水』や『タダイマトビラ』はじめ幻想性の高いものほど会話や内面描写の比率が上がり、よく言えば抽象度が高く、しかし物語の進行を(よい意味で)遅滞させる対物描写を欠くぶん速度が単一にもなって、いささか書き割りめいてすら見えるのだった。

 通常、作品が「書き割りめいている」と言えば、それは豊かさの欠如=貧しさということに他ならず、決してよい意味では用いない。だが、村田沙耶香がある種特権的な小説家であるのは、そうした欠如がたんなる貧しさではなくて(そして「ストーリーがあればよい」という、物語的な豊かさに依拠して小説的な強度を手放した凡百のオハナシにありがちな、妥協と気づかぬ妥協でもなく)、まるで異質の稀有な豊かさを導くところにあって、本作にも彼女のそんな特性が色濃く現れている。

 表題作「殺人出産」の物語は、いまから百年以上先の未来に始まる。避妊技術が発達し人工授精が一般化したことにより、ひとびとが偶発的な出産から解き放たれた時代。恋愛やセックスと妊娠との関係が切断されて急激に加速した人口減への対策として、社会では「殺人出産制度」が普及しはじめていた。「10人産んだら一人殺してもいい」そのシステムは、性欲や恋愛欲から切り離されてなお出産が成立するためのモチベーションの向上に、人々の「殺意」を利用するものだった。

 将来行う殺人への前払いとして妊娠と出産を繰り返す男女は(男性も人工子宮により妊娠できる)、その殺意をも含めて肯定される――主人公・育子の姉・環(たまき)も、そうした「産み人」のひとりだった。幼少時から環の殺人衝動を知る育子は、かつては姉がその代替行為として虫を殺し続けるのを手伝い、いまは「産み人」である姉を慮り信じて日々を送っている。そんな彼女の前に、殺人出産制度に反対する組織の一員・早紀子が同僚として現れることで、物語は動き出す。

 殺人が罪でしかなかった時代の記憶や倫理を尊んで「本物の正義」を取り戻そうとする早紀子と、そんな彼女から議論を挑まれても動じずに「正義」や「倫理」の相対性を、「本物」への疑いを手放さない育子。早紀子のような「殺意」への拒否感を持たない育子だが、彼女とて最初からそのようであったわけでなく、そこに至るにはいくつかの確かな転機があった。そんなことを思い出すうちにも、環の10人目の出産=予告された殺人の時が近づいてくる。わずか17歳で「産み人」となることを選んだ日から、姉は誰の殺害を想い続けてきたのか。殺意の対象が自分ではない確信すら持てぬまま、環への説得と面会を望む早紀子と、殺人が罪だった時代の記憶を持たない世代に属する従妹の小学生・ミサキを伴って、育子は姉のもとを訪れる……。

 右要約にも明らかなとおり、「殺人出産」は他者に対する殺意の是非や、殺したいと思うことと殺すことの違い、そして“なぜひとを殺してはいけないのか”という普遍の問いに基づいた作品だ。人間の命が等価であるならば、10人を産んで(=生かして)収支を合理的に成立させれば1名の殺人は許されるのか。私と相手が同じひとつの命であるならば、追い詰められた私が生きるために抱く殺意は許されるのか。俯瞰すればいてもいなくても世界は変わらず続き生命の入れ替わってゆくなかで、「この私」の存在が特別でなければならぬのか。動物に比べて人間の、過去や未来に対して同時代の、遠くではなく近くの存在ばかりが特権的であるかに思えてしまうのはなぜなのか――私たちの多くが一度あるいはときに考えただろう、そして答えの出きらぬままあたかも自明であるようにその前を通りすぎた問いを、主人公・育子や彼女と姉や早紀子のやりとりを通じて(そして呼応する主題を持つ、併録の「トリプル」や「清潔な結婚」によって)、村田沙耶香は一心に問い続ける。そのとき彼女が携えている不器用さ、対物描写の少なさやそのことによる緩急の薄さは、逆転して村田沙耶香の武器となる。小説家としての技巧に人間としての実直が妨げられることなく、小説家である以前に人間としてあることの切実の痕跡が、奇蹟的に紙の上に刻みつけられるのだ。だから私たちは文字を通して、作品以上に彼女自身に強く惹きつけられることになる。

「殺人出産」が、作品や素材、そして作者の潜在的な可能性をすべて引き出していると思うわけではない。『しろいろの街の~』が、デビュー作の「授乳」から『ハコブネ』までの作品の影響を残しつつ物語性と描写の両面に磨きをかけた「初期・村田沙耶香」の10年目の集大成だったように、本作のモチーフも、より完成度を高め他の作品とも交わりさまざまな細部を膨らませて、いずれ中長篇として「出産」されるに違いない(そうなれば10倍の数の読者が彼女を待つはずだ)。この『殺人出産』は、彼女の真摯な思考と懊悩の痕跡として、言わば出発点としての「殺意」のようなものとして(そして結末ただ一箇所に凝縮された鮮かな描写と共に)、そのときもういちど思い出されるだろう。ならばいま読んで記憶しておいて損はない、姉の最初の殺意を忘れることがなかった育子のように、彼女が姉を愛し続けたように、私たちも村田沙耶香を愛し続けるのだから。