吾輩ハ猫ニナル

横山悠太

定価(税別):1,200円

猫と言語と自分をめぐる冒険

中条省平

 今年の「群像新人文学賞」を受賞した作品です。辻原登、阿部和重など選考委員が大絶賛をくり広げ、その後、各紙誌の文芸時評でも大方の好評を博しました。私もそうした評価に値する傑作だと思います。前衛的な文学実験を試みながら、リーダビリティ抜群の達者な書きっぷりで、随所に読者を微苦爆笑させるユーモア精神が脈打っています。著者は留学生として北京に暮らす32歳の青年。本作をつらぬく尖鋭な言語意識は、著者自身の実生活からうまれた肉体的な弾力と厚みを有しているように思われます。

 語り手は上海に住む日本人の「わたくし」。日本語を学ぶ中国人の友達に日本の小説を数冊貸してやったところ、「夏なんとかという作家の書いたものなどは漢字の使い方からして出鱈目である」と大いに不評でした。いいところを突いてきます。日本でもよく聞かれる悪口ですが、中国人からいわれるとちょっと……。それをきっかけに「わたくし」は「日本語を学ぶ中国人を読者に想定した小説を書く」ことを思いつき、実行します。それがこの『吾輩ハ猫ニナル』という小説なのです。

 主人公のカケルは、日本人の父親と中国人の母親から生まれた混血(ダブル)(中国ではハーフは差別的語感があるのでダブルという)で、幼いころ日本で暮らしましたが、その後母親と上海に住んだため、日本語は完璧ではありません。カケルはこの物語の一人称をどうするか悩んだあげく、「自分」を採択します(まるで田舎の体育会系高校生みたい)。ある日、「自分」はビザの更新のため日本に行くはめになり、日本好きの中国人の友達・沢男(ズアナン)から頼まれたゲームソフトを買うために秋葉原に向かうというのが梗概です。

 本作は題名からして夏なんとかのパロディという側面を隠しません。実際、カケルは公園で会った神の化身という猫を「先生」と呼び、沢男の恋人から自分の恋人になる女に「K」という名をあたえています。また、日本に向かう機中で出会った日本人のおばさんは、三四郎にむかって広田先生がいうみたいに「日本は亡びる」と冗談をいいますし、『草枕』を思わせる一節や「則天去私」なんて言葉も出てきます。さらに、カケルの父親は漱石の友人・正岡子規の幼名と同じ「升(のぼる)」という名前なのです。パロディ的諧謔への志向はそれにとどまらず、『古事記』や『竹取物語』を連想させる文章もあります。

 そうした日本文学の財産を自在に活用する一方で、カケルが行き来する中国と日本は現代日本のサブカルチャーにどっぷりと浸されている模様が活写されます。本作は、古典とサブカルがなんの階層的径庭もなく混じりあう、現代日本言語文化の力動的なカオスを体現する実践的現場レポートとしても確かな読みごたえがあります。

 とはいえ、この小説のもっとも鮮烈な仕掛けは、言語表記の方法そのものにあります。カケルは外来文物を書き表すカタカナを憎悪し、カタカナ廃止を宣言します。そして、やむをえずカタカナ言葉を使う場合には、それを現代中国語の漢字で記し、カタカナはその傍らのルビという肩身の狭い場所に追いやることにしました。

 いわく、「手機(ケータイ)」「有氧運動(エアロビクス)」「甲殻虫(ビートルズ)の『艱難時光(アハードデイズナイト)』」「馬丁・路徳・小金(マーテイン・ルーサー・キングジュニア)」「好基友(ホモダチ)」「動漫迷(アニヲタ)」「御宅教主(ヲタキング)」「電脳遊戯軟件(パソコンゲームソフト)」「便利店(コンビニ)」「優衣庫(ユニクロ」」「女僕珈琲店(メイドカフェ)」!!!

 カタカナ廃止どころか、カタカナは読者を大笑いさせながら、現代日本語に不可欠な盤石の地位を確立していくことになります。かくして、私たちが日々、難なくだらだらと垂れ流している日本語の端倪すべからざる多重人格ぶりがみごとな批評性をもって浮き彫りにされるのです。大昔の中国の古臭い漢字から音と意味をいまだに借用し、漢字をくずしたひらがなで主にやまと言葉を表記し、無際限かつだらしなく世界中の国々からあらゆる文物をカタカナでかすめ取っている日本語という怪物。その姿をこれほど生々しく体現した文学作品はほとんど初めてではないでしょうか。

 しかも、この日本語の多重性は、日中の混血たるカケル自身のありようを正確に反映するものなのです。

「自分はもう中国にいるほうが長いので、相識(しりあい)の多くは中国人であるが、自分のことを中国人だと思ったことはない。(…)かといって、自分を日本人とも思わない。(…)自分の心液はこれからも理科学習の浸透圧の実験のごとく半透膜を穿(す)りぬけ、往来往去を反復(くりか)えすであろう。(…)自分は自分で自分を防衛するために敢えて国境上に胡坐を組み、其処で一人釣り糸を垂らし微睡(まどろ)みの裡で獲物を待つ。(…)本来(そもそも)そんな活き方が可能なのか……」

 カケルはそんな自負と不安をともに胸に抱きながら、百鬼夜行、魑魅魍魎が跋扈するごとき東京の「秋叶原(あきはばら)」に向かいます。友人のための遊戯軟件を入手したのち、カケルが迷いこんだのは、「おかえりなさいませーごしゅじんさまにゃーん!」ともっぱらひらがなで喋りまくる猫耳の女服務員(ウェイトレス)がいる女僕珈琲店です。ここで『吾輩ハ猫ニナル』という題名の真意が明かされるのですが、その結果、カケルは自分の内面を大嫌いなカタカナのみで表明するほかなくなるのです。カタカナで記される彼の内面は、自明の存在であることをやめた異物のような感触をもっています。

 女僕珈琲店でのコスプレ的冒険は思わぬドラマをひき起こします。そして、精神の冒険でもあるそのドラマを潜りぬけたカケルは、最後の第四章に至って、天人合一、則天去私といったお題目をくだらないと一蹴し、食いたければ食い、寝たければ寝る、怒るときには一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣くという境地に向かいます。そのとき、気がつけばあら不思議、あれほど熟慮を重ねた末に選択した「自分」という特異な一人称はなんとも月並な「俺」に変わっているではありませんか。