ルンタ

山下澄人

1760円(税込)

星は昔やん

山城むつみ

こう始まる。

  今はわたしはひとりで暮らすものなので、家にはわたし以外には誰もおらず、予定ももちろん何もなかったので、出るのは朝でも昼でも夕方でもいつでも良かったから、出るのは深夜になった。

 複数のセンテンスに切ることができそうな一文だが、切ったら作品そのものもそこで切れてしまうような呼吸がある。文のこの永い息が、「わたし」同様、「かかとに穴があいたスニーカー」で歩く足取りでここからひたひたと歩き出すのだ。

 かかとはちゃんとある。むしろ、その皮膚は薄く人一倍敏感。歩けばその部分が「道のでこぼこ」を感じる。しかし、「わたし」は家を出て、靴を捨て裸足になろうとしているのだ。いや、着ている服も、何もかも脱ぎ捨てて自由になれる場所を求めて、まずは家を脱ぎ捨てて歩き出したのだ。とりあえずは「かかとに穴があいたスニーカー」で、つまり部分的に裸足で。

 かかとの皮膚が穴ごしに感じる「道」は「山」に通じている。「わたし」がというよりも、文が「かかとに穴があいたスニーカー」でそれをたどってその高所まで登ってゆく。そのプロセスがそのまま「わたし」であり、「わたし」というその過程がそのまま「ルンタ」というこの作品になっている。

「ユ」という女が「二ヵ月前まで」いた。「わたし」はそのユのことを思い出すという形を取って語るのだが、いつのまにか視点がユに切り換わり、ユの視点からユ自身の記憶が語られる。作中、こういう切り返しは「わたし」とユだけではなく、様々な人々のあいだで起こる。クマや花の視点さえ生じる。

 時制も関節が外れている。現在、過去、未来が脱臼して同時に存在し、相互に浸透して揺らぐ。たとえば、ユが一緒にいた「二ヵ月前」というくっきりした時間的距離は文の歩みによって搔き消される。そして、死んで今は霊的な存在となっているらしい中西なる友人が叙述の矛盾にツッコミを入れるのだ。「お前最初に何ていうた?」。

 同様のことは固有名についても言える。ナガノかもしれないが、とりあえずナカノと呼び続けられていた人物の手紙には名木野優子と署名がある。「ナカノちゃうやん!」「ナガノでもないやん」。

 冒頭のあの呼吸の文体でなければ、人と時間の輪郭を消して浸透させるのは、あざとい実験的技法に見えたかもしれない。しかし、かかとに穴のあいたような足取りのあの文体はそういうことを感じさせない。「わたしやあなたが、別の人間で、それが当たり前のことで、そしてそのことを誰も何も疑わないこと」の方が「不思議」に思えて来る。ちょうど、かかとの皮膚と「道のでこぼこ」とを隔てるゴムの厚みが擦り切れていたように、「わたし」とユとを隔てる、服や肉や性格や記憶などの分厚い膜も擦り減って所々透過的になっているようだ。そもそも、そこにいくつもの穴を穿つ足取りで文は冒頭から歩き出していたのである。

「山」へ行こうとする途上、雪が降って来て一面に積もり「わたし」は遭難する。乗馬クラブの小屋に救助されて出会う真っ黒な馬の名がルンタ。スニーカーの穴から雪のとけた水が浸みて冷たくても、「わたし」は、すすめられた長靴を退けてこのルンタに乗り、高所へ向かう運動を続行する。吹雪の中を、「かかとに穴があいたスニーカー」の代わりに今度はルンタに乗って行くのだ。馬上では、トラックの運転席から見下ろすくらいの位置に視座が上がるのだから、ルンタの背中に乗るという行為そのものが高所へ向かう運動なのだが、ルンタが「わたし」を水平方向に運ぶとまもなく「山」への上昇運動が始まる。「わたしの顔は高い位置にあるから木からのびている枝に気をつけておかないとひどい目にあう」。

 頂上が見えてくると、「わたし」は、木と木のすき間から街を見下ろす。この所作は作中様々に変奏されていた。たとえば、鉄塔の場面。ユがそれを「見張り台」と呼ぶのはその上に作業員がいるからだが、この情景を回想する語りはその作業員からの語りに切り換わり、彼は、下で手を振っている「わたしたち」を見下ろしていた。誰にも知られず咲いている「赤い花」をユが見下ろしている場面も印象的だ。ここでも、切り返しが生じ、花からの視野にユが捉えられる。ちなみに、東日本大震災直前に発表され、本書に初めて収録された短編「星になる」もまた高度を下げる飛行機の窓から下界を見下ろす場面から始まる。視点は地上に降りてゆくが、星になるとは、見下ろす高所に昇ることだ。

 さて、「わたし」は高所でクマに襲われて「ほとんど骨」になる。「脱ぎすぎやん」。下界を見下ろす高所はあたかも死後の世界で「わたし」は、一切を捨てた出家者のように、死ぬことの隠喩として「山」に登って来たかのようだ。しかし、この隠喩にも切り返しは生じる。「わたし」たちは、死んでそこにいるのではなく、まだ生まれてさえいない者としてそこにいるらしいのだ。生きて来た過去が、冒頭からここまで歩いて来た足取りそのものによって消去され、最後には「わたし」たちはこの高みから、まだ生きてもいない人生を思い出しているようなのだ。それこそが生まれ、生きることであるかのように。

「ユが見たんなら、花も咲いた甲斐がある」と言う「わたし」の世界は、すぐ隣にいるユの「は」の一声で突き崩される。「お前はほんまにしょーむないよな」「誰に見られようと見られなかろうと関係ないやろがい」。見下ろす高所に至ろうと、いわば垂直軸に沿って「わたし」を運んで来た欲動が、ユとの水平方向への関係によって解除される。そういう瞬間がある。

 小説そのものがユの存在に怯えているかのようだ。この小説がなければユは存在しなかったはずだが、ユが存在しなければこの小説は存在しなかっただろう。

 短い「星になる」にはユのような存在がまだ析出していなかった。長い「ルンタ」には、「星になる」が小説として未生だったと思えるような全く位相の異なる宇宙が開けている。