末裔

絲山秋子

定価(税込):1,680円

オヤジたちのビルドゥングスロマン

豊崎由美

まつ-えい【末裔】その血筋・名籍を伝える何代もあとの人。子孫。末孫。ばつえい。「平家の―」

岩波書店の『広辞苑』第五版によれば、そういう意味になる。末裔とは、つまり、わたしたち自身のことに他ならない。今、この世界に生きている、すべての「わたし」が末裔なのである。生命の樹の最先端の、もっとも細い枝、その先っぽにいるちっちゃな存在たるわたしたちは、しかし、祖先から送られた養分を十分に摂取できているのか、それを後世に伝える器たりえているのか。そう自問すれば、バツ悪そうに笑ってごまかすわたしがここにいる。
絲山秋子の小説『末裔』の主人公、富井省三もそんな「わたし」の一人だ。五十八歳、定年間近の冴えない公務員。四年前に妻の靖子を亡くし、三年前に何かと反抗的だった娘の梢枝に家を出られて以来、親から受け継いだ一軒家に一人住まい。長男の朔矢も嫁の尻に敷かれていて、実家には寄りつかない。以来、「男やもめに蛆がわく」のことわざどおり、荒れ果てていく一方の家や庭を半ば諦めの境地で放置しているありさまだ。とはいえ、そんな家にだって入れなかったら困る。大変、困る。この物語は、仕事から帰ってきた省三が鍵穴が消えてしまった自宅のドアを前に当惑する場面から幕をあけるのだ。
鍵はあるのに、鍵穴がない。そんな非現実的な事態にどう対処してよいかわからないまま、省三は息子に相談する。しかし、朔矢は自分の家に来いとは言ってくれない。仕方なく、省三は新宿の居酒屋で時間を潰す。その店すら閉まり、雨降る街中で途方に暮れる省三に声をかけてきたのが、自称占い師の青年、梶木川乙治。その晩は、乙治が紹介してくれたビジネスホテルに泊まった省三だったのだが―。
ここまでが、物語のほんのとば口。翌日、自宅に帰っても、まだ鍵穴がないままなのを確認した省三はこう思う。
〈俺は家に入って一体何がしたいのか〉〈無理矢理にでも家に入ってしなければいけないこと、持ち出さなければいけないものが、あるのか。/いなくなった家族たちのにおいがこびりついた家に俺は何を求めているのか。/家とは何か。ただ俺がひとり格納されるだけの装置なのか。/次々に人が出て無人となった家は、そうだ、言うなれば遺跡のはじまりである。小さきパルミラ、小さきカッパドキア、小さきナン・マドールである〉
かくして、省三は“帰る”場所ではなく、“入る”箱になり果てた我が家をうち捨て、ホテルへと舞い戻るのだが、乙治はそんな省三を「ここにいるとよくないことが起きる」「青い鳥を探して下さい」という謎めいた予言によって、移動するよう促すのだ。といっても、行くところはおろか、行きたい場所も思いつかない省三は、高齢で息子のこともわからなくなり施設に入っている母親を見舞い、その後、夏になれば一家で遊びに行った鎌倉の伯父の家へ何となく足を向けてしまう。そして、今は空き家になっている懐しい場所で、乙治の予言どおり、省三は青い鳥を見つけるのである。
ここからの物語と思索の展開が素晴らしい。〈かつて、幸せな家族の午後があった〉伯父の家で、たくさんの記憶を呼び起こした省三は、富井家の末裔としての自身をふり返り、〈俺だけじゃない、日本中の知識人の末裔が堕落したのだ〉ということに思い当たる。〈今でも知識人と呼ばれる人はいる。文化人もいる。だが、教養がない。圧倒的に専門知識に偏っている。(略)文系とか理系とかではなく、上の世代は学問全体が好きだった。分野を超えて広がっていく知識は伯父という人間、祖父という人間の根本と結びついていた〉と考え、〈俺にはそんな根本はない。そんな能力もない。努力もしなかった〉と自省した省三は、伯父の家での滞在をきっかけに、これまでなら交流しなかったような人々と袖振り合い、三年前に家を出て行ったきりの娘・梢枝とも再会。この数日間の出来事によって、精神を覆っていた鈍感・無関心という皮膜を自然にはがせていた省三は、以前なら会話が成り立たなかった娘と気持ちを通わせられるようになっている自分に驚き、梢枝の「じゃあ、ほんとに私がこの家の、最後の一人なんだ」という言葉をきっかけに、富井家のルーツをたどる小旅行を敢行するのだ。
鍵穴が消えた家、謎めいた人物による意味深な予言、不思議な夢の数々、青い鳥、喋る犬。ファンタスティックなガジェットを巧みに用いながら、絲山秋子は団塊の世代のオヤジを、少しだけ日常を逸脱したスケールの冒険に無理矢理連れ出してしまう。理解を超える出来事の数々に翻弄される省三の言動と思いを通して、戦前から戦後、現代へと至る日本人の精神の変容を問い、自分自身も含めた「末裔」のありようと向かい合う。その言葉のひとつひとつが、末裔の一人であるわたしに我が身を省みさせるのだ。
でも、それだけじゃない。これは、そんな“反省しきり”ばっかりの小説なんかじゃない。〈頑固で傍若無人で怒りっぽくて、脂ぎっていてニンニクやホルモンや酒やタバコが大好きなのに陰では加齢臭を死ぬほど気にしていて、ひがみっぽくて卑屈で、威張っているくせに体力気力に自信がなくて、酒癖が悪くて酔っていなくてもしつこくて、だからみんなに嫌われる。全部が全部俺のことじゃないが、八割方は当たっているだろう。俺だってそのくらい自覚してるともさ〉と開き直り、現状を変えようとはしない「オヤジ」と呼ばれる世代だって、冒険できるんだし、成長もできるんだという希望を、ユーモラスなタッチで描いた異色のビルドゥングスロマンとして、わたしはこの小説を愛する者だ。省三に出来たなら、自分にだって出来る! 物語の最後の最後におかれた意気軒昂な五行を読み終えるや、鼻の穴をふくらませてしまう。これはそんなファイト一発注入小説でもあるのだ。

岩波書店の『広辞苑』第五版によれば、そういう意味になる。末裔とは、つまり、わたしたち自身のことに他ならない。今、この世界に生きている、すべての「わたし」が末裔なのである。生命の樹の最先端の、もっとも細い枝、その先っぽにいるちっちゃな存在たるわたしたちは、しかし、祖先から送られた養分を十分に摂取できているのか、それを後世に伝える器たりえているのか。そう自問すれば、バツ悪そうに笑ってごまかすわたしがここにいる。

絲山秋子の小説『末裔』の主人公、富井省三もそんな「わたし」の一人だ。五十八歳、定年間近の冴えない公務員。四年前に妻の靖子を亡くし、三年前に何かと反抗的だった娘の梢枝に家を出られて以来、親から受け継いだ一軒家に一人住まい。長男の朔矢も嫁の尻に敷かれていて、実家には寄りつかない。以来、「男やもめに蛆がわく」のことわざどおり、荒れ果てていく一方の家や庭を半ば諦めの境地で放置しているありさまだ。とはいえ、そんな家にだって入れなかったら困る。大変、困る。この物語は、仕事から帰ってきた省三が鍵穴が消えてしまった自宅のドアを前に当惑する場面から幕をあけるのだ。

鍵はあるのに、鍵穴がない。そんな非現実的な事態にどう対処してよいかわからないまま、省三は息子に相談する。しかし、朔矢は自分の家に来いとは言ってくれない。仕方なく、省三は新宿の居酒屋で時間を潰す。その店すら閉まり、雨降る街中で途方に暮れる省三に声をかけてきたのが、自称占い師の青年、梶木川乙治。その晩は、乙治が紹介してくれたビジネスホテルに泊まった省三だったのだが―。

ここまでが、物語のほんのとば口。翌日、自宅に帰っても、まだ鍵穴がないままなのを確認した省三はこう思う。〈俺は家に入って一体何がしたいのか〉〈無理矢理にでも家に入ってしなければいけないこと、持ち出さなければいけないものが、あるのか。/いなくなった家族たちのにおいがこびりついた家に俺は何を求めているのか。/家とは何か。ただ俺がひとり格納されるだけの装置なのか。/次々に人が出て無人となった家は、そうだ、言うなれば遺跡のはじまりである。小さきパルミラ、小さきカッパドキア、小さきナン・マドールである〉

かくして、省三は“帰る”場所ではなく、“入る”箱になり果てた我が家をうち捨て、ホテルへと舞い戻るのだが、乙治はそんな省三を「ここにいるとよくないことが起きる」「青い鳥を探して下さい」という謎めいた予言によって、移動するよう促すのだ。といっても、行くところはおろか、行きたい場所も思いつかない省三は、高齢で息子のこともわからなくなり施設に入っている母親を見舞い、その後、夏になれば一家で遊びに行った鎌倉の伯父の家へ何となく足を向けてしまう。そして、今は空き家になっている懐しい場所で、乙治の予言どおり、省三は青い鳥を見つけるのである。

ここからの物語と思索の展開が素晴らしい。〈かつて、幸せな家族の午後があった〉伯父の家で、たくさんの記憶を呼び起こした省三は、富井家の末裔としての自身をふり返り、〈俺だけじゃない、日本中の知識人の末裔が堕落したのだ〉ということに思い当たる。〈今でも知識人と呼ばれる人はいる。文化人もいる。だが、教養がない。圧倒的に専門知識に偏っている。(略)文系とか理系とかではなく、上の世代は学問全体が好きだった。分野を超えて広がっていく知識は伯父という人間、祖父という人間の根本と結びついていた〉と考え、〈俺にはそんな根本はない。そんな能力もない。努力もしなかった〉と自省した省三は、伯父の家での滞在をきっかけに、これまでなら交流しなかったような人々と袖振り合い、三年前に家を出て行ったきりの娘・梢枝とも再会。この数日間の出来事によって、精神を覆っていた鈍感・無関心という皮膜を自然にはがせていた省三は、以前なら会話が成り立たなかった娘と気持ちを通わせられるようになっている自分に驚き、梢枝の「じゃあ、ほんとに私がこの家の、最後の一人なんだ」という言葉をきっかけに、富井家のルーツをたどる小旅行を敢行するのだ。

鍵穴が消えた家、謎めいた人物による意味深な予言、不思議な夢の数々、青い鳥、喋る犬。ファンタスティックなガジェットを巧みに用いながら、絲山秋子は団塊の世代のオヤジを、少しだけ日常を逸脱したスケールの冒険に無理矢理連れ出してしまう。理解を超える出来事の数々に翻弄される省三の言動と思いを通して、戦前から戦後、現代へと至る日本人の精神の変容を問い、自分自身も含めた「末裔」のありようと向かい合う。その言葉のひとつひとつが、末裔の一人であるわたしに我が身を省みさせるのだ。

でも、それだけじゃない。これは、そんな“反省しきり”ばっかりの小説なんかじゃない。〈頑固で傍若無人で怒りっぽくて、脂ぎっていてニンニクやホルモンや酒やタバコが大好きなのに陰では加齢臭を死ぬほど気にしていて、ひがみっぽくて卑屈で、威張っているくせに体力気力に自信がなくて、酒癖が悪くて酔っていなくてもしつこくて、だからみんなに嫌われる。全部が全部俺のことじゃないが、八割方は当たっているだろう。俺だってそのくらい自覚してるともさ〉と開き直り、現状を変えようとはしない「オヤジ」と呼ばれる世代だって、冒険できるんだし、成長もできるんだという希望を、ユーモラスなタッチで描いた異色のビルドゥングスロマンとして、わたしはこの小説を愛する者だ。省三に出来たなら、自分にだって出来る! 物語の最後の最後におかれた意気軒昂な五行を読み終えるや、鼻の穴をふくらませてしまう。これはそんなファイト一発注入小説でもあるのだ。