「ワタクシハ」

羽田圭介

1650円(税込)

一億二千万分のワタクシ

藤代 泉

人事採用担当だった時期がある。

別の会社の、最終面接担当である役員さんとお話させていただく機会があった。「どういう人材が欲しいか」なんて大抵どこも似たりよったりだ。そういうことに全く興味がなかった私は、
「どういう社員が欲しくないですか」

と最低な質問をしたのだが彼はやさしく答えてくれた。
「んー、とくにないですけど、しいて言うならふつうのことができない人は、厭ですね」
「ふつうのこと?」
「たとえばね、トイレ入るでしょう、でトイレットペーパー使いきったのに次の人のために補充しない、とかね。そういうの厭です」

きっと直近、そういうことがあったのだろう。トイレの個室でひと息ついた後、手をのばすとそこに芯だけとなった紙の筒を見いだして憤慨する某会社役員の姿を想像して「あぁ、人間だなぁ」と思った。

就職というシステムを支えているのは人間である。とるのも、とられるのも、ついでに言えばその橋渡しをする広告を作るのも人間が行なっている。だからときに勘違いや見当違いもある。不平等で不公正。差別もある。偶然や運も左右する。そんな渾沌とした現在の就職事情を「就活する側」の視点から描いたのがこの本だ。

この作品は就職に希望や絶望を抱かせるものではない。ハッピーに浸らせるわけでもなければブラックさを享受させるものでもない。ましてやハウツーでもない。あくまで山木太郎という人間が体験した就活の現場の、克明な記録である。就活という現場は、著者が書くように「圧倒的に残酷」なものであるという側面を持つ。そのダークサイドから目を背けず、かといってそこに飲み込まれすぎることもなく、実直に現実を描ききっている。

書きようによってはパッパラパーに面白おかしくも、あるいは他人の不幸蜜消費用にどっぷり悲惨にもできる。でもそうはせず、あくまで彼の目に映る現実、ただそれだけを虚飾なく書いてゆく、著者の実直さに尊敬を覚えた。そしてここに描かれているリアルさにも驚いた。短い期間とはいえ、就活側、採用側、橋渡しの広告作成側、すべてに携わっていた私には、嘆息するほどのリアルさに胸がつまる思いがしたのだ。

採用担当の常套句がある。
「十年後、どうなっていたいですか?」

真剣さ、意識の高さ、様々なものを測れる便利な質問だ。その有用性はたしかだし批判するつもりは全くない。けれどこの、おそろしく激変する世の中、あらゆるものを更新し続け、素早く適応し、飛び石を駆け抜けるように時代を生きてきた若者にとって、十年先というものがどれだけ現実味を持っているのだろう(個人的な懐疑心が強くて、私はその質問をするのがすごく厭だった)。そして太郎もやはりこの質問にさらされる。が、十年先の「ビジョンが見えない」。刹那を生ききることさえ必死なのだ。多くの若者がそうであると思うし、当然だとさえ思う。一寸先はいつだって闇なのだ。くらくって、見えやしない。

太郎は高校在学中にギタリストとしてメジャーデビューという輝かしい過去を持っている。が、それも束の間。いまやギター一本では食べていけない、都内の大学生。それでも過去の栄光とギタリストとしての自尊心は、就活中でもこっそりつけているスタッズベルトのようにしっかり体にくいこんでいる。富と名声を求める上昇志向も、大企業→知ってる企業→中小企業→就職サイトに載ってない企業……と玉砕していく中で自分は「凡人以下の存在」とみなすほどに落ち込む。自分を「停滞してい」ると感じる彼は「前進しているという確かな感触」を求めてひたすらに行動する。いろんなところへ行く。自分の現在地を探るように。

二十二章で「こことは違う場所」という言葉が出てくる。その文字に立ち止まってしまった。

そもそも就職は「移動」だ。居場所を変えることだ。彼は「こことは違う場所」を探している。そこに自分を求める。でもいつまでたっても内定が得られない。ギタリストとしての夢も捨てられない。分裂するほどに危機的な意識が探るのは、どこかわからない、その場所にいる自分だ。確固たる一箇の生命としての自分を見失い、「ワタクシ」という自分ではない何者かとなって彷徨い続ける。

人間が生きてゆく、ということ、いつからこんなに難しくなったんだろう。

就活にとどまらない。この作品はたくさんのものを含んでいる。商業主義、市場原理、階層意識、地域差、美醜、ネット社会、おぞましいほどに歪(いびつ)になってしまった社会のありよう。毒気。吹き荒れる悪意。それにさらされる太郎は、苛立ち、憎悪、蔑視など自身のダークサイドにも鋭い視線を向けている。目をそらさない。でも被害者面はしない。

この作品をとおい他人事として読める人がいるなら会ってみたい。小説という枠もぶちやぶって考えていきたい。私もこの現実社会の一部品だ。作用を受けてもいるし加担もしている。ここにある痛みを引き受けながら読む。苦しい。でも、ラスト、行動のすえ彼は「外へ出る」。その場所は、かすかに、ほの明るい。希望と言うにはあまりにはかないけれど、一条の光に救われる気持ちになる。

でもなにより光っているのはそこじゃない。噴き出す悪意にまみれ、もがきつつも行動する彼の姿に時折にじむもの。雑魚寝している人にそっと布団をかけること。母へのありがとうのかわりにご飯をおかわりすること。大事な人の夢が叶うのを陰ながら祈ること。さらりと書き流されているけれど、そうした表立たないやさしさ、純真さが自然にこぼれている。一寸先や社会のくらさの中でそこだけ灯って、それがなにより、綺麗だった。