怪訝山

小池昌代

定価(税込):1,785円

孤独な魂が目を覚ますとき

東 直子

人が存在するということ。存在が交り合うということ。存在は空から吊るされた一本の糸のようにまっすぐにピンと張っている。ように見えて、ほんのかすかな風にも簡単に揺れる。風もないのに揺れることもある。非常に激しく揺れることもある。まっすぐの糸は、他の糸に触れることはないが、揺れやまぬ糸は絡む。意志的に、無意識的に、偶然に。絡み合えば、二つの糸が一つの存在になる。糸が複数絡むこともあるが、基本的に二本。集中できる関係は、一対一。絡まった糸はほどけることもあるし、糸そのものが切れてしまうこともあるし、二度とほどけないまま二つで一つの存在を続けることもある。
「怪訝山」「あふあふあふ」「木を取る人」。『怪訝山』に収載された三つの作品には、いずれも糸のように孤独な存在の、偶然にして必然の絡み合いが描かれている。それぞれの存在の中で、熾火のように抱えている性的希求が物語を突き動す。
《女のみごとな手さばきによって、臓物たちはぷりぷりと勢いよく、イキモノのようにはねあがっている。/さまざまな調味料が次々と加えられていき、全体はすぐさま、ねとねとしてきた。/店の前には、さきほどから、牛のような男が、待っている。片手にむきだしの千円札を握り締め、なんとしてでも食ってやるという迫力が背中一面にあふれている》

文章そのものが、官能的なのだった。ひらがなが多用された文章はやわらかく、独自の調べがあり、文字が触手めいて見えてくる。
「怪訝山」は、複製画の販売会社の社員であるイナモリという男が主人公。会社は、女性社員に売春まがいのことをさせて高額の絵を売らせているらしい。イナモリもそのいかがわしさに気付き、恐ろしさを感じつつも、高額の給料に縛られて、やめられないでいる。

イナモリが仕事以外の話をするのは、女性社員の中でも特に成績の悪い美枝子だけである。「感情のない、白い顔をしている」美枝子は、雷鳴のとどろく夜に「雷って、たまりません」と言い、「樹みたいに、雷に打たれて死にたくなります」とうっとりと言う。翌日、嵐のために大木が横倒しになっているのをイナモリは発見する。

イナモリが関わるもう一人の女性は、伊豆の宿で働くコマコ。伊豆という土地に長年住み着いているコマコは、身体全体でイナモリを誘う。「あたしはもう妊娠しないよ。ヘーケイしたから。ヘーケイすると、女は山になるんだよ」と語るコマコと交わるイナモリは、山と交わることになる。

女たちだけではなく、少年、倒木、金魚、軍服の幽霊、皮膚を食べる魚、イルカと下半身裸のカップル、ふんどし一枚のコマコの父、洞窟……。イナモリが目にし、ときに直接触れるものには、みなぬめりのようなものがあり、官能的な妖しさが宿っている。それを感受し、あたふたとしながらも受け入れていくイナモリの行為は、うしろめたさを抱えながら生きている一人の男の、懺悔の儀式にも感じられる。

自分の生き方はどこか間違っているのではないか、と感じながらも、人生はとにかく続いていく。「あふあふあふ」は、七十代の男やもめ、「木を取る人」は、中年の既婚女性が主体の物語。どちらも、現在の生活と喪失した家族との回想が、繊細に交錯する。それはしばしば悔恨をともなう。
「あふあふあふ」の老人エノキは、祖父の代からの文具店を営んできたが、妻を亡くして店もたたみ、子どもたちも独立したために一人で暮らしている。平凡だが「クソまじめ」でどんな問題も起こしたことがない。それゆえの人望があったのだが、ある疑いが持ち上がり、「きれいな人」だったエノキの心に、それまでになかった濁りが生じてくる。エノキは、自分の人生を振り返り、自問する。妻が生きていた頃のことを思い出す。
「木を取る人」では、主人公の女性「わたし」の同居人の義理の父親が、ある日突然失踪する。無署名の書評を書く仕事をしている「わたし」は、日がな家にいながら、失踪した義父との思い出やその語り口などを、噛みしめるように思い出す。夫婦というよりも友達のような関係になってしまった夫に比して、義父に対しては、敬愛と慈しみを含む特別な感情が見え隠れする。義父が失踪した理由を考えることが、義父の魅力を再考する作業になるのである。木材を扱う仕事をしていた彼の肉体のたくましさと、ときおり見せる知的な一面や無邪気さや孤独。「義理の父」と「嫁」という、踏み込んではいけない関係であるがゆえのエロティックさが漂う。

不在であることで、記憶とその人への思いは、布に落ちた果汁の染みがだんだん色を増していくように、一方的に濃くなっていく。冷静な語り口ながらも、不発弾のように抱えている業の激しさが伝わる。誰もがそのようなものを抱えているのではないか、という共感を呼んでくるのである。

女と交わることが山と交わること、とする表題作をはじめ、原始的なものへと誘われていく要素があるため、アニミズム的な読みも可能だと思う。しかし私はこの作品に於いて作者は、そういった大きなテーマや状況を描きたかったのではなく、人間のまとっている、一人ひとりの役割の内側にある、純粋な魂の揺らぎや衝動を、細かく浮き彫りにしたかったのではないかと考える。

魂は、他者という、別の魂を持つ不可思議な存在に触れて、眠っていた部分が目を覚ます。変化する。驚く。考える。煩悶する。すると、自分自身で自分の存在と魂が、実感として確認できる。言葉の力で、理性が届かない存在の内側へと深く深く入り込んでゆける小説なのだと思う。二度と戻ってこられない場所へと誘われる予感がするのは、怖くて、至福でもある。