あの子が欲しい

朝比奈あすか

定価(税別):1,400円

主人公の資格

阿部公彦

 小説は開かれた世界ではない。何となく小説が読めないとか、教科書で無理矢理読まされるのでなければ読む気にもならないといった人が世間では多数派なのも、小説を読むのがそんなにふつうの行為ではないからだ。そもそも小説とは特殊な人たちがかかわる世界なのだ。とりわけ「群像」のような文芸誌はそう。誰もが作家になるわけではないのは当然のこととして、こうした雑誌に掲載されるような小説は、そこに登場するだけでもそれなりの資格がいる。たとえちょい役だとしても、いかにも小説に出てきそうな人と、そうでもない人、ぜったい出てこない人……とグレードがわかれる。そんな閉じられた世界を見て、ちっ、自分とは別世界だ、と思う人がいるのも無理はない。

 しかし、そのあたりの壁にチャレンジする作品は確実にある。『あの子が欲しい』もその一つではないかと思う(そして最近の「群像」はそんな書き手を応援しているようにも見える)。主人公の川俣志帆子は、朝比奈あすかによって主人公に仕立てあげられたりしなかったら、一生小説などには登場せず人生を終えたはずの人である。クレイズ・ドットコムは新興IT企業。どちらかというとベンチャー的な会社が多い業界でも、クレイズ社は創業者のカリスマ性に依存した成長途上の比較的若い企業だ。そこへ、他社から転職してきたのがアラフォーの志帆子で、新入社員のリクルートを任される。どうやら最近の新卒採用活動は、ネットとのからみもあり情報戦の様相を呈しているらしい。学生の側も必死に情報を収集したり、流したり、共有したりしているが、会社の方もその情報をうまく操ったりしながら、より優秀な新人を採れるようあれこれと策を弄する。もちろんクライマックスは内定を出す段で、どうやって頑張って選んだ優秀な人材に自社に来てもらえるようにするか、駆け引きや恫喝まがいのことも行う。とくにブランド力で劣る企業ほどそう。クレイズもそんな会社のようだ。

 志帆子は優秀な社員だ。ネットの事情にもある程度通じ、流れる情報の読み解き方も知っているし、自分の部下の操縦術もよくわきまえている。だから思惑通り、自社をとりまく採用環境を上手に操作して、会社の利益につなげることができる。志帆子の考え方がまったくビジネス的、つまり非文学的なのは、以下のような一節を読めば一目瞭然だろう。「リーダーともなると、どちらが正しいか、判断のしようもない決断を求められることが多々あって、性格の良さなど何の役にも立たない。正しいか正しくなかったかはどうせ随分と時間が経たないと分からないことなのだから、倫理に反しない限りは直感に従うべきだというのが志帆子の考えだった」。小説に登場するような人というのは、明らかに正解があるような事柄についてでさえうじうじと悩んだり判断停止に陥ったりするものだ。ましてや正しいか正しくないか判断のつかないようなことならもうたいへん。むにゃむにゃとつぶやきながら、延々と心理の迷路をさ迷いはじめる。「倫理に反しない限り」などとさっぱりドライに言い放った瞬間、主人公失格の烙印を押されても仕方はない。

 しかし、著者はそんな有能なビジネスパーソンの志帆子の心理にぴたりと寄り添いつつも、上手に小説世界を展開してみせる。鍵は、どこまで描くかだ。現代の世相の写実をベースにした作品で細部がきっちり描かれねばならないのは当然とも思えるが、その細部が決して描かれすぎはしないのも大事なのである。つまり、過不足なく、適度に省略されつつ、つぼをおさえてある。ネットの掲示板の操作、猫カフェの店員の振る舞い、マクドナルドの「電源席」で原稿を書く人間の心理、内定承諾書にサインする瞬間の学生の表情、性欲が稀薄な草食系青年との別れ……。いずれも写実的である一方、しつこくはない。過剰ではない。いわゆる文芸誌的な作品の書き手なら、つい筆が乗ってねちねちと描きすぎたり、その迷走感を楽しんだり、あげくにはあらぬ方向に脱線したりしそうなところを、朝比奈は我慢する。それもこれも、川俣志帆子というきわめて非文学的な人間をきちんとした主人公に育て上げるための方途なのだ。我慢に我慢を重ね、この人を生かすのである。とくにその目を。

 とりわけうまいなあと思うのは猫カフェの使い方である。ビジネスライクでドライな志帆子にも弱いところはある。その弱さはいかにもビジネスの世界で活躍するアラフォー女子の弱さである。薄弱で性欲過少の男に惹かれたり、猫カフェを訪れて、自分のかつての飼い猫の影を見てしまったり、と。しかし、居候を決め込んだ男にあっさり見捨てられた志帆子が、猫のためには大胆なことをしてみせる。さすがはビジネスな志帆子。鋭くライバルの行動を観察し、そのスキを盗んで罠を……。まるでハードボイルド小説の主人公のようなやり手ぶりだ。まあ、そこは読んでのお楽しみだが、ラストの一連の展開で、主人公だけでなく読者までもがきわどく裏切られることでこの作品にはにわかに小説臭が漂い出す。しかも志帆子は最後まで志帆子のままなのに。

 ある意味では息苦しい世界である。志帆子はぜんぶ頭でわからないと気が済まない人なので、世界はきわめて言葉的に説明される。余韻や不明感やずれよりも、すべてを言葉的にきっちり受け止めようとする主人公の息詰まるような心理が、圧迫感とともに描出される。川俣志帆子という人はこの作品の中にしかいないような特殊な人物ではなく、ごく平凡な人。優秀だけど天才ではないし、あちこちイタイところもある。わかりやすい人だ。だから読者はそれを特殊な閉じた世界としてではなく、すぐそこまではみ出してくるような、そして自分のことをもからめとるような何かとして読んでしまう。「性格の良さ」とか「女子は」「男子は」といった言葉で思考する志帆子は、小説的世界とこちら側とを仕切るラインを超えてしまう存在なのである。小説とはこのような人によっても十分生かされうるジャンルなのである。