半減期を祝って

津島佑子

定価(税別):1,300円

その荷は私たちに託された

木村朗子

 表題作の「半減期を祝って」が『群像』三月号に発表されてすぐの訃報だった。結果的にこの作品が遺言のように残された。本作は、総勢十二名の作家が競演する「30年後の世界│作家の想像力」と題する特集に寄せられたものである。原発事故を起こしたフクシマを抱えて、この先の日本はどうなるのかというのが作家たちに共有された意識で、暗い未来を描く作品が多かった。なかで巻頭を飾るのが、この「半減期を祝って」であった。

 セシウム137の半減期は三十年だと言われている。半減期というのも不思議な言い方で、総量はともあれ半分になるのだということにどれほどの意味があるのか実はよくわからない。世間ではセシウム、セシウムといって、しきりとシーベルトだのベクレルだのによって数値化するが、そもそもどのぐらいの値からが危険なのかもわからない。しかも物語のなかでは、向こう三十年のあいだに再び地震がきて原発で事故が起こり、「新しい放射性物質がばらまかれ」ているのだから、この半減期はちっとも喜ばしいものではない。要するに、今後もこのような事故が起こり続けるだろうが、時がたてば必ず半減期はやってくるのだから、そのことをひとまず歓迎しようということで、お祝いの行事が執り行われるのだ。

 主人公の老女は、事故現場に近い家から逃げて避難者用の超高層住宅に住んでいる。そういう人々が、この半減期を機に故郷を見にでかけた。放射能は目に見えない。だからそこに変化などあるはずもない。

 以下、震災から五年の間に噴出した、ありとあらゆる危機的兆候が未来世界に移し替えられて列挙される。それはたしかに今を生きる私たちが感じている不安なのだが、ぼんやりと兆しているものを、この小説は、つまりこういうことでしょ?とあからさまにしていくのだ。醜穢を次々にさらされて、作家の露悪を恨みたくもなるが、しかしこれは真実なのだとも感じる。

 新たな原発事故が起きるのと前後して、独裁政権がバックアップする「愛国少年(少女)団」略して「ASD」が組織されるようになる。ASDだなんて、AKBみたいで思わず笑ってしまうけれど、これは「反社会的人間を駆り出す役目」を負う集団だ。平清盛が密偵役として京の都にはなった「禿童」とよばれる童子たちを思わせる。

 ASDの少年、少女たちは、十八歳になればそのまま国防軍に入る。だからといって、日本が戦争中だというわけではないらしい。日本なんて、事故を起こした原子力発電所にミサイルを一発お見舞いするだけで、あっという間に滅亡させられるからだ。それだというのに政府は「神がかった独善的な政策を曲げず、どんな国だろうと、相手国を挑発しつづけている」というのだ。戦争法と呼ばれる安保法制ができあがった現在に重なり、これは笑いごとではない。「現政権はオリンピックの熱狂の余波から生まれた」というのも、いかにもありそうな気がする。

 さらに笑えないのは、ASDに入れるのは純粋なヤマト人種だけで、アイヌ人、オキナワ人、チョウセン系、トウホク人は入団を許されないどころか「排除」されていることだ。一九二三年、関東大震災のあと、集団パニックから朝鮮人虐殺という暴挙にでた歴史があるように、東日本大震災の後、ヘイトスピーチなるものが台頭して露骨な差別が路上を闊歩している。日本社会だけではない。排外主義は、テロ、経済不況などあらゆる危機に直面する世界中ではびこっている。それはまったくその通りなのだが、「トウホク人の数はヤマト人よりはるかに多いので、「病院」に入れる余地はすぐになくなり、逮捕されると、そのままとくべつな「シャワー室」に送られてしまうのだという」のように、アウシュヴィッツを引用してトウホク人差別が語られると、やはりたじろいでしまう。けれど巨悪などがなくても人間の残虐さはいつでも発揮されるというのが歴史の教訓である。物語において、差別された人びとは、政府方針によって事故現場近くの汚染地域の定住を許可されるようになり、ヤマト人種にかわって事故現場の作業を請け負うことになる。多かれ少なかれ、いまでも危険な現場の労働は、格差の構造そのものに頼って成り立っている。それはつまり、たとえ緩やかな毒だとしてもシャワー室に送り込むのと同じことではないのか。

 物語内物語として語られるトウホク人の少年とヤマトの少女との悲恋譚の結末が、逃避行の挙句、妊娠した少女の中絶手術で締めくくられるのは、『葦舟、飛んだ』で追った主題だ。戦後の生まれで、戦争の尾っぽを踏んでいたのにもかかわらず、実態を知らずに大人になったことを悔いるかのように作家と同年代の登場人物に敗戦直後の満州、ハルビンの歴史を辿らせ、「外地」でのレイプと日本帰国後の公的機関による組織的堕胎の問題をひきずりだした。最期の短編もまた、こうした長編物語の骨太なテーマにしっかりと結ばれている。

 他に、「ニューヨーク、ニューヨーク」、「オートバイ、あるいは夢の手触り」の二作を収める。いずれも離婚して一人で生きる女が主人公だ。とくに後者は、フランス海外県の南の島にオートバイを取り寄せて乗り回した女の挿話が爽快。困難を抱えて生きる女たちに寄り添う語り口に、この作家のもう一つの側面が凝縮されている。

 ところで『葦舟、飛んだ』を読んでいて、ぞっと怖気立った箇所がある。登場人物の一人、笑子に次のように語らせていたのだ。「二月はむかしから苦手な月だった。ひたすら寒いだけの、陰気な月。笑子の母親も、異父兄に当たる男の子も、二月にこの世を去った。わたしが死ぬのも、二月のはず。年々、笑子にはその思いが強くなっている」。津島佑子の母親と兄はともに二月に亡くなっている。そして自らも二月に逝ったことを思うと、この作家の書くことは言霊ともなるのかもしれない。表題作の不吉な未来予想を祓うのは私たちのつとめだ。