新しい小説のために

佐々木 敦

2970円(税込)

ハシゴの上と下

阿部公彦

 ずしりと重い500ページを超える質量。にもかかわらず、目次のキーワードは思いきりしぼられ、目につくのは「リアリズム」「人称」「私小説」といった概念くらい。およそ虚飾がない。

 何という禁欲的な本だろう。何と真面目で、求道的で、ほとんど瞑想的ではないか……ついそんなふうに考えたくなるかもしれない。しかし、本書ほど、そうした閉鎖性や超越性から遠い書物はない。むしろ小説や批評を、文章を、そして書くことや読むことを、限りなく外にむけて開いていこうと汗をかく、きわめて篤実な書き手の姿がここにある。おそらく読者は、本書をどのページから開けても「やあやあ、いらっしゃい。どうぞお入りなさい」というオープンな雰囲気を感じるだろう。大学教員でもある著者が、「やあやあ、遅刻者さん。よくきたね。大歓迎だよ!」と授業のときに言ってくれるかどうかはわからないが、少なくともこの本では、読者とともに何度でもハシゴの一番下までおりて行って、一段一段手を引いてのぼらせてくれそうな構えがある。

 これは単なるサービス精神ではなく、著者がハシゴの一番下までおりていくような論述スタイルをこそ尊んでいるということである。ただ、おもしろいことに佐々木敦の場合、「おりる」ことは「メタレベルに立つ」(つまり「上」に立つ)という一見矛盾するようなジェスチャーとセットになっている。それが本書の素材や議論ともかかわってくる。そのことを、以下説明してみたい。

 目次をめくっただけではわからないが、本書で中心的に扱われている作家批評家もページ数のわりに少ない。そのうち批評系は高橋源一郎、江藤淳、小林秀雄、柄谷行人、野口武彦、渡部直己といったところだから、まあ、王道と言ってもいいが、作家のほうは明確な傾向が読み取れる。ざっと名前をならべてみると、ロブ=グリエからはじまって夏目漱石、岡田利規、保坂和志、ヴァレリー、大江健三郎、大岡昇平、谷崎潤一郎、小島信夫、堀江敏幸、山下澄人、柴崎友香など。このうち、漱石、大江、大岡、谷崎などは、議論のコンテクストづくりのために引用されていた感がある。

 そうすると、『新しい小説のために』とのタイトルを冠してまで著者がわざわざとりあげたかったのは、岡田利規、保坂和志、小島信夫、堀江敏幸、山下澄人、柴崎友香といった現代作家ということになりそうだ。こうした名前に、みなさん、どんな感想をお持ちになるだろう。ほとんどが少なからず「変な小説」を書いている人たちである。ただし、そのうち「そもそも作家本人が変なのではないか?」と思わせるのは小島信夫くらいで、他の作家はどこか禁欲的に「変」のような気がする。従来の無頼派や変人自慢とは違うのである。めちゃくちゃな私生活や「おぇっ」となる細部で目を引いたりするのではない。もっと静かに穏やかに「変」なのである。

 佐々木敦はまさにそういう「変さ」に惹かれている。しかし、彼は、そこで「この人は変」という判断をくだすことはしない(小島信夫は別として)。本書の第二部でじっくり展開される「私」をめぐる議論も、土台にあるのはそうした「この人は変だ」的な文学観への抵抗だと思う。

 実は本書を読み通しても、佐々木敦がなぜこの人たちの作品の「変さ」にかくも興奮しているのかは、完全にはわからないかもしれない。しかし、だからこそ私はこの批評家を信用する。なぜなら、本書はこのよくわからない静かで、穏やかな「変さ」を一生懸命説明しようと格闘する言葉の軌跡として提示されているからである。そういうものとして批評が実践されている。

 第一部第一章では佐々木はまず「リアル」という概念を持ってきて、丁寧にその有効性と限界を見極めた上で、歴史的に「リアル」が感覚として共有されたり、批評家によりその「虚構性」が曝かれたりした経緯を確認する。その後、フレームやコンテクスト、人称、視点といった批評装置を使い、演劇や映画との比較など行いつつ、「リアル」と「変さ」の問題を考察する。そこから見えてくると私が思うのは(そしてこれは必ずしも明示的には言われていないことかもしれないが)、著者がこだわっている違和感がどちらかというと「認識」にかかわるずれ、錯誤、居心地の悪さなどだということである。だからこそ、変人自慢にはならない。もしこれが「認識」よりも「情緒」を中心とした違和感であったなら、おそらく議論は別の方向に進んでいただろう。情動とか倫理性といった、現在、別の場で盛んに議論されている話に流れた可能性も高い。

 本書でもそうした議論は、たとえば小林秀雄と志賀直哉の出てくるあたりでは触れられているが、主戦場は「認識」であり「認知」。たしかに佐々木が偏愛する作家たちの「変さ」のツボはそこにありそうだ。ふと世界がちがって見える、とか。いつの間にか別人になってしゃべる、とか。つまり、ひょいと言葉が飛び退いて「外化」「メタ化」が起きている。佐々木自身の批評家としての持ち味も、ハシゴの一番下までおりたのち、その段をまたのぼって(冒頭部の高橋源一郎批判もきわめて精緻だ)最終的にはひろびろと視界を得る、その柔軟なメタ志向と認知システムへの敏感さにある。

本書の第一部と第二部は時をおいて執筆されたこともあってやや問題意識が移行してしまった感もあるが、本としての統一感よりも「変さ」の追求を優先したということなのだろう。とくに私がおもしろく感じ、まだまだ議論がつづきそうな気がしたのは第二部第四章の語尾の問題と、渡部直己の『小説技術論』とからめての「描写」の問題である。近年、小説家の間からさえ、「描写って面倒くさいよね」という声を聞く。描写はとばす、という読者もいる。長らく「小説は描写」と言われてきたが、「リアル」とは何かという話ともつなげての「なぜ描写なのか」は興味尽きない話題だと思う。