この道

古井由吉

1900円

そのかりそめの心

松浦寿輝

 近作の短篇八作を収める。その一つ一つを独立した作品として読もうと、八篇が全体としてゆるい絆で繫がった連作をなしていると読もうと、どちらでも構わない。また、一篇ごと、虚構の細部をちりばめた小説とも読めるし、著者自身とぴたりと重なる「私」の視点から書き下ろされた感懐吐露のエッセイと読んでもよい。どのようにでも読めるこの散文の融通無碍ぶりは、独立した作品の観念にも、小説とエッセイを分かつジャンルの境界の観念にも信を置くまい、という著者の強固な意志によってもたらされたものだ。

 ただひたすら、文章が│小説だのエッセイだのに分化する以前の、野生の、始源の、荒々しくも繊細な文章が、書き継がれてゆく。言葉の水が流れてゆく。流れるかに見えてふと途絶え、かと思うとまた思いがけない場所から湧出し、新たな川筋を作り出す。この光景は古井由吉の読者にはすでにきわめて親しいものである。すなわち、ある時点以降古井氏が選びとった散文のスタイルが本書でも継続しており、本書を読むことでわたしたちは、そのスタイルの生成変化が現時点で至り着いた最新局面を体感することになる。

 この生成変化が著者の身体の現在と絶えず同期していることは言うまでもなく、従って、傘寿を越えられた古井氏の場合、当然と言えば当然ながら、その現在とは、端的に老いの深化として文体に露呈することになる。小説かエッセイかはともかく、本書を、ある年の早春(初篇の「たなごころ」には「大寒が明けて梅の香が夜に漂う頃」とある)から始まって、季節を追って月日が流れ、翌年の盛夏で終わる、ほぼ一年半ほどにわたる、一老人の暮らしのクロニクルとして読むことは可能である。

 視力、聴覚、嗅覚の衰え、足腰の弱りがしきりと嘆かれるが、文章じたいにはいささかの衰弱も感知されない。選び抜かれた言葉の稠密な持続が、ロジックというよりアナロジックの思考の軌跡をうねうねと描いてゆく。それは一見きわめて奇態なようで、実は身体の自然に密着した、艶やかな詩的思考である。身体の自然、災禍の続く世界の風情の自然にもっとも即してあろうとする意志が、予期せぬ破れ目や迂路を次々に作り出し、結果として文章にかえって佶屈したねじくれの外観を賦与するに至ってしまう、とでも言うべきか。

 過去の出来事の想起がおびただしく挿入される。そこには現実には起こらなかったことも紛れこんでいるかもしれないが、起こらなかったことを思い出したり、起こったことも思い出すごとにその内容に変形や歪曲が施されていったりというのは、それこそ老いの自然にほかなるまい。そもそも、一定不変の過去の「現実」などはたして実在するのかという哲学上の難問じたい、完全にけりがついているわけではない。従って、古井作品の愛読者にはきわめて親しい幾つもの挿話は、本書にも飽きずに再登場する。敵軍の空爆下に逃げ惑った少年時、椎間板ヘルニアの治療で仰向けの姿勢を強いられた日々……。同じことが何度も何度も想起され、そのつど想起主体の現在と共鳴して新たな意味を充塡され直され、詩的豊饒へと向けて熟れてゆく。熟すというより、熟れ鮨というような意味で熟れてゆく、と言ってみたい。単調さの印象などかけらもない、ひたすら不穏で獰猛な反復だ。「なれ過た鮓をあるじの遺恨哉」という蕪村の句がふと心をよぎる。

 両親や兄姉について克明に語られた過去の作品もたしかあったはずだが、本書ではその影が薄く、またこれは従来から同じだが、まだ存命の妻や子や孫などにはほとんど触れられない。結果として、天地に係累のいっさいないよるべない幼子のような存在へと、老年の「私」は戻ってゆくようだ。戦禍で親を見失った哀れなみなしごや、不意に家を出て行方知らずになってしまう老耄の人の運命へ、思いはしきりと向かう。「……自身の本来を思い出せぬままにまた孤児の身となった老年に、もしも埋められた記憶がひらくとしたら、背後からではなく前方の天に、赤い光芒となっておごそかに立つのではないかと思われる」(「野の末」)。太陽の異変で起きた磁気嵐で、江戸期の京都にオーロラが立ったという記録があるというが、そんな異様な天変のように、記憶の数々がはるか前方の空にいきなり現出するのが、老いの窮まりの秘蹟なのだろうか。

 そのとき、生の時間とは、誕生から死へ向かって一方向に流れてゆく持続ではなく、何もかもが同時に現前する異形の「静まり」となる。「行きかふ年も又旅人也」と芭蕉は言ったが、はたしてそうか。歳月の去来というが、「去来というものではなさそうだ。去るも来るもなくなり、生まれてこの方がここにひとつに静止する、そんな果ての境はあるように思われる」(「花の咲く頃には」)。

 行方不明者。迷子。故地から追われ根こそぎになってしまった新住民。「居つきの人に聞いたところでは……」と語り出される箇所があるが(「野の末」)、同じ場所に何十年住もうと決して「居つき」になれないのだ。自身のものと得心できる場所を決して所有できぬまま終わるほかないのが、この現世での仮初の生の実態であろう。「……戦中から敗戦後にかけて流転を見た家の子は、中年になってから定めた居を一途に守ってきても、避難者や居候の心をどこかに留めて、老いに入るにつれてそのかりそめの心が時に、変りもせぬ日常の中へ訝りとなって上ってくるものかと思った」(「行方知れず」)。

 本書末尾に不意に現われるのは笑いである。「気がついてみれば、寝床の中で笑っていた」(「行方知れず」)。この笑いは恐ろしく、すさまじい。それは同作中の行文を少しばかり遡行して、「言葉はつき詰めるとすべて諧謔、徒労の諧謔なのか。人は最期まで言葉という危うい綱を渡り、そして渡り果てぬ者なのか」という物書きとしての覚悟を照射し返すことになる。未だ時ならず、時ならず、と呟きつつ、古井由吉はまだまだこの途方もない綱渡りを続けるだろう。

「ゆきてかえりし物語」といえばJ・R・R・トールキンのファンタジー小説『ホビット』の副題だが、行って帰ってくる物語とはようするに旅のことだ。
『前立腺歌日記』は、前立腺ガンを宣告された初老の男が、手術とリハビリと放射線治療を経験した後、日常生活に戻るまでの旅を物語る一冊である。「僕」と名乗る語り手は著者に瓜二つだから私小説のように読めるし、治療の段取りが詳細に描かれているので、闘病記の系譜に連なるノンフィクションとして読んでも差し支えないだろう。
 ただし、これは「歌日記」なので、散文の合間に詩篇がひんぱんに差し挟まれる。自作の詩が多いが、万葉集、和泉式部、高浜虚子から新川和江にいたる日本語詩や、シェークスピア、ランボー、T・S・エリオットなどの詩も邦訳で登場する。日々の報告を語る「僕」の文章に詩行が挿入されると、個人の経験がにわかに隠喩へと変容するかのようだ。読み進むうちに、芭蕉の『奥の細道』、ダンテの『神曲』、紀貫之の『土佐日記』、トーマス・マンの『魔の山』などが物語を下支えする構造も見えてくる。思えばどれも、行って帰ってくる隠喩的な旅を描いた書物ばかりである。
 ミュンヘン在住の「私」が語る物語の発端は一年前にさかのぼる。熊野古道を徒歩旅行したとき、中学生の頃に部活で痛めた膝関節の軟骨に負担がかかって痛みが再発した。ドイツに戻って医者へ行き、ついでに受けた血液検査がきっかけで前立腺ガンを早期に見つけることができた。
 この病気にかかりやすい傾向が父祖たちにあったことを知る「私」は、発病を「気の遠くなるほどの過去からの贈り物」ととらえ、前立腺全摘の手術を受けることを決める。そこまでが「奥の細道・前立腺」と題された第一章で、「尿道カテーテルをつけたまま詩が書けるか?」を問う第二章は、入院してから退院するまでの経緯を語る。入院生活のなかで気取らぬ生き方を学んだ「僕」(第二章から一人称が変わる)は、「これからは、どんな時でも、誰の前でも、胸の前におしっこ袋をぶら下げているつもりで生きてゆこう」と決意する。初老の男が人生の初心を取り戻す瞬間の描写が感動的だ。
 だがじつは、「尿道カテーテルをつけたまま書いた詩」と題された既出の詩(『現代詩手帖』、二〇一七年一月号)があって、その末尾に同じ決意が語られている。詩で語ったことをあえて散文で語り直すのはなぜだろうか。その理由はたぶん、『前立腺歌日記』に秘められた詩と散文の融合をめざそうとする意図とリンクしている。
 著者はかつて、「初めに言葉・力ありき」と題された講演(評論集『詩人たちよ!』所収)で、ダンテ、芭蕉、マンの文学を縦横に比較しながら、行為と言語の対立と協力関係について論じたことがある。四元は、『神曲』においては言葉と行為が対立せず、「無邪気なばかりに睦まじい関係を結んで」いるのに気づき、「詩人の操る特殊な力に満ちた言葉」によって、行為=現実が「固有性の世界」から「普遍的な世界、永遠の高み」へと導かれているのを発見した。
 なるほど、『前立腺歌日記』は、散文的な行為の世界と詩の言語が誘い込む永遠・普遍の世界とを調和させようとする実験場なのだ。
 手術後のリハビリのために滞在した療養所での暮らしが描かれた第三章「シェーデル日記」は現代版の『魔の山』であり、病院の地下にある放射線科へ通った経験を語る第四章「わが神曲・放射線」には、ダンテの地獄篇をもじった世界が描かれる。そして、先述の詩論において、中原中也の詩と井筒俊彦の言語哲学を参照しながら、「根源的絶対無分節の世界」「一にして無限な混沌宇宙」などと表現されていた、詩の言葉が向かうべき「意識の深層」は、本作では「クオリア」と言い換えられている。クオリアとは「赤ならば赤の『赤さ』そのものの質感」のことで、その出所について人間は何も知らないものの、「意識のクオリア」こそ「僕という存在の本質」ではないか、と語り手は考えるのである。
「終章 春雨コーダ」では一人称が「私」に戻る。第二章から第四章までの「僕」が渦中の語り手だったとすれば、「私」は発病から回復にいたる「ゆきてかえりし物語」を丸ごと見渡せる場所に立っている。三十五回にわたる放射線治療を終えて、地下から地上へ出た彼は、そこが「私の煉獄」だと気づく。
 今、新たな旅に出た「私」は来し方を顧みて、自分は「いつも何かを待ちながら生きてきた」とつぶやく。そして、「私は詩に憧れ、いつの日か自分の言葉の指先がそれに触れることを夢見た」が、「詩だけに満足することもできなかった」ので、「現世的な歓びを追い求め」、「ひとりの娘」と結ばれたことを語る。これ以上せんじ詰めることは不可能と思われる自叙伝が綴られたこのパラグラフにおいて、著者によく似た「私」は詩と現実、あるいは言葉と行為のあいだに折り合いをつけようとしてきた人生を振り返っている。
 終章の終わり近く、ミュンヘンからの旅の途上にストラスブールで下車した「私」は、大聖堂の隣の美術館を訪れて、かつて岳父とここを訪れたときの時間を生きなおす。美術館を出て、運河のほとりを歩き出したときには死者たちの思い出が胸中に押し寄せてくる。「私」は街中の「こぢんまりした教会」へ入り、合唱を聴く。合唱隊は「脳の中の、神経細胞の先端の、微小管の内部の素粒子を自己収縮させて、自分だけのクオリアを外界に照射して」いる。「私」はこの瞬間、ダンテそのひとを生きているかのようだ。合唱の声が響き合う、調和の世界に身を委ねる語り手は、比類のない天上の音楽の只中にある。
 病を得た経験をもとにして本作を書いた四元は、ダンテと同じくみずからを著者、作中人物(僕)、全知の語り手(私)の三人に振り分けつつ統合して、「歌日記」を広げてみせる。世界文学への愛と真摯な詩論に裏付けされた本作により、歌と物語を融合する古い器に新しい可能性がつけくわえられた。