『ピエタとトランジ〈完全版〉』

藤野可織

1815円(税込)

家父長制を殺しに来た

山内マリコ

 藤野可織が二〇一三年に上梓した短編集『おはなしして子ちゃん』収録作のなかで、熱狂的な人気を呼んだ「ピエタとトランジ」が〈完全版〉となって帰ってくる! これは二〇二〇年の文学ホットトピックだ。帯に光る〝最強最高の女子バディ物語〟の文字が、いやが上にも期待をそそる。

 ものすごく頭のいい女子高生トランジが転校してきたことで、ピエタの周囲で殺人事件が頻発し、おもしろいように人が死んでいく様が爽快だった短編「ピエタとトランジ」。「このままふたりで学校を全滅させちゃおうか」なんて会話が小気味よく、「死ねよ」「おまえが死ねよ」とじゃれあう二人の関係はまさに永遠だった。永遠とは、けして年をとらないこと。時間の束縛から自由であること。

 しかし〈完全版〉で、彼女たちは刻々と年をとる。この二人が年をとることは特筆すべき事件だ。なぜなら加齢は、女子高生という記号化した存在を消費するカルチャーへのアンチテーゼそのものだから。日本では現実でもフィクションでも、女子高生という、例外的に自由を与えられた存在にしか〝荒唐無稽〟は許されない、その理不尽を、〈完全版〉は逆説的に描き出していくのだ。

 医大に進学したピエタが、備忘録として事件を記録する〈完全版〉には最初、ホームズとワトソンの香りが漂う。トランジの「事件誘発体質」は名探偵の職業病みたいなものだから、さして問題はないだろう。ロンドンのあの二人組と同じシリーズ化の道を、大学生になったピエタとトランジがたどっても不思議はない。なんなら、それを望んでいる読者の方が多数派かもしれない。

 しかし多数派の代表意見ともいえる、子どもを産むことの素晴らしさを唐突に語る森ちゃんが登場する「女子寮連続殺人事件」あたりで、もう雲行きがあやしくなる。〈完全版〉は、ただただクールで最高だった短編「ピエタとトランジ」とは、どうも様子が違う。二人が行く先々でばたばた人が死んでいき、天才すぎて推理らしいこともせぬまま真相を言い当て、「私たちって最強だよね」と笑い合っていられる世界線に、二人はいないのだ。そう、〈完全版〉の彼女たちはどうやら、永遠ではない。

 それが確定するのが「海辺の寒村全滅事件」だ。二人は二六歳になり、ピエタは研修医として働いている。そして天才ゆえにトランジの事件誘発体質が感染した森ちゃんは、産科医になる夢も、結婚してたくさん子どもを産む夢もダメになったと嘆く。森ちゃんの挙児願望は、ちょっと異様な迫力がある。結婚して子どもを産むことが女の幸せであるという価値観が、何度も、グロテスクなまでに強調される。

 その価値観は、次の「無差別大量死夢想事件」でピエタ自身を蝕む。ピエタは森ちゃんが志望していた産科医の職に就き、私立高校の英語教師と交際している。いやになるほどしみったれた現実を生きている彼女は、キャリアと自身の出産について憂う、どこにでもいる大人の女性だ。ありきたりな現代女性の肖像。そして彼女はそんな自分を─ピエタという奇妙なあだ名で呼ばれなくなった自分を─「意味がない」と思っているのだ。ここに来てようやく、〈完全版〉がなにを描こうとしているのか、つまびらかになるのだった。

 旧来の物語の〝型〟を突き崩そうと、物語自体が蠢き、もがいているような〈完全版〉。そもそも物語とはなんだ? なんでもアリの想像の世界? たしかに物語のなかでは、「年をとらない」禁じ手も、永遠ループのなかで次々に起こる事件を解決しつづける定型の幸せも、許されているはずだった。

 しかし、たとえ物語のなかであっても、女性にはその自由がない。リアリティラインがどれだけぶっ飛んでいようが、ばたばた人が死んでもなんの問題もない世界であろうが、そこに女性がいる限り、「結婚しないの?」「子どもはまだ?」と、親が、親戚が、同級生が、そして読者が─つまりは多数派の価値観が、足を引っ張ろうと追いかけてくる。結婚したピエタもまた、「一年後には、私は妊娠を最大の目的として生きることになる」という岐路に立たされているのだった。

「私の産む子どもは、私を救うのか、それとも私を破壊するのか」という彼女の煩悶は、赤ちゃんが産まれた瞬間にすべて自動解決し、めでたしめでたしのハッピーエンドを迎えるのが、旧来の物語の〝型〟だ。これまで量産されてきたその物語は女性に、子どもさえ産めば幸せである、それがあなたの役割だから、たくさん産んで! というメッセージを送りつづけている。〈完全版〉は、怠惰にくり返されてきたそれら旧来の物語に、真顔で中指を突き立て、そこに巣くう家父長制的な価値観を殺そうとする。そして二人は、自分たちが本当に生きるべき世界を探すように、日本を飛び出すのだった。

〈完全版〉はたしかに〝最強最高の女子バディ物語〟だ。しかしそれは、思っていた形とはずいぶん違うだろう。そこには、現実にからめとられながら、自分たちの生き方を模索し、軋轢と闘う、生身の女の姿がある。新型コロナウイルスが世界中に蔓延した現在と、奇妙にリンクする展開へと広がる、黙示録的な後半。「子どもを産むことによって世界を救おうとする有志の集まり」である世界母子会の襲来によって、その主題はいよいよ明確になる。

 最後に再録された短編「ピエタとトランジ」を改めて読むと、それはまったく別の意味を持つ物語になっている。あのとき「学校を全滅させちゃおうか」とうそぶいていた二人は、学校どころか人類が滅亡せんとする世界で、いちゃつく。あんなふうにいちゃついてた二人が、もう一度いちゃつくには、こんなに遠くまで来る必要があったのだ。