旅のない

上田岳弘

1650円(税込)

生きることの噛みあわなさに嘆く

角幡唯介

 今、私たちが現実に生きているあいだにながれる外側の時間、そして生きていることをリアルに感じさせてくれる、内側からくるたしかな手触り。この両者が、最近はいよいよ嚙みあわなくなってきたな、と感じる。

 この嚙みあわなさは、いったいどこから来るのだろう?

 年齢的なものが、ひとつにはあるのかもしれない。つまり、私個人の経験の蓄積と時代の価値観が、齟齬をきたしているのではないか。

 自分が築き上げてきた価値観にしばられる四十五歳の中年男―─。ひとまず私は自分のことを、簡潔にこのように定義してみる。

 学生時代から、やれ登山だ、やれ探検だといって、そればかりやって、もう三十年近くになる。そこに、生きることの赤裸々な経験が、あるいは人間の生き方の原型みたいなものが存在すると信じているからこそつづけてきたわけだが、でも最近は、リスクのあることをするだけで吊るしあげられそうだし、そのへんで野営したり焚き火をしただけでも怒られそうである。北極で継続している犬橇も日本でやるのはむずかしそうだ。犬橇では十数頭の犬が走行中にぼろぼろウンコをして、拾っている暇などない。そんなもの、今の日本ではちょっと存在することすら許されないだろう。

 昔はそんなことはなかった。もっと自由だった、と思う自分がいる。つまらん時代だ、と毒づく自分がいる。実際に、そんな時代にたいする悪口をツイッターでつぶやくこともある。

 そんな中年男である私が、この短編集を読む。すると同じような中年男が、同じような悪口を吐いており、ハッとする。

〈僕はすべてを馬鹿にしている。どうだっていいと思っている。安穏とこの世にあることが不快で、何の批評性もなくただ生きている人間を馬鹿だと思っているし、不快に思っている。……どす黒くて、退けることができないからからに干からびた石ころみたいなもの。それを僕は誰かと共有したくて悪口を言う。……ねえ、こんな男と誰が一緒に生きていける?〉(「悪口」)

 この独白に私は赤線を引いた。自分もやりたいことをやり尽くした先に残るのは、この〈からからに干からびた石ころ〉なのではないか? 〈干からびた石ころ〉は、私が生きてきた足跡そのものだから、それを退けることはできないのだが、でもこれをかかえているかぎり、誰も私と一緒に生きてはくれない、というのである。

 おそろしい話だなと思うが、でもふと思い返してみると、最近、妻子に、北極探検ができなくなったあとの方向性を披露したときに、ついていけない、みたいな反応がかえってきて寂しい思いをすることがある。言葉が身に沁みるのである。

 では……ということで〈干からびた石ころ〉を路傍に捨て、外側にながれる時間に身を投じてみたとしても、生きることの嚙みあわなさは増すばかりだろう。

 外側に流れる時間。これを、きれいで美しいことを言うこと、私事より公益に資すること、無駄なく物事を効率的に押し進めること、そういったことに価値を見出す最近の世相のことだとする。今、人々は、総じて、それ以外の余計なことを言ったりやってりして足を引っ張られることを極端に避けようとする。〈安穏とこの世にあること〉をよしとし、〈何の批評性もなくただ生きている〉だけで〈干からびた石ころ〉をかかえていないから、とくに自覚することもなく「こういう時代だから……」という言葉とともに、外側に自分をあわせようとする。だが、人間なんて結局、正も邪も内側にかかえこんだ矛盾した存在である。矛盾する自分を、外側の論理的な正しさに完全にあわせようとしても、どこかにズレが生じ、やはり嚙みあわない。

「ボーイズ」の「僕」となつみは、外側にあわせることを生き方の指針にしてきた。〈人生は生活の集積であり、重要なのは生活スタイルだ〉。仕事にもとめるのは生活レベルを維持するための条件であり、論理的に、効率よくやることが重要だ。〈先に形さえ作ってしまって、やるしかない状況に追い込めば、大抵は何とでもなる〉となつみは豪語する。だから子供も、生活スタイルにあわせて作る/作らないを決めればいいと考えていた。

 しかし子供は計画的に作るものではなく、おのずとできるものである。あるとき、なつみはこれまでの人生哲学をひっくりかえし、子供を作りたいとうちあける。生活スタイル云々ゆえではなく、〈ただ子供について考えるとなにか体内で熱のようなものが生まれ、それは無視することができないほどに確固としてあって目を逸らすことができない〉からだ。でも、子供はできなかった。

 人々にはそれぞれ生きるリズムがあり、それが「私」という人間の固有性をかたちづくってゆく。なつみが最後まで避けたかった、「精緻なシミュレーション」の向こう側にある偶然により、それは象られてゆく。偶然に翻弄され、きづくと出来あがっていくもの。その意味で、生きることは予定調和ではなく、本質的に不条理だ。

 旅が人生に擬せられるのも、それが偶然に身をさらす時間のつらなりだからである。旅をして、それまでの自分が固執していたスタイルからはなれ、異質な何かに触れたときに、「私」の内実は変質し、新しい自分ができあがってゆく。それをくりかえして、「私」は「私」になってゆく。

〈普段の自分、なぜか目を背けられない記憶や思念。気が付けばそのことについて堂々巡りの考えを続けてしまう。その不愉快な違和感も含んだ普段の自分から離れて、ずっと遠くに行く。普段の自分から抜け出た気持ちになる。……一時しのぎにしかならなくて、でも漆を重ねて塗るみたいに、少しずつ変わっていく。矛盾するようですが、根本は変わらないということを知って、自分というものが少し厚みを増す〉(「旅のない」)

 四十五歳になって「私」が「私」になってしまった今の私は、この言葉に同意する。そしてそれが〈干からびた石ころ〉にすぎないことにも同意する。