スタジオジブリの想像力

三浦雅士

2750円(税込)

空飛ぶ少女の視界はどのように生まれたか

阿部公彦

「国語教育と身体」と題されたエッセイで三浦雅士は、国語の教科書に次のような苦言を呈している(『考える身体』河出文庫)。国語であろうと外国語であろうと言葉の土台にあるのは身体。呼吸やリズムが大事で、「練習」も必要。ところが教科書の「学習の手引き」を見ると「生き方」や「考え方」の話ばかり。こんなふうに内面に踏み込ませるなんてとんでもない、と。

 三浦の不満の背後には、教室という公の場で、安易に内面を語らせることへの危惧がある。こうした場は「呻くように本音を滲みださせる近代の文学空間の、それこそ正反対に位置する」からだ。そんな所で内面を扱ったら、かえって自由に考える力を縛ってしまう。「内面は教えることなどできない。ただ、醸すことができるだけ」だという。

 内面に対してこのように慎重な距離をとろうとする態度は、三浦のこれまでの著述にも一貫して見られるものだったが、今回の『スタジオジブリの想像力』も、タイトルから想像される以上に、最終的には内面の計り知れなさを探る試みとなっている。

 冒頭ではあらゆる動画はアニメ的であるという指摘がある。つづいてパノフスキーとゴンブリッチの仕事を対置。前者は近代科学や思想の成り立ちを透視遠近法の枠組みを用いて説き明かすのに対し、後者は本質的にアニメーション論であり、その関心の中心は「いまここにこのようにしてあるわたし」だという。

 本書の元が講演録だということもあるのだろう。また、三浦の著述にはもともと走りながら語るようなところもあり、今回もこの「いまここにこのようにしてあるわたし」とそれに類する表現が何度となく使われるうちに─それがまるで息継ぎのようにも感じられる─次々に新しい要素が導きこまれ、批評史や哲学史の概観が提供され、そんな中で三浦自身の考えもよりほぐれ、より広く展開するという形になっている。

 やがて見えてくるのは「いまここ」を表現するために、動く時間が表現される必要があるということである。人生を見渡して意味づけ、固定してしまうような時間観ではなく、一瞬を生け捕りにするような作法。それを三浦は「無時間のなかに突然、時間が登場した」という言い方でとらえる。そこに現れるのは今にも動き出しそうな、まさにアニメ的な視界なのであり、「わたし」というものを「現象」としてとらえる考え方にもつながっていく。三浦が絶賛する「かぐや姫の物語」は高畑勲と宮崎駿の総合で、そこに見られる三六〇度の視界は余白を通して「人間の視覚の自由」を表現するが、画面の全体が描き尽くされたルネッサンス以来の西洋画の伝統との大きな違いは、余白から生が生じつづけること、すなわち、絶えず時間が動いていることだった。

 第二章以降は、ジブリアニメの本格的な考察が始まる。これまでも「宮崎アニメではなぜ少女が空を飛ぶのか」という問題に多くの評者が取り組んできたが、三浦もまたここに大きな意味を見いだす。飛ぶことは何より、物の見方に、つまり視覚のダイナミズムにつながる。そもそも物の見方が一様ではなく、波乱含みで動的であり、また発見に満ちていることを飛ぶことが教えてくれる。「風立ちぬ」の冒頭部などは宮崎的なものにおける飛ぶことの象徴性をこれ以上ないほどの飛翔感とともに描き出しているのだ。

 このあたり、冒頭で引用した三浦の言語観との連続性がはっきりと感じられるだろう。言語活動もまた運動。波乱含みで動的なものである。しかもおもしろいのは、言語能力の多くが視覚に依存しており、主語・述語といった構造そのものが実は視覚的と見なせることだ。

たとえば、眼をつけること─つまり焦点─が、主語あるいは目的語─両者はつねに入れ替え可能でそれを能動と受動というのです─の機能なのであり、手を伸ばして食べることが述語であるというように、文法は視覚によって切り拓かれた世界をなぞっているのです。

 三浦のジブリ観は熱気に満ちた口吻で語られるが、今引用した箇所にもあらわれているように、その批評の方法は徹底してフォルマリズムに根ざしている。このフォルマリズムは─ダンスに造詣の深い三浦ならではとも言えるが─身体のフォルムにも通ずる。彼のフォルマリズムが、呼吸やリズムといった要素を通じて精神の世界へのアプローチとなっているのはそのためだ。

 本書の中心部では宮崎アニメにおける地平線と水平線の重要さが説かれる。関東大震災を禍々しくせりあがる地平線を通して描きだした「風立ちぬ」にしても、最後の場面で巨大な蟲の大群がさながら地平線そのもののごとく押し寄せてくるのを描き出した「風の谷のナウシカ」にしても、地平線に始まって地平線に終わる作品なのである。三浦が参照するのは、心理学者のジェームズ・ギブソンによる地平線的な遠近法という考えで、これは動く主体としての能動的な「わたし」の視界が、地平線との関係の中でこそ成立することを唱えたものだ。

 三浦は世界と能動的にかかわろうとする「眼」に地平線がどう映っているのかという視点から、宮崎作品の登場人物たちの心境に思いを及ばせていく。「宮崎アニメの主人公はみな飛ぶ、飛翔する、だからこそ逆に、地に足をつけているのだ」ということになる。ギブソンは飛行機の操縦士の視覚体験の研究をもとに、地平線・水平線との関係から世界像を構築し自分の位置を確認するような主体のあり方を提示した。たしかにそこでは光景が前方から後方へと流れていく。ジブリのアニメで、こうした場面がどれほど美しく印象的に表現されてきたことか。

 三浦自身の視界も、それこそ能動的に移動しながら世界とかかわるので、そのダイナミズムを静止画として提示しきるのは難しいが、ところどころに彼は道標を残してくれた。本書の結末近くでは、地平線の発明がまさに「憧れ」の発明でもあり、これが人類を今あるものにしたとの言がある。この本の出発点であり、終着点でもあるのだが、その理解もまたあくまで動的に、疾走感とともになされる必要があるだろう。