おいしいごはんが食べられますように   高瀬隼子
生きのびてしまうあなた   評者:ひらりさ

「生きる」という字面は、たまに腹立たしい。三文字の裏側に巧妙に隠された意味の多さに、うんざりして叫びそうになる。  本来は、呼吸して、栄養を摂取して、寝ていれば十分なはずなのだ。でも社会はそれだけでは、私たちを「人間」として認めてくれない。学校に通い、卒業したら就職して、毎日決まった時間に出勤して業務を行い、税金をおさめる……だけでも駄目で、女性は毎日メイクをしてストッキングを穿くべきだし、適齢期になったらパートナーがいるべきだし、周囲に結婚や出産の話題を振られたら、今はそういう時代じゃないからといなしつつ適度な愛想で流すべき。たまにサボってもセーフだけど、油断し過ぎたらアウト。この時代の「生きる」の項目には、目には見えない、学校でも教わらない、小さな注意書きが無数につらなっている。  高瀬隼子は、現代人の首にまとわりつく柔らかく重たい真綿を見逃さない。誰もがそれを受け入れてしまっているありさまを、容赦なく暴く。気づくことは、しんどい。でも、カタルシスもある。『おいしいごはんが食べられますように』は、その二面性を有する小説だ。  デビュー作『犬のかたちをしているもの』では、卵巣の手術以来男性との性交渉に抵抗を持っている女性、二作目『水たまりで息をする』では、突然風呂に入らなくなった夫に葛藤する女性を描いた高瀬。本作でも中心には、芦川という、30歳の女性が据えられている。舞台は、飲料や食品パッケージの製作会社の地方営業所。過去の職場でハラスメントを受け心身を壊したらしい芦川は、彼女の年次で求められるスキルを持たず、残業をこなす体力もない。その代わり、彼女にしかできない役割がある。飲み会では男性上司の私生活の愚痴にとことん付き合い、自宅でつくったプロ顔負けのお菓子を同僚に配る。  彼女の努力は成功している。歳の離れたパート女性は、芦川のことを「いつも笑顔で、悪いところが一個もない」と褒めそやす。だが、いつも笑顔であることは「正しい」のだろうか? 自分の飲みかけのお茶を勝手に飲んだと伝えてくる男性上司に、その場で一口飲んでみせて微笑み返すのは。同僚に配ったお菓子がぐちゃぐちゃにつぶされて自分の机に放置される事件が発生しても、黙々と片付け、他の人間が気づくまで黙っているのは。  本作が一筋縄ではいかないのは、そこで芦川の内なる悲鳴をつづるわけではないところだ。彼女に、変化や破局は訪れない。物語は彼女の「弱さ」「正しくなさ」に苛立ちを募らせる、芦川の同僚二人の視点で進む。芦川のいびつさに哀れみを抱きながらも、それが性的興味につながり、やがて交際をはじめる後輩男性の二谷と、それを知りつつも、芦川への愚痴を吐ける相手として二谷に親しみを持つさらに歳下の女性、押尾だ。  洗わないで放置した鍋の中の濁った水みたいな胸の内に、毅然が足りない、という言葉が浮かんできた時、二谷は芦川さんを尊敬するのを諦めた。諦めると、自慰の手助けに彼女のことを想像するのも平気になった。(20ページ)  わたしは彼女のことが嫌いでよかった。かわいそうなものは、かわいければかわいいほど虐げられるから。そうやってわたしが悪者側にならないといけないのも腹が立つ。仕事ができない人が、同僚に仕事を任せる人が、どうして被害者のように振舞えるのか。(49ページ)  ねじれた二等辺三角形の頂点にいるのは、芦川だ。小動物にちょっかいをかけて反応を待つ子供のように、二谷と押尾は、芦川にそれぞれ「いじわる」を仕掛けていくことになる。それは、彼らの嗜虐心や、単純な怒りから来るものではない。二人を駆り立てるのは、芦川への怯えだ。なぜか? 芦川の振る舞いに彼女の「弱さ」「正しくなさ」を意識するほど、思い知るからだ。自分たちもまた、「生きる」のに一生懸命なのだと。  芦川に比べれば二谷も押尾も、「生きる」のが上手に見える。求められた仕事をこなし、できない人のぶんも肩代わりし、一人暮らしの生計を立て、日々の家事も行っている。けれど、二谷も押尾も、全自動でストレスなくこなしているわけではない。職場や友人付き合いのなか、何が許され何が許されないかを体の内側でたえず計算し、「正しい」自分を選んできたのだ。 大学を選んだ十代のあの時、おれは好きなことより、うまくやれそうな人生を選んだんだなと、おおげさだけど何度も思い返してしまう。その度に、ただ好きだけでいいという態度に落ち着かなくなる。(65ページ)  芦川を眺めるとき、二谷たちは、自分たちも彼女とは別の仕方で、注意書きだらけの世界に「適応」している気持ち悪さを嚙み締める。芦川が「弱さ」をさらけだすほど、「強い」ように見える彼らの口からは、生存への屈託があふれ出そうになる。二谷のそれは、手作り料理への忌避感としてあらわれる。二谷の家で手料理を作り、職場で手作りお菓子を振る舞うことは、芦川の生存戦略にして、二谷のあり方への侵略となる。二谷は抵抗し続ける。  それでも芦川は破綻しない。彼女が身につけざるを得なかった「正しくなさ」は哀しいが、終盤に向かうにつれ、得体のしれない力に転じる。強い/弱いも、正しい/正しくないも、圧倒してしまう。よくよく考えたらそんな区分も、「生きる」に後から付け加えられた、些末な文言にすぎないのだろうか? 現実にその場所で生きのびているという事実しか、私たちの「生きる」を裏打ちしてくれない。押尾は去り、二谷は、芦川を受け入れる。そして読者も、いつの間にか自分の喉元を侵している、ぬるくて重い抑圧の甘やかさを味わうのだ。
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おいしいごはんが食べられますように   高瀬隼子
文学の新たなキックオフを告げる   評者:長瀬 海

 おいしい─毎日の生活のなかで、何度も繰り返し、繰り返し唱えられる、快楽のおとずれを告げることば。そんな魔法の呪文が口から零れた瞬間、めくるめく共感の世界が目の前の食卓に広がっていく。だって、おいしいものはみんなを幸せにするんでしょ? だけど、この小説はその自明さをひっくり返し、長らくそこに覆い被さっていた虚飾をそっと剝ぎ取っていく。  まず本作の作者に触れれば、高瀬隼子は僕たちのコミュニケーションのあたり前を疑うことの稀代の妙手だ、と言っても決して過言ではない。彼氏が他の女性を身籠らせてしまい、挙句、その子を育ててほしいと頼まれた主人公が不定形な愛の輪郭を探る『犬のかたちをしているもの』や、夫が風呂に入らなくなった瞬間に家庭の空間に滲出する齟齬を通じて夫婦とは、共生とは何かを深く問いかける『水たまりで息をする』。高瀬は、そういった物語を通じて他者が他者である限り、そこに歴然と横たわる理解をめぐる不-可能性をずっと考え続けている。そうであるからこそ、「おいしい」という共感のことばを前に高瀬が本作で目掛けるのは、そこに内包されるディスコミュニケーションの痛みや戸惑いを暴き出すことなのだ。  物語は、あるラベル製作会社のお昼休みの情景から始まる。支店長がみんなで蕎麦を食べにいこうと言い出す。それぞれの昼事情を無視する支店長の無神経さに呆れつつ、カップ麺に湯を注ぐ男性社員の二谷は、食事に労力をかける人たちの気がしれない。食事なんて腹が満たされればいい。それ以外のそこに付随する一切が煩わしい。おいしさを求め合う、その同調圧力がウザい。そう考える二谷を作者は、「いいね!」的コミュニケーションの彼岸に佇む、生活の合理性を希求してやまない人物として巧妙に描く。  二谷たちの会社にはもう一つ、別種の同調圧力がある。それは女性社員の芦川をめぐるもの。芦川は前職でハラスメントにあったという。だから声の大きい人が怖い。顧客に怒鳴られると泣いてしまう。社外研修のグループワークも不得意で、しんどくなるとすぐに休む。だけど、みんなに優しいし、いつも笑顔だから、社内では庇護の対象となっている。芦川さんは弱いから仕方ない─彼女を守ることの合意がいつの間にか形成されていた。だから、「頼りない、弱い感じの、優しい女性が」タイプの二谷は、芦川の弱さがたまらなく好きだ。「彼女が泣けば泣くほどよかった」。静かな欲望が湧き上がる二谷は、芦川との距離を縮め、そして恋人となる。  弱さがそのまま権力となる正義感がこわばった世界の危うさを絶妙に象る作者は、その空間に異議を唱える人物を呼び込む。芦川の弱さへ強烈な嫌悪を示す、彼女の後輩社員の押尾だ。嗜虐的な意思を秘める押尾は、二谷をこちら側の人間だと感じ、近づいていく。そして、悪魔的な提案を呟くのだ。「二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」。僕の予感が間違ってなければ、弱さと正しさを相対化する方向に作用していくこのセリフは、新たな文学的ゲームのキックオフを告げる、そんなことばとして文学史に残るのではないか。  二谷、芦川、押尾。それぞれじぶんの格率を強く(外から見たら弱々しく)握り締める三人のキャラクターを、欲望の相関的な世界のなかで造形することに成功した時点で、作者は記念すべき第一試合の勝者となった。彼女たちは互いに共鳴し合えない関係にある。一見、芦川への違和を抱く点で連帯可能に見える二谷と押尾も、それによって孤独の窪みから引き上げられるわけじゃない(押尾はグルメ好きであることを隠して二谷のそばにいる)。象徴的なのは人称の使い方だ。押尾の視点は「わたし」で語られるのに対し、二谷のパートは三人称。不均衡な人称の語りが、この作品の「わかりあえなさ」という主題を掘削する機能を持つのは、男女の会社員の均衡な視点で語られる小説─そうだな、たとえば、津村記久子『ワーカーズ・ダイジェスト』と比べればわかるだろう。  転勤先で理不尽なクレームに苦しめられる重信と、先輩から謂れのない無視を受け続ける奈加子。同じ佐藤の苗字を持つ二人の男女を主人公に置くあの小説は、均衡の取れた視点を往還することで、会社の不条理を背景にした希望のような「共鳴」の物語と成り得たのだった。そう考えると高瀬がこの小説で不均衡な視点を採用したのも理解できる。正しさとか、善とか、悪とか、社会的な規範が曖昧にぼやけている現在にあって、それによって高瀬は共鳴の成立しないディストピアを顕現させるのだ。  だから、物語は頭痛で早退した芦川がお詫びに手作りマフィンを振る舞うと、絶望度がグッと増す。周囲に持て囃された芦川は次第に、作ってくるスイーツの度合いをエスカレートさせていく。苛立ちを募らせる押尾は対して、ある「いじわる」をし始める。そして彼女たちの営みによって、やがて小説に破局が生まれる。  やはり僕は男性だからか、二谷の不気味さが気になる。作中では、もう一人名前を持つ男性に藤という社員が出てくる。芦川を愛でるそのあり方からしてオールドタイプの男性像だ。女性によるケアを当然のこととしてありがたがる藤に対して、二谷はケアさえも疎む。それでいて結婚願望だけはある。文学がほんとうは好きなのに、合理性を鑑みて経済学部に進学した二谷は、だが、文学に対する想いをほんのり残している。そこに僕は二谷の心のフラジャイルな部分を見てしまう。そして、共鳴が成り立たないこの世界で、二谷の脆弱さはそのまま孤独として表出してくる。ディスコミュニケーションに光をあてたからこそ浮かび上がる孤独。共感という救いを求めない、ひとりだけの弱さ。 「おいしい」というコミュニケーションのためのことばを見事に異化させた本作は、僕たちに二谷的な弱さを見つめることを迫る。理解ではない、シンパシーを抱くことではない。その凝視を通じて、じぶんたちの世界を眺めること。この傑作はそれを促すのだ。
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