大拙   安藤礼二
如来蔵の政治学−その可能性と危険性   評者:中島岳志

 鈴木大拙の仏教の本質は如来蔵思想である。如来蔵とは、森羅万象あらゆるものの内に仏陀になりうる可能性が存在しているとするもので、煩悩に覆われている衆生も如来を胎児として蔵していると考える。そこは宇宙の「子宮」。すべてが真理によって満たされる。  大拙が如来蔵思想を説くに至った経緯には、スウェーデンボルグの神秘神学や神智学からの影響、そしてヒンドゥー教の不二一元論からの影響があるという。それは有限と無限という二元論を打ち砕く一元論的な思想。人間的な「自我」(Self)が消滅し、真理が顕在化する。  安藤が注目するのは、大拙の若き日の11年にもわたるアメリカ滞在である。大拙はキリスト教神秘主義思想と深く交わり、「翻訳」を繰り返す。この行為が、豊饒な日本思想を生み出す源泉となった。安藤曰く、「世界が一つになった近代における真の創造性とは、異なった文化同士を一つにむすびあわせる﹁翻訳﹂にこそあるだろう」。 「仏教の﹁空﹂が神の﹁有﹂に転換し、神の﹁有﹂が仏教の﹁空﹂に転換してしまう地点」。如来蔵思想という仏教の異端と神秘主義思想というキリスト教の異端は、「翻訳」によって合流し、新しい展開を迎える。  しかし、このような大拙の仏教理解には、当初から厳しい批判が寄せられた。とにかく本来の仏教からかけ離れている。仏教はアートマンの否定が根本にあるにもかかわらず、如来蔵思想は「内在の極限に、超越する﹁一﹂を見出」す。これは仏陀が説いた仏教からの逸脱であり、仏教の中でも一部の「密教」というセクトの特殊な教義にすぎない。そう非難された。  しかし、安藤は大拙の仏教思想を全力で肯定する。「なぜならば、まず、如来蔵思想を否定することは、最澄と空海以降に展開された極東の仏教のほとんどすべてを否定してしまうことになるからだ」。  安藤が言うように、如来蔵思想は豊饒な思想を日本に生み出した。大拙だけでなく、西田幾多郎、柳宗悦、折口信夫、井筒俊彦といった日本思想の背骨を作った人たちは、如来蔵思想を中核に据えている。日本思想の可能性は、如来蔵思想抜きに語れない。  しかし、同時に如来蔵思想は問題をはらんでいる。国家との関係である。「一即多、多即一」。この世界観から、真理は国家として表現されるというイデオロギーが生み出される。そこに危険な国家論が姿を現す。  この問題は、戦争協力という具体性を伴って思想家たちに押し寄せた。大拙は直接的な協力に踏み込まなかった。むしろ『日本的霊性』という一冊の本を書くことによって、狂信的な日本主義に抵抗しようとした。『日本的霊性』の主張は、「極東の列島としてかたちを整えた﹁大地﹂の上に、アジアの諸地域から、さまざまな教えが流れ込み、人々のうちに普遍的な﹁霊性﹂を目覚めさせ、その﹁霊性﹂を﹁日本的﹂という固有の姿に育て上げていった」というものだ。日本仏教は常に「外」に開かれている。その思想の体系が、神道と「習合」することで、「はじめて普遍的かつ固有の﹁霊性﹂がこの列島に発露するに至った」。大地は、どこまでも世界に繫がっている。日本の神道的世界観だけに至上の価値を見出すわけにはいかない。  しかし、親友・西田幾多郎は違った。  西田の初期の代表作『善の研究』の中心概念である「純粋経験」は、ウィリアム・ジェームズが使い始めたもので大拙が西田に教えた概念だった。大拙の「即非の論理」は西田の「絶対矛盾的自己同一」と同根である。大拙と西田は、単なる旧友という関係性を超えて、思想的な盟友であった。  そんな西田は戦争協力の道に踏み出した。西田は、「無の場所」を体現するものこそが万世一系の「皇室」であると断言する。「皇室」を中心とする大日本帝国こそ新たな世界秩序を構成する牽引者と規定し、「大東亜共栄圏」に思想的な正統性を与えようとする。そこには日本によって「一」なる国家と「多」なる国家群の媒介となる「共栄圏」が可能になるという「悪夢のようなヴィジョン」が展開された。  そして、終戦間際の1945年6月、西田はこの世を去る。残された大拙は、その後、1966年まで生きることになるが、彼は世界戦争を引き起こした超国家主義を乗り越えつつ、如来蔵思想を展開しなければならなかった。  そこで大拙が抱きしめたのが、華厳の「事事無礙法界」である。現象界の一切の事象、事物が互いに関係しあい、一切妨げあわずに共存する。すべては無礙。そこに法界という真理が現れる。 「大拙にはじまり井筒でひとまずの完成を迎える近代日本思想史が、早急に書かれなければならないであろう」。そう安藤は言う。  その通りだ。  しかし、まだ「如来蔵の政治学」は確立されていない。人々が多元的差異を尊重しあいながら、一なる真理を共有する。バラバラでありながら、いっしょの世界。そんな価値観によってつながりあうことは可能なのだろうか。 「如来蔵の政治学」は、どうしても真理の一元的所有を主張する人間を産みだし、一元化の暴力を発動させる。豊饒な一元論を展開するには、相対レベルにおける多元性を徹底的に擁護しなければならない。  大拙が追い求めた一元論は、徹底した二元論の先に見出されるものである。私たちは真理から隔絶されながら、その内に真理を宿している。否定による肯定と、肯定による否定という無限の反復こそが、自己の能力への過信を戒めつつ、世界と繫がる契機をもたらす。  大拙は、一元論の政治的危険性を真に理解しながら、その思想の可能性を説き続けた仏教者である。安藤によって明らかにされた大拙の実像は、日本思想の可能性の中心を照らし出している。今後、この一冊に言及しなければ、日本思想の輪郭を語ることはできないだろう。
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猫のエルは   町田 康 絵・ヒグチユウコ
読み終えた人が見に行くものは   評者:井上荒野

 最初の一編「諧和会議」では、人語を喋れるようになった動物たちの世界が描かれる。人類は、どうやらしばらく前に絶滅したらしい。この日の議題は「猫君の暴虐に関しての対策案について」。議長の蛙に指名された馬が最初に発言するのだが、この演説がひどい。くどくどしくて何を言っているのかわからない。誰かの演説に似ているなと思いながら読む。漢字を間違えて読んだりする人だ。とすれば、これは寓話なのかもしれない。  人語を駆使して平和に暮らそうとする動物たちの中で、猫だけが発語しない。猫は言葉がわかっていないのか、それともわかっているのにあえて発せず、得手勝手をしているのか。それをたしかめるために猿、柴犬、ドーベルマンが猫の元に派遣されるが、ことごとく失敗する。途方にくれる動物たちの頭上、高い木の枝の上に、一匹の猫がいる。そして猫の口からは│。これは寓話である前に、言葉の話であるのかもしれない。  収録されている五編のすべてに、猫が登場する。著者自身が猫を飼い、飼い猫との日々を綴ったエッセイを何冊も上梓している。猫を愛する人に違いないが、猫への愛、というよりは猫への関心によって綴られた本というのが正しく思える。関心の中にはもちろん愛が含まれているとしても。著者は猫のことがとても不思議なのだと思う。不思議に思って、じっと眺めて、そうして生まれた五つの物語なのではないか。  私も猫を飼っていて、猫を愛する者であるから、ヒグチユウコが描く猫の絵はもちろん、本書にちりばめられた、猫の様子をあらわす、この著者ならではの表現に過剰反応せざるを得ない。子猫たちを子猫たちと書かず、ただ「フワフワ」と書くとか、そのフワフワが「人の腹を後ろ足でゲムゲムするなどしていた」とか。町田康の文章を読むと、おかしな話だけれど私はいつもファッション誌のことを考えてしまう。ファッション誌では流行のスタイルが提案され、それをいかにこなれた感じに着こなすか、その「外し」方がレクチャーされている。けれどもレクチャーされた時点でそれは直球になってしまうから、その通りに服を着てもちっとも格好良くないのだ(と私は思う)。町田康の言葉の選び方は、いつでも「外れ」ているのだが、どうして格好いいのだろう、それはその外し方が、圧倒的なボキャブラリーに支えられていて、それなのに即興で、そのうえ必然としか思えないからだろうか。そのようにして言葉が使われる文体で、猫のことが書かれているのだから、私にとっては、それこそ「人の腹を後ろ足でゲムゲム」したいような(つまり興奮して、その興奮を世界中に訴えたいような)心地の読書体験となってしまう。  とはいえ本書は、猫にさして関心がない人たちが読んでもいいはずだ。そういう人たちはどのように読むのだろう。ゲムゲムに反応はしないかもしれないが、考えるだろう。猫というよりは生きもののことを。そしてその生きものの中には、人間も含まれている。というか彼らは、人間のことを考えるだろう。私にしても、猫のことを考えているつもりで気がつくと人間のことを考えている。  あるひとつの意識が体を変えたり、立場を変えたりする物語が、本書には三つ含まれている。「猫とねずみのともぐらし」は、猫がねずみに、ねずみが猫になってしまう。「ココア」は、泥酔して意識を失った男(人間)が目を覚ますと、猫と人間の立場が逆転した世界になっている。「とりあえずこのままいこう」は、死んだ犬が天国のようなところへ行ったあと、子猫となって地上に戻され、元の飼い主に巡り会う。  それで、私はまず、うちの猫たちのことを考える。うちには十九歳の猫と十七歳の猫がいる。どうしてここにいるのだろう、とときどき思う。ベッドの上やダイニングの椅子の上に、ということではなくて、どうしてこの猫は私のそばにいるのだろう、という不思議さだ。もちろん猫が家に来たときの経緯ははっきりしている。十九歳のほうはまだ目が開いたばかりの子猫の頃、最初に住んだアパートの前で鳴いていたのを拾ったのだし、もう一匹はその少しあとに、友だちの子供が拾った子猫を譲り受けたのだ。どちらも偶然で、その偶然が、私と私の猫たちに起きたことが不思議になる。保護猫を引き取ったり、あるいは通りがかりのペットショップで目に留まった一匹を買い求めたという経緯であったとしても、きっと不思議になると思う。その一匹と自分が出会った不思議。そして次には自分のことを考える。自分はどうしてここにいるのだろうと。猫がここにいる不思議さと同じ道筋で考えて、やっぱり不思議になるのである。  表題作「猫のエルは」は詩で、こんなふうにはじまる。「私の家には猫はいない/猫はいないがエルがいる/エルは猫である/猫ではあるがそれ以前にエルである」私はこの詩を何度でも読んでしまう。あるいは「とりあえずこのままいこう」の中に、子猫に生まれ変わった犬の、こんな感慨がある。「もしかしたら俺は霊魂のままなのではないか。(中略)でもいいじゃないか。ドンドンパンパンドンパンパンで行こうじゃないか。霊魂だって猫だって。俺はかつて家の人が好きだった。大分忘れたけど好きだった。そしてこの後、それも忘れてしまうかも知れない。でもいいじゃないか。いまはまだ覚えているし、思い出すことができる。いまは一緒に居ることができている。それでいいではないか。だから俺は、とりあえずこのままいこう。」  最終的に私はこの考えに同意して、それからうちの猫を見に行く。どうしてもそうしたくなる。猫を飼っていない人はどうするだろう。好きな人の顔を見たいと思うかもしれない。一緒に暮らしている人がいるなら、その人を見に行くかもしれない。鏡で自分の顔を見る人もいるかもしれない。
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サーラレーオ   新庄耕
ブラック企業小説の旗手が描く最低最悪男   評者:石井千湖

 新庄耕といえばブラック企業。  すばる文学賞を受賞したデビュー作の『狭小邸宅』では、不動産屋の営業マンが長時間労働と上司のパワハラに自尊心を破壊されながら、異常な環境に適応していく。第二作『ニューカルマ』では、リストラの危機に直面した大手電機メーカー社員が、ネットワークビジネスの闇に引きずり込まれる。近作の『カトク 過重労働撲滅特別対策班』は、大企業の過重労働を特別捜査する東京労働局「カトク」班の話。いずれも仕事の描写にリアリティがあり、個人を圧しつぶす組織の恐ろしさが記憶に残る。最新作の『サーラレーオ』は、初めてどこにも所属していない男が主人公だ。  カセはタイのバンコクに住む日本人。ある日、彼のスマートフォンに地元が同じ横浜で十代のほとんどをつるんで遊んでいたマサからメッセージが届く。出張でバンコクに来ているので都合があえば食事でもどうかという誘いだった。懐かしい友に会いたい気持ちはあったのに、カセは〈いまの自分の境遇を思えば、それもはばかられる〉と断る。名門私立大学を出て世界的に知られる自動車メーカーに勤めるマサと、高校を中退して定職をもたず外国人に大麻を売って日銭を稼いでいる自分を比べてしまったからだ。その後出かけたクラブで小遣いをせしめるために声をかけた観光客が医大生と知ると〈すごいねと返しつつ、憮然とした眼をむけ〉る。大手企業の社員と医者の卵。劣等感を抱く対象がわかりやすい。  カセは粗暴で激昂しやすいけれど、妙に真面目な一面がある。商品として仕入れる大麻の質にはこだわるし、同棲する恋人のアナンヤが無断で彼の金を持ち出して弟にバイクを買い与えたことを知ると、こんなふうにぼやく。〈カセには、ときどきアナンヤの感覚についていけなくなることがある。金銭ひとつとっても、貯金の概念というものが欠落していて、ほしいものがあれば後先考えず借金をしてでも買ってしまう〉。犯罪者のくせに〈貯金の概念〉を気にするところがおもしろい。サーラレーオとはタイ語で「最低最悪の奴」という意味らしいが、悪党としては小粒に見える。そんなうだつのあがらない男の過去が徐々に明らかになっていく。  タイに逃げてくる前、カセは岩手の山奥で大麻を栽培していた。少年時代に入った鑑別所で同部屋だったアリが、大量の種を持っていたのだ。クリスマスツリーに似ているというバッズ(花芽)の形状、収穫してパック詰めするまでの工程が細かく語られる。できあがったガンジャ(乾燥大麻)をアリと一緒にボングと呼ばれる水パイプで吸うくだりの記述も詳しい。 〈カセはボングを受け取り、吸い口に口元を密着させた。空気穴をおさえ、ライターで火皿のガンジャに火をともしながら、吸い込む。こぽこぽと籠もった水音が立ち、ボングの中に紫煙が充満してくる。十分に煙がたまったところで、空気穴を離し、一気に肺奥へ送り込んだ〉〈カセはコップの水道水を口にふくんだ。ほのかな甘みが感じられ、水の粒子が味蕾の突起ひとつひとつをつつみこむようになぞり、喉元や食道の襞を軽快に駆け抜けていく様がありありと実感できる。この世のものとは思えず、水を飲む手が止まらなかった〉。読んでいるといっぱしの大麻通になった気分が味わえるくらい説明が巧みだ。  トリップしたカセは、いつのまにか裸になっていたアリに下着を脱がされる。男同士の絡みは生々しい。ふたりで育てた高品質の大麻を楽しみ、ときどき知り合いに売る、刹那的で気安い生活。世界を放浪するヒッピーのアリはそれで満足していたが、カセは一攫千金を目論む。〈これまで自分をコケにしてきたやつらを見返さなければならなかった〉から。カセは特別少年院時代の先輩・ジンを介して大麻を売りさばき、七千万円近い大金を手に入れるのだが……。  もともとカセは、医者である父親の後継者として期待をかけられることが嫌で非行に走ったというクラシックな不良少年だ。お坊ちゃん育ちならではの脇の甘さがあるのか、裏社会で手広く商売を営むジンにいいように利用され、仲間のアリや彼が連れてきたジャンキーの女もコントロールできず、結局はすべてを失う。取り柄は逃げ足の速さくらいしかない。やっぱり悪事には向いてないのでは、と思う。  しかし、カセはバンコクへ逃亡してからも危険な道を走り続ける。努力して成功したまっとうな人を羨みつつ、ありのままの自分でほしいものをつかもうとする。おそらくは、自由であるために。どうしようもないダメ男だが、そのあきらめの悪さが憎めない。  なんといっても印象深いのは、金を借りるために会ったマサにバンコクの街を案内するくだりだ。三島由紀夫の『暁の寺』の舞台になったワットアルンの夕焼け、ゴールデンシャワーという黄色い花が枝葉を広げるオープンカフェなど、活気に満ちていながら、どこか現実離れした都市の風景が美しい。息をのむほどの絶景が三百六十度をとりかこみ、空に浮かんでいるみたいに感じるというルーフトップバーは行ってみたくなる。  終盤、アナンヤの通報によって、追われる身になったカセは、どこともしれない闇の中へ走り去っていく。居場所をなくして日本からタイへ流れ着いた男が、自ら退路を断って、さらに深いどん底に転落する。爽快とはいえない物語だが、不思議と解放感がある。新庄耕はブラック企業小説だけではない。一定の評価を得たジャンルから逸脱して、新たな境地を切り拓いた一冊だ。
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静かに、ねぇ、静かに

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今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇

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蹴爪(ボラン)

評者:陣野俊史

大江健三郎 柄谷行人 全対話 世界と日本と日本人

評者:いとうせいこう

孤独の発明 または言語の政治学

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地球にちりばめられて

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独り舞

評者:岩川ありさ

伴走者

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雪子さんの足音

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夜更けの川に落葉は流れて

評者:伊藤雄和(オールディックフォギー)

九十八歳になった私

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いのち

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