地球にちりばめられて   多和田葉子
なかまと一緒にさあ出発。母語の向こうへ大冒険!   評者:中島京子

 この小説を読んで、『水滸伝』や『ワンピース』を連想するのは見当違いだろうか。 「エクソフォニー」の作家、多和田葉子の新作は、もちろん言語をめぐる小説であり、「母語の外へ出る旅」そのものなのだが、キャラクターのはっきりした登場人物たちが、次々に仲間となり、あちらへこちらへと旅を進めるさまは冒険小説に似て、つい、愉快な大冒険、というフレーズを頭に浮かべる。  とはいえ、冒険の背景はそう愉快な話でもない。主要登場人物の一人であるHirukoは、「一年の予定でヨーロッパに留学し、あと二ヵ月で帰国という時に、自分の国が消えてしまって」故郷を喪失した女性だ。現在はデンマークで、子どもたちに物語を聞かせる仕事をしている。「中国大陸とポリネシアの間に浮かぶ列島」である彼女の祖国は、どうやら私たちが日本と呼ぶ国のことらしい。  日本が消えてしまう、という設定は穏やかではないが、絶対にありえないとも思えない。アメリカ留学中に天安門事件に遭遇して帰国をあきらめたハ・ジンや、たまたまシカゴに滞在していたときにボスニア内戦が始まって帰れなくなったサラエヴォ出身のアレクサンダル・ヘモンといった作家を思い浮かべる。ただし、Hirukoの国が消えた理由は内戦や紛争ではないらしい。彼女は、「自分の田舎を田舎でなくすことに人生を賭け」たとんでもない男が、「自分の生まれた土地を首都圏の一部にしようとして」ブルドーザーで山脈を削ってしまい、平たくなった島が温暖化の影響で沈んだという仮説を立てている。彼女の悲劇は、自分の母語を話す人がまったくいない状態にあることで、旅の目的は、母語を話す別の人間を探すことだ。  彼女の話に反応して、最初の仲間になるのはクヌートという言語学専攻の大学院生。彼はデンマーク人だが、それこそ母語の外へ出る旅に出たくてたまらず、そしてHiruko本人にも生物として強く惹きつけられて、同行を申し出る。彼の泣き所は、なんでもいっしょにやりたがる過保護な母親である。ともあれ、クヌートはHirukoといっしょに、デンマークからドイツへ飛ぶ。そこで開かれる「ウマミ・フェスティバル」に、Hirukoと母語を同じくすると思われるテンゾという人物が出るからだ。  次なる仲間はインド人のアカッシュで、ドイツに留学中。インド西部マハーラーシュトラ州の公用語、マラーティー語が母語である。彼は現在、言語のみならず性の移動を進行中の人物で、女性として生きようと決めてからは赤系のサリーを着ることにしている。アカッシュはドイツのトリアに現れたクヌートに一目ぼれして仲間に加わる。  トリアで「ウマミ・フェスティバル」開催をもくろんだのは、ドイツ人女性のノラ。彼女は恋人である料理人テンゾのために、それを企画したのだが、肝心のテンゾが滞在先のノルウェーで足止めを食い、フェスティバルは中止。ノラと旅の仲間は、テンゾを探すという共通目的を持ち、ノルウェーへ。  そして、テンゾ、さらにSusanooへと、Hirukoの母語話者を探す旅は続く。いったい、Hirukoは自分以外の誰かと母語で語り合うことができるのか。そのときに「母語」なるものは、何に拠って立つ、いかなるものに変化しているのだろうか。乞うご期待。  Hirukoという女性は、スカンジナビアで暮らすことを半ば強いられるようにして選択したときに、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンでならだいたい通用するという、独自の言語を編み出した。汎スカンジナビア語というような意味で、それを「パンスカ」と名づけている(日本語話者としては、パンティやスカートを連想する略語ではあるが)。「昔の移民は、一つの国を目ざして来て、その国に死ぬまで留まることが多かったので、そこで話されている言葉を覚えればよかった。しかし、わたしたちはいつまでも移動し続ける。だから、通り過ぎる風景がすべて混ざり合った風のような言葉を話す」のである。「パンスカ」は、国や民族に属さない。Hirukoにしか属さない。個人のレベルに最小化した言語でありながら、コミュニケーション手段として機能する、「いつまでも移動し続ける」者の言葉なのである。  言葉は、国や民族や地域共同体のシンボルとして作用するときには、抑圧的な存在になる。好むと好まざるとにかかわらず、母語だけが支配する空間から出てしまった者たちが、いつのまにか仲間になって旅を繰り広げる物語には、どこか突き抜けた明るさと清々しさが伴うのだが、それは「通り過ぎる風景がすべて混ざり合った風」が吹くような感覚なのかもしれない。仲間をつなぐ言葉は英語だったりドイツ語だったりパンスカだったりいろいろだ。  言語学専攻のクヌートの母親というのが、抑圧的な母語のメタファーとして登場する。自分の息子と、学費と生活費を援助している旧植民地出身の青年という二人の若者の「母親」として、子離れできずにくっついて回って自分の価値観を押しつけてしまう生身のお母さんの描写が笑いを誘う。  もう一つ、料理というのが言語と相通じるものとして扱われているのも特徴的だ。アカッシュが故郷の名前のついた、インド料理としての「ピザ」を食べさせられるシーンや、テンゾがその見た目で「鮨職人」への道を選択せざるを得なくなっていくエピソードにも、哀愁の漂うおかしみがある。  Hirukoの「パンスカ」では「恋人」は「並んで歩く人たち」なのだそうだ。古い言葉である「恋人」にぴったり対応する訳語ではない。言葉は翻訳されるときに新しいコンセプトをも獲得する。「並んで歩く人たち」の次なる冒険に、心躍らされる言語小説だった。
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独り舞   李 琴峰
自分と対話すること   評者:岩川ありさ

 群像新人文学賞の選評で、選考委員の多和田葉子は、「この小説の魅力は文字にある」と指摘し、「日本語における漢字とかなの関係が固定したものでないことを示」す文学の系譜に位置づけた。本作において、「彼女」という三人称代名詞で呼ばれる台湾出身の主人公の台詞には、要所要所で、漢文の隣りに書き下し文が付されている。例えば、「人生不相見、動如参与商」という杜甫のよく知られた詩「贈衛八処士」について話すとき、「彼女」の台詞には、「人生不相見、動如参与商」とルビがふってあり、日本語の書き下し文が付してある。つまり、本作の書き手は、漢文を中国語として理解するだけではなく、日本語の訓読方法によって翻訳して書いてもいるのだ。書き手がここで行っているのは訓読的な翻訳だ。漢字という共通の文字があることで、原文は姿を消さない。多和田は、「﹁死なない﹂というフィクシ ョン」をつくる小説としても本作を捉えているが、かつて書いた言葉を異なる文脈に置くことで、新しい意味を獲得してゆく訓読的な翻訳の過程は、死を強く意識してきた「彼女」を生へと連れ出す仕掛けの一つとなっている。  台湾の彰化県で生まれ、「迎梅」と名づけられた「彼女」は、子どもの頃から、周囲との「乖離」を感じており、「お姫様と王子様が結ばれる童話」ではなく、「オズの魔法使い」に登場する美しい北の魔女への憧れを抱いている。小学生の頃、同じクラスになった施丹辰に惹かれたことで、「彼女」の違和感は確信に変わる。「彼女」が「乖離」として感じてきたのは、異性愛が中心とされる社会の内側にいながらも、いつも疎外されている感覚だ。丹辰は不慮の事故で亡くなり、「彼女」は深く沈み込む。しかし、周囲にいる人々は丹辰の死が原因だと思いもしない。「彼女」は、愛する人を失くしたと言葉にすることもできず、傷は疼き続ける。小学校の卒業アルバムをめくっていると、自分が撮影した丹辰の写真が現れる。「彼女」はとめどない涙を流し、丹辰に詩を捧げる。   於是有天我會想起,想起那‥    在開始前便已結束的故事   そしていつか私は思い出す│    始まる前に終わってしまった物語を  このようにはじまった詩は、死した丹辰の姿形を捉える。オルガンでモーツァルトの「レクイエム」を弾いていた丹辰の姿を重ねて、「彼女」は、あまりにも早く死んでしまった丹辰が残した「鎮魂の旋律」に耳を澄ます。いつのまにか部屋には日暮れが訪れている。窓から射し込んだ夕陽を遮って、自分の影が目の前に伸びる。それは、「漆黒の影」であり、丹辰の瞳や髪と同じ色の黒だ。このとき、「彼女」は、「生きていくためにはこの色を見つめていなければならないのだ」と知る。「彼女」が本作の最後にたどり着く、「微かな光も見えない真夜中の舞台で、真っ黒な服を着た一人のダンサーが、物音一つ立てずに舞ってい」る美しいイメージはここから生まれたのではないだろうか。真っ暗闇で舞いながら、死に足もとを攫われないでいるためには舞い続けるよりほかない。  台中市にある名門女子校に進学した「彼女」は、「小雪」という愛称で呼ぶことになる恋人の楊皓雪と出会う。詩の朗読をしたり、小説を書いて見せあったり、彼女たちは文学を通じて、互いの内面を知ってゆく。彼女たちに影響を与えた邱妙津の小説『ある鰐の手記』(一九九四)の主人公「拉子」は、同性の水伶への愛に苦しみ、「女を愛する自分という自意識」を消し去ろうとする。同性への愛に苦悩する「拉子の時代」は二一世紀になって終わりを告げたように見える。彼女たちは、邱の出身大学である台湾大学へ共に進み、「悲劇で終わらない『鰐の手記』を、一緒に書こう」と話しあう。しかし、その直後、強姦の常習犯の男から、「彼女」はレイプされる。小雪とも別れ、周囲の人々との軋轢も広がり、台湾大学での四年間は、「彼女」にとって苦しい時間になる。「彼女」は、中国語では「紀恵」、日本語では「紀恵」と読める「趙紀恵」と名前を変える届けを役所に出してから、日本に渡る。新しい人生を歩みだした「彼女」は、大学院を修了し、就職するが、「自分の過去」を打ち明け、一緒にいたいと願う高田薫から、これまでのことを話さなかったことは欺瞞だと拒絶される。また、高校時代の同級生の逆恨みによって、レズビアンであることも、レイプされたことも、SNSでアウティングされてしまう。死ぬことを決意し、最後の旅に赴いた「彼女」は、多様な人々が隊列に加わっている、世界最大規模のシドニーのパレードの様子を見て、幼い頃から感じていた「乖離」から解き放たれる世界を垣間見る。死へと歩んでいた「彼女」は、どのような答えを出すのか。単行本になる過程での加筆は「彼女」の「独り舞」の意味を際立たせる。  そこには観客もいなければ、パートナーもいない。ダンサーはただ踊っていた。腕で弧を描いたり、片足を軸に回転したり、跳躍して宙返りしたり。いつまで舞い続けるかは分からない。(本書一八一頁)  この場面から、ハンナ・アーレントが指摘した「孤独(solitude)」と「寂しさ(loneliness)」の違いを思い浮かべるのはそれほど無理がないだろう。孤独であるとき、人は自分自身と共にあり、自分自身と語りあっている。「彼女」が、暗闇の中で、「独り舞」を踊り続けるのは、自分自身と対話するためだ。つながりすぎる時代において、本作が示した孤独は大きな問いを投げかける。
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伴走者   浅生 鴨
寄り添うのではなく   評者:瀧井朝世

 家族でもなく、友人でもなく、恋人でもない、でも絶対的な信頼関係で結ばれている。そんな関係に憧れを感じ深く感銘を受けるのは、それが非常に得難く、短期間で築けるものではないと分かっているからかもしれない。浅生鴨『伴走者』は、人と人との奇跡的な繫がりを極上のスポーツ小説という形で届けてくれている。 「あ、そうかも」という言葉を連想させるペンネームを持つ著者は、NHK職員時代に広報局のツイッターで絶大な人気を誇った元「中の人」。現在は退社してテレビ番組や広告に携わる一方、作家としても活動をしている。NHK在籍時からパラリンピックの番組制作に携わっていた彼が新作小説の舞台に選んだのが、ブラインドスポーツの世界である。前半は「夏・マラソン編」、後半は「冬・スキー編」から成る二部構成だ。 「夏・マラソン編」。システムエンジニアの淡島祐一は、過去に実業団にも所属していたマラソンランナーだ。データ分析に基づいた走りは正確だが、大きな実績を残せない彼は、三十代半ばの今も個人で様々なレースに参加している。そんな淡島に、盲人ランナー、内田健二の伴走者にならないかと声がかかる。内田は元サッカー選手。バイク事故で視力を失い、荒れた時期もあったが今再び、マラソンで世界を目指している。一般の市民ランナーの伴走ではついていけないほどレベルが高いため、淡島に声がかかったというわけだ。しかしこの内田、ふてぶてしい上にえげつない。勝つためなら、ライバル選手を動揺させる言動もいとわないタイプの男だ。  本作の表紙にもあるのが、ランナーと伴走者を繫ぐロープだ。かなり至近距離で走るのだと分かる。伴走者は路面の状態や道の起伏について声で知らせつつ、前を走るランナーを追い抜くタイミングなども考慮して、ペースをコントロールする。視覚障害者が安心してレースに打ち込むためには、こうした信頼できるガイドの存在が必要不可欠だ。  彼らが目指すのはパラリンピックの出場権獲得。連盟が出した条件が、国際大会での優勝だったため、二人は南の小さな島国でのマラソン大会にエントリーする。この大会での息詰まる攻防の様子と、彼ら二人の出会いから現在に至るまでの過去が、交互に語られていく。横柄な内田に対する反発、盲人ロードレースの世界に対する驚きや気づき、衝突、葛藤、そして……。 「冬・スキー編」の主人公は、東北の中堅乳業メーカーに勤務する三十代半ばの立川涼介。会社のアルペンスキー部が広報活動の一環としてパラスキー大会に選手を出場させて入賞を目指すこととなり、涼介に視覚障害クラスの伴走者のオファーがくる。実は彼は学生時代トップレーサーであったが、頂点にいるうちに引退することを潔しとし、大学三年であっさりと身を引いたのだ。彼もまた、勝たなければ意味がないと考えるタイプの人間だ。  涼介がまず驚いたのは、部が選手として有望視しているのが、まだ高校生の少女、鈴木晴であったことだ。フォームもまだまだ自己流だが驚きのスピードを出して滑る彼女を見て、涼介の心にかつて勝者だった頃の快感が甦る。彼女がいれば、もう一度スキーの世界で勝てるかもしれないという思いから、彼は伴走を引き受ける。愛想のない涼介にも屈託なく明るく接する晴だが、問題なのは、大の練習嫌いである点。  視覚障害者のスキーレースでは、伴走者はスピーカーをつけて選手の前を滑り、ターンのタイミングなどを声で伝えていく。相当な時速で滑走するなかで、瞬時に適切な指示を出すとは、ド素人の自分からすれば想像できないテクニックだ。涼介も最初は失敗続きである。まず彼が苦労するのは、晴との信頼関係の構築だ。実力主義者の彼は人の感情の機微を読み取るのが下手な模様。彼なりに気を遣ったのか、晴の荷物を持とうとして彼女に「私は目が悪いだけ。手も足も悪くないんです。荷物は自分で持てます」「できないことだけ助けてください」と言われることも。ただ、それより晴を傷つけたのは、涼介や周囲が繰り返す「お前のためにやっている」といった言葉だ。大会が近づいた頃、彼らの間には決定的な亀裂が入ってしまう。  勝つためならなんだってする内田、勝利より記録を重視する淡島、本当は自分が勝利に酔いたいのに「相手のためにやってやる」という態度を崩さなから思いが食い違っている彼らが、どうやって関係を前進させていくか。  互いがぶつかり合い理解を深めていく人間ドラマ、選手と伴走者の双方がトレーニングで技量を磨いていく過程、そして二人で挑む競技そのものの面白さでぐいぐいと読ませる。当たり前のことだが、選手たちを障害があっても挫けず挑戦する聖人君子として、伴走者たちを献身的に尽くす人格者として描いていないところが魅力だ。個性ある、人間くさい彼らがぶつかり合うからこそ、そこに生まれるなまなましい感情の矢が心に刺さる。  これは、余所で生きてきた人間が障害者の世界を理解し、パートナーとして寄り添い支えていく話ではない。選手と伴走する者が対等に向き合い、互いが相手の伴走者となっていく話だ。そうなってようやく、これほどまでの信頼関係は生まれる。  どちらも二〇二〇年の東京オリンピックが終わった後が舞台となっている。作中にはこんな一文がある。〈二〇二〇年に東京でパラリンピックが開催された時には多少の注目を集めたものの、大会が終わってしまえば再び無関心が障害者スポーツを覆った。〉本作は決してタイムリーな話題に乗っかるためだけに書かれたものでなく、その先へと思いがこめられていることが伝わってくる。い涼介、それに反発し、勝負にはこだわりを見せない晴。最初
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雪子さんの足音

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夜更けの川に落葉は流れて

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九十八歳になった私

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