LAフード・ダイアリー   三浦哲哉
コカ・コーラ従業員の子に生まれ   評者:廣瀬 純

著者の出世作は『サスペンス映画史』(みすず書房)だった。同書は、世間で既に「サスペンス映画」として認知された作品群を論じたものではなく、「サスペンス(宙吊り)」に「不自由の体験」を見出した上で、「不自由の体験」の組織化という観点から映画史全体を書き直す試みだった。その際、著者はまた、脱線を許されず、敷かれたレール上をひたすら進む他ないという「不自由の体験」が、書物にも当てはまるだろうことを仄めかしてもいた。 「自分の身体を実験台にして」書いたとされる本書で、著者自身である「私」の周囲に幾つもの「不自由の体験」が積極的に組織されることになるのは、したがって、必然だ。序盤では、「LA(ロサンゼルス)」での「生活」全般において「いろいろと日本の習慣が通じないことを痛感させられ」る様子が描かれる。「おいしいもの探し」が開始される中盤では、ジョナサン・ゴールドの著作など、様々な「食べたくなる本」(著者の「料理本批評」書〔みすず書房〕のタイトル)に導かれるかたちで「料理屋を巡礼する日々」が語られる。「私」の勤務する大学の「在外長期研究休暇制度」を利用したLA滞在が終わって「帰国」する終盤では、「日本の日常のあらゆるディテイルに、違和感と驚きとを覚えた」ことが綴られる。この最後の点は、著者の「サスペンス」論に従えば、「不自由の体験」それ自体ではなく、その効果として理解することも可能だ。「不自由の体験」を強いる「スペース」での滞在は、「日常」そのものに対する知覚も根底的に変容させてしまうというのが、三浦の議論だった。  しかし、「私」及びそれに連座させられる我々読者に「不自由の体験」を本書全体を通じて突きつけ続ける最たる装置は、やはり、「私たち家族」なる主体の存在だろう。「まえがき」では、本書で語られるのは、「二〇一九年四月から二〇二〇年三月までの一年間」の「LA」での「生活」、とりわけ「食経験」を通して「私たち家族」が「別人になる」あるいは「生まれ変わる」物語だと予告される。そして、LA到着から始まる第一章では、その「私たち家族」は「私」、「妻」、「五歳になったばかりの娘・春香」、「二歳半になる息子・秋良」から成ることが示される。本書の主人公は「私たち家族」であることが宣言されるわけだ。しかし、そうであるにもかかわらず、著者の筆は、章が進むにつれて、「私」が「体験して考えた」ことへと集中してゆき、「妻」も「春香」も「秋良」も行外に弾き出されていってしまう。こうして、本書では、主人公であるはずの存在について何も知ることができないという「不自由の体験」が組織される。「私」が「USC(南カリフォルニア大学)」で「映画と牛の関係について」の講演をしている間、「私たち家族」の他の構成員はどう過ごし、何を食べていたのか。講演に専念する「私」にも、その再録全文を読まされる我々にも、まったくわからない。  だからこそ、本書終盤での彼らの再登場はサプライズを伴うものとなる。LA滞在の「最後の数週間」を描く頁では、「テレビのNBAチャンネルをつけてレイカーズ戦かクリッパーズ戦を観賞しつつ、近所の行きつけの良心的なメキシコ食堂〔…〕からテイクアウトしてきたカルニータス・タコ〔…〕とビールを満喫」することが、「妻」にとって、「気兼ねなくリラックスする」と呼び得る行為の一つになっていたことが明かされる。いつどのように彼女は「大のレイカーズ・ファンになっ」たのか、カルニータス・タコと出会ったのか、NBAテレビ観戦とタコとビールとを組み合わせるに至ったのか。本書を織り成す文字の外で、「妻」は「別人になる」過程を独自に辿っていたのであり、その結果だけがこうして文字内に突如として与えられるのだ。 「春香」についても同じだ。第一章冒頭では、「成田から北京経由で十数時間のフライトを終えて」LAに到着した夜に「春香」が「空港内にあるセブン−イレブンの菓子パン」を口にした際の様子が次のように説明される。「春香は、菓子パンを一口かじるなり、まずい、と言ってそれ以上食べようとしない」。これに対して、最終章では、「栄養」や「食育」の観点から「望ましい食品」を彼女に食べさせようとした際の彼女の反応が次のように描写される。「すこしでも異物感があると、とたんに警戒心で身をこわばらせ、「ヤック!(おえー)」と言って、吐き出す。/ケチャップはそこで娘にとって頼みの綱というか、わけのわからない食べ物の異物感を中和し、喉を通るようにしてくれる何かであるようだった」。「まずい」から「ヤック!」へ。「それ以上食べようとしな」かったことから、「ケチャップ」によって「異物感を中和」させることへ。「春香」もまた「別人にな」っている。「私」について書き連ねられる文字列に我々の目が縛り付けられていたその最中に、「私」と我々の視界の外で、彼女もまた、独自に「LA」を生き、いつの間にか「生まれ変わ」っていたのだ。  最も謎めいた存在は「秋良」だ。「セブン−イレブンの菓子パン」の件には、彼もそれを拒んだとの記述があるが、それ以後、彼については、「別人になる」過程はおろか、その結果すら語られない。しかし、「LA」の「魔法のような」「力」によって自己を「再発明」したのはあくまでも「私たち家族」だとされる以上、「秋良」もまた、その「身体」に何らかの新たな「襞」を「折り畳」んだに違いない。成長した彼が何かを「おいしい」と感じたとき、そこで「輝き出」しているのは彼自身の「LAフード」かもしれない。文字の外で、しかし、彼もまた、確かに「LA」を生きた。だからこそ、本書は「春香」と「秋良」に宛てられた次の一文で締め括られるのだ。「やがてこの本を読み、君たちがどんな場所にいたかを知る日が来たらとてもうれしい」。
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旅する練習   乗代雄介
書くという自然   評者:金子由里奈

書評依頼が来たときもう飛びつくように「書きます!」って言ってしまったが、ずっと書けないでいる。書いては消してのわだちだけが残り、道路がぐちゃぐちゃ。二つ返事をしたのは乗代雄介の書く小説が、言葉がとても好きだったし、書き続けることが当然であるかのようなその態度に何度も勇気をもらったし、『旅する練習』は完全に傑作だったから。完全に傑作だったんだけど、読みながら私はかなり混乱した。書くように読んでしまって。揺れる心を律することなんてできなくて、忍耐が破裂するようにわんわん泣いたし、ちゃんと傷ついた。この体験とどう距離を取ればいいのかずっとわからないでいる。わからないなりに、でも、この小説に出会う人がひとりでも増えてほしい。そういう発願から不器用に手を動かしてみようと思う。  サッカーの大好きな小学六年生・亜美が、叔父である小説家の「私」に頼み事をする。鹿島の合宿所に置いてあった本があまりに面白く持って帰ってきてしまったから、それを返すのに同行してほしいと。「私」は、亜美の卒業式が終わったら、鹿島アントラーズのホームゲームを見に行くついでに本を返しに行くという計画を立てる。しかし、ふたりの、社会の状況が一変する。二〇二〇年あの三月。新型コロナウィルスの感染拡大で、卒業式も入学式もクラブもなくなり、旅の計画も立ち消えてしまう。どこにも行けないのに、中学からの宿題だけが増えていく。問題集に、日記帳。やな宿題はぜーんぶゴミ箱に捨てちゃいたい退屈な亜美に「私」は鹿島の合宿所まで歩いて行こうと提案をする。「行く!」と無邪気に喜ぶ亜美に条件を加える。「私」が風景描写の練習をしているとき、隣でリフティングの練習をしながら大人しく待つというものだ。そうして、「歩く、書く、蹴る」練習の旅が始まる。  旅で「私」が見た風景描写は、細かな筆で書き込まれ、見ることと書くことが一致しているかのよう。想像力の出番なし。まるで書くように読んで、彼の視線をまるごとメガネのようにかけられる。そして、「私」にとっては文学の旅でもあり、先々で瀧井孝作や柳田國男、小島信夫、その場所の文学の気配に耳をそばだてる。亜美はリフティングの前に、お不動さんで知った真言を意味も分からないまま、大好きな『おジャ魔女どれみ』の呪文みたいに唱えるようになる。やがて、偶然出会った大学四年生のみどりも旅に加わり、豊かな旅は続いていく。  この小説は、旅から三ヵ月後の「私」が旅を振り返りノートを片手に書いたものらしい。旅の途中で彼が書いた写生文や亜美の日記も現在の時制の彼が書き写しているようだ。写生文には日付と時間、亜美のリフティングの回数が記録されている。例えば、三月九日 11:40~12:12 84というように。32分のリニアな時間を84回のリフティングが刻んでいる。サッカーボールに空気が入っているように、この文字には、そういう時間が内包されている。  みどりが姿を消してしまった次の日、亜美がみどりの手に書いた真言を手がかりにみどりがどこへ行ったのかを探る場面がある。「心を込めて書いたんだろ」「書いたことはなくならない」「私」の書くことへの信仰がみえる台詞だ。心を込めて書いた右手が亜美より先にそれを思い出す。そうか。「私」は書くことで場所に散逸した亜美の記憶を手が真っ黒になるまでかき集めているんだ。ノートも文字で真っ黒になって、真っ黒だけどそれは光源で、亜美の影を照らす。私たち読者が、その姿を形取るために。見知らぬだれかの視線は、慰めであり祈りだから。過去で吸った息が、誰かの視線で声になるために。だから書く。だから、他者に視線を向けるんだ。思い出されることは命そのものなんだ。  しかし、どこまで行っても言葉は不完全だ。だからこそ偽りのない真言があり、「魔法の呪文」がある。意味がわからないまま唱えたっていい。もしかしたらこれは写経で、我々は読経をしているのかもという気にすらなってくる。だから、この小説は映画化できない。「私」が手を動かし書いた時間、たった二四〇枚でもその地層のように深い時間と、それを掘り起こし続ける「私」の忍耐との対話は、書物という対話形式の中でしか成立しないだろう。 「どうやったらサッカーをするために生まれた人間になれる?」旅でたびたび見かけたカワウの生き方に感嘆し、亜美は「私」に尋ねる。人間はサッカーをしなくても、書かなくても死なない。それはカワウのように、魚を獲るための身体を獲得していないから。書く練習を続ければ、書くことが習慣化された身体を獲得すれば、カワウのようになれるのかもしれない。書くことが手段でなく、それが絶対的な方途であり自然であるような生き方ができるのかもしれない。著者自身も二〇年間「ブログ更新のため」に生きてきた。「僕にとってブログは、書いたものをたくさん置いておけて気に入らない文があればいつでも直せる自分のための練習の場で、それ以外の意味はあまりなかったように思います」(「週刊はてなブログ」)。著者が、カワウのように目が良くて、デッサン力も凄まじいのは、二〇年以上練習してきたからなんだ。私も、どっきりどっきりDON DON!! 不思議なチカラが使えるようになりたい! 私の好きなことは「映画」だ。映画館だ。ひとりひとりが自分のセコムを外し巨大なひとりになって映画に衝突するあの空間がだいすき。あれに、生きることを合わせてみたい。誰にも頼まれずとも映画を撮り始めた自分は、鳥が誰にも頼まれずとも飛ぶように、自然で、きれいだったと思う。練習しなくちゃ。映画を作ることを、映画館で映画を観ることを私が生きたことそれ自体にするために。本を読み終えたいまなら、水面をつよく蹴って、自分の内側へ思いっきり飛べそう。前より、自分の声が鮮明に聞こえる。そういう気持ちになれたから、『旅する練習』を「好きなこと」がなにかひとつでもある人に、絶対読んでほしいです。
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それを小説と呼ぶ   佐々木 敦
全体主義を逃れる「全体性」について   評者:古谷利裕

最初にいきなり結論が提示される。最初の段落がまるっとそのまま結論であり、それはその後変化することはない。分かる人にはこれだけで分かるだろうから、ここで完結しているとも言える。しかし本書はそこからはじまる。では、結論からはじまったその後に、何がなされるのか。おそらくふたつある。ひとつは、提示された結論=ヴィジョンが、それと親しい位置にあると同時に微妙に違ってもいると思われる、様々な思想や作品と突き合わされて検討され、その検討の後でも、ヴィジョンにそれ自身として立っていられる固有の強さが保たれるのかが検証される。第一章から第四章までがそれに当たるだろう。この検証は、第四章において(セザンヌ、山下澄人の作品の検討と共に)確信と言える手応えにたどり着く。  もうひとつ、第五章では、その結論の先が検討される。先、と言っても、結論が部分的に見直されたり改良されたりするのではない。とにかくひとつの結論を得た。それで、その後に何をするのか? ということについて書かれる。その結論はいかにして実践されるのか。いかにすれば実践し得るのか。ここでは書くことが向かう行き先が前の章とは変わっている。 「全体論と有限」という連載時のタイトルが如実に示すとおり、本書を貫く主題は「全体」という概念をどのように捉えるのかというところにある。「全体」について考えるためには「世界」や「実在」について考えざるを得ない。故に本書は、全体、世界、実在等を主題とする(哲学の王道に割って入るような)仰々しい構えをもつことになる。とはいえ、本書のモチーフはあくまで冒頭に置かれた「全体性」のあり方にかんするひとつの直観的なイメージの検証であり、それは哲学由来のものではないだろう。本書のモチーフを私なりに強引に要約するならば、「全体主義から逃れてあり得る全体性について考える」ということになろう。  世界の数はひとつなのか、複数なのか、それとも「世界は存在しない」のか。「全体」を考える以上、それを問題にせざるを得ないように思われる。しかし「世界の数を数える」という発想自体に既に全体主義が紛れ込んでいるとしたら「世界を数えない」という態度もあり得るという見解に至る(私の認識ではマルクス・ガブリエルが言うのはまさにこのことだと思うのだが)。 「世界」にかんする思考は、主題を「神」へシフトして引き継がれる。主に、筒井康隆と入不二基義を対象として、可能世界論下における唯一神の(証明の)不可能性と、神のようにある絶対現実の唯一性とを対比的に説いた第三章は、最も高揚して読んだ。ここには注目すべきふたつの転換がある。『モナドの領域』(筒井康隆)について、青山拓央による「目的なき真理性(世界は、そうであるから、そうである)」を擬人化したものとして「神」があるという解釈に同意しながらも、神の擬人化には、それだけではなくベタに「小説」であることによる「作者」の存在の次元があるとする。神といっても小説内では他と同じ登場人物の一人であるが、その神が《(諸世界の)すべてはわしが創ったんだ》と世界への「愛」を口にする時、そこに一瞬、作品の外にある(諸作品を創ってきた)作者=筒井康隆の存在が「神」に投影される。故に(作者が神の隠喩なのではなく)神は作者の隠喩でもある、と。また、「否定(排中律)の無限後退の向こう側として直覚するしかない、決して顕在化しない無様相の全一性」として「現実(実在)」を捉えるという意味で、否定神学的全体主義の徹底とも思われる入不二の絶対現実=神について、肯定的な驚きと共に記述した後に、しかし《そのことが堪え難い》ところにこそ、小説に「人の姿をした神」が登場する必然性がある、とする。ある意味、高度にロジカルな存在論をベタな次元に引き落とすかのようなこのふたつの転換が、「小説(実践)の準備」へ向かう本書の重要な分水嶺となっているように思われる。  第四章では宇宙のホログラフィック原理が紹介された後、『モレルの発明』(ビオイ=カサーレス)について語られる。すべては既に記録されたものの再生だとしても(ベルクソン的な「新しさ」が無であったとしても)、それと実在とで何が違うというのか、と。ただし、「モレル…」はホログラフィック原理の等価物として充分ではないだろう。「モレル…」で再生されるのはモノとその動きであって、時空そのものではない。均質で絶対的な時間と空間が先にあり、それをスクリーンとしてモノと動きが映写される。絶対的な時空を前提(基底)としている点で「モレル…」はニュートン物理学の範疇にある。だが、モノ(図)を存在させる器(地)である時間・空間はそれ自体として絶対的でも透明(中立的)でもない。  モノ(実在・図)についての考え方を変えるためには、その器(時空・地)についての考え方も変える必要がある。図と地は相即不離であるから、全体主義を逃れる全体性について考えるために、それは必須なのだ。始まり→中間→終わりという進行から逃れ、有限の中に全体を含み込ませるには、時空の構造をその根本から揺るがさなければならない。そこで本書は、セザンヌと山下澄人にたどり着く。彼らは、モノを容れるためにその器から創り直そうとする作家だからだ。  ロラン・バルトの『小説の準備』について検討する第五章は、そのまま佐々木敦の「小説の準備」であろう。私は、本書の後に(あるいは並行して?)書かれた小説「半睡」を既に読んでいる。後出しジャンケンのような視点からみると、本書全体の至る所に小説へ発展する種が散見されるのだが、特に第五章は自作に対する言及のようですらある。本書のほぼ最後に、バルトの検討から導かれた「小説とは何(であり、何でないの)か?」にまつわるみっつの問題が置かれる。(一)断片性からの離陸、(二)記憶(力)の問題、(三)噓の問題。これらはほとんどそのまま「半睡」の主題として引き継がれる。
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完全犯罪の恋

評者:紗倉まな