日曜日の人々(サンデー・ピープル)   高橋弘希
死の欲動に対抗しうるもの   評者:江南亜美子

 思い起こせば、高橋弘希の二〇一四年のデビュー作『指の骨』は、太平洋戦争のさなか南方戦線の野戦病院に収容された一兵卒の置かれた状況を、克明に描き出した作品であった。若き作家のデビュー作とは思えぬ落ち着いた筆致と、青年の肩口の傷の痛みや土の感触まで確かに伝わってくる描写力が高く評価され、芥川賞候補作のひとつとなった。一方で、大岡昇平『野火』をも彷彿させる作品の題材は、なぜいま戦争文学なのかという疑義を読者に、また、賞の選考委員にもたらした。あれから三年。コンスタントに作品を発表し続けてきた著者の最新刊『日曜日の人々』を読めば、『指の骨』で目指されていたものが、事後的に理解できる気がする。戦時から二〇〇〇年前後の関東圏に物語の舞台を移しても、まったく変わらない作家の核のようなものが、透けて見えてくるのだ。  大学生の航が、従姉で同い年の奈々を差出人とする宅配便を受け取るところから物語は始まる。彼女は自ら命を絶ったばかりで、生前に発送されたらしい手記とおぼしき紙の束には、知らない奈々の一面が記されていた。死に「REM」という集団が少なからず関係すると知った「僕」は、スパイよろしく、そこにコミットしてゆく。  レムはマンションの一室で定期的に集会を開いている。そもそもは不眠症を患う者同士の交流の場だったが、いまでは拒食症のひなの、盗癖のある佐藤ビスコ、自傷する杏子など、集う者の悩みは千差万別だ。「僕」も会に出入りし始める。従姉の自死の真相を探る動機が正義感か、未知の世界を覗ける好奇心かは判別つかない。  薬物やアルコール依存からの脱却を目的に集団精神療法的なセルフヘルプの活動を行うNPOなどは、日本でも今日認知度をあげているが、レムにはもう少しアンダーグラウンドな匂いがある。初代の管理人を始め、何人もの自殺者を出しているのだ。しかし医療機関との連携といった手はとらない。会は何かを嗜好する人々のたまり場で、大局的には互いの死への欲動を肯定しあうことで連帯している。たんなるやじうまであったはずの「僕」も、内偵者がしばしばそうなるように、レムに深入りし、管理人の吉村から自殺幇助を婉曲的に持ち掛けられた際も肯うまでになる。死の欲動の感染力の強さは、本作のテーマのひとつだ。  レムの中心的活動は、参加者があらかじめ書いてきた身の上話をみなで聞く「朝の会」と、その発表原稿を「日曜日の人々」という冊子にまとめること。奈々が送ってきたのは、じつはこの原稿であった。「僕」が人間関係を理解するのに合わせ、奈々をはじめとする会のメンバーの原稿のいくつかが差し挿まれ、読者にも彼らの抱える問題があらわになっていく構造で小説は進む。そのベールのはがれていくさまはなかなかにスリリングである。  十四歳の夏の日に戯れの結果かいま見えた奈々の胸元は真っ白だったが、六年後、大学で再会し性的関係を持とうとした際には、自傷の痕が醜くあった。義理の父の連れ子(義兄)に犯されたあげくの妊娠から死産へ至る熾烈体験と、それに先立つ実父の自死が、自傷を習慣づけたと冊子にはある。しかしながら読者は、あるいは航もまた、そのやたらとドラマ性の高い自傷要因が「真実」なのか判断しうる客観的な証拠を持たない。  ひなのは自身の境遇の凡庸さ・普通さゆえに、拒食という病理を環境のせいにできなくて残念だといい、ビスコも〈爾来、私が盗みを働いたことは、神仏に誓って、一度たりともありません〉と綴りながら、盗品だらけの部屋で暮らした。会は他人の耳を必要とする。取り繕い、虚実ないまぜの心情を吐露するのが必定の会にあって、誰の「日曜日の人々」も、切実さとフィクション性がコンバインされる。  奈々は〈傷口は言葉だ〉と書き、ひなのの主治医も〈僕は拒食も過食も言葉だと思っているよ〉という。自傷は個人では抱えきれない感情が内向したもので、つまり彼らは絶望と苦悩が基調の人生観においてなお、他者とのコミュニケーションと連帯を切実に求め、会は受け皿となる。人間の孤独の本性、そしてカルト集団がいつの世も存在する意味は、ここにあろう。しかし書かれたものの集積である冊子こそが、逆説的に、言葉によるコミュニケーションの不可能性をあぶりだす。傷口だけがホンモノ。言葉と傷口の戦いにおいて、言葉は分が悪い。原稿という言葉を残しながら、その不可能性に絶望するように、奈々も、レムの現管理人も安易に死を選んでしまうのだから。  言葉は無力か。そう問題を設定した上で、高橋弘希自身が、その問いに真っ向から挑んでいるように見えるのが、本作の面白い点だ。彼は克明に、精密に事物を描写しようとする。刃物が肌を切り裂く際の血の飛沫を。低体重に陥った際の脳の働きを。腐乱したり肉片と化したりする肉体の物質性を。情緒を排し、言葉を尽くして描くのは人間がモノでしかない有り様である。  死もあっけない。最終盤、死の欲動に感染した航もまた集団自殺を図り、しかし死線を越えずに戻って来る。有機物である以上、器官は朽ち、蛆もわくが、それを精緻に描写する言葉を有するのもまた人間なのだと、本書はメッセージを読者に投げかえすのだ。著者の異様なほどの描写への執着と迫力、言葉への信頼が、ここにはある。  生の領域へ、明るいほうへ、導かれるがごときラストシーンは、おそらく一種の感動を読者にもたらすだろう。『指の骨』は人間のモノ性にいかに言葉で肉薄するかに力点が置かれていた。戦争小説らしからぬメッセージ性の希薄さが、一部の読者に物足りなさを覚えさせた。本作は、物質としての人間を描かんとする著者のストロングポイントはそのままに、傷口ではなく言葉を! との強いメッセージも響かせる。間違いなく著者の新境地を拓く一作だ。
・・・続きはこちら
告白   三島由紀夫 TBSヴィンテージクラシックス編
「実に実に実に不快だった」その日の三島由紀夫   評者:平野啓一郎

 三島由紀夫の晩年の肉声の記録としては、文芸批評家の古林尚による、自決一週間前(一九七〇年十一月十八日)のインタヴューが有名である(『三島由紀夫 最後の言葉』新潮社)。自衛隊市ヶ谷駐屯地での最後の「行動」を目前に控えた時期だけに、三島の文学、思想を理解する上でも非常に価値が高い。古林は、元々三島文学に批判的だったらしく、三島もそれを意識してか、幾分構えつつ、慎重に言葉を選びながら自らの小説家としての歩みを総括するような話をしている。  今回TBSで発見されたインタヴューは、それに対して、一九七〇年二月十九日収録と、死までまだ九ヶ月ほどを残しており、またインタヴュアーのジョン・ベスターが、短篇「海と夕焼」と本書併録のエッセイ『太陽と鉄』の翻訳者だっただけに、一定の共感を前提としたリラックスした口調になっている。丁度、『豊饒の海』第三巻を脱稿した当日らしく、そこはかとない疲労も感じられる。因みに「小説とは何か」というエッセイの中では、この「暁の寺」脱稿時の心境として、「実に実に実に不快だった」という言葉が遺されている。  インタヴュアーとしてのベスターは、控え目だが率直で、外国人らしく、三島が〝現代日本〟について語る度に──演劇の堕落であれ、社会の堕落であれ、あるいは偽善についてであれ──、「それは何も日本だけのことじゃないでしょう。」と疑問を呈している。  三島の四十代の憂国論は、基本的に戦後日本社会の全否定で、その意味では、昨今の国粋主義的な「日本スゴい!」とは凡そ対極的だが、それにしても、三島が非難した社会の頽落は、必ずしも戦後日本に特異な現象ではなかった。それは、近代の問題であり、資本主義の問題であり、大衆消費社会の問題、そして民主主義の問題だった。なるほど、それらは〝普遍的〟、或いは少なくとも西洋的であったからこそ、日本文化の固有性を「むしばんで」いったというのが、三島の主張だともいえようが。  三島の批判は、それが具体的である時には、しばしば唸るほどに冴えている。歌舞伎の批判は、ここだけでなく方々で見られるが、それ自体は、見巧者として、或いは劇作家としての実感のこもった、説得力のあるものである。日本語についても、「漢文学の教養がだんだん衰えて」きて、「文体が非常に弱く」なったというのは、その通りだろう。  しかし、そこから「文化防衛論」に顕著な天皇中心の日本論に飛躍した途端、人は困惑せざるを得なくなる。何も、左右の対立の話をしているのではない。もっと遥かに単純に、例えば、三島の小説は、欧米文学の多大な影響下にあったし、彼の日本語が「西洋的な思想構造」に学び、「言葉の使い方とかなんとかが西洋的」であるのは明らかだった。それは決して、「文化的天皇」が象徴する日本文化の「連続性」、「再帰性」には収まりきれないものであり、文化の「全体性」という彼の主張するもう一つの特徴も、外国文化に開かれている、などという意味では決してなかった。有名な三島邸にしても、コロニアル様式であり、庭にはアポロン像が建っている。そういう矛盾を、彼の哄笑に紛らされることなく、真顔で問い質し、彼の反動的なナショナリズムを中和する質問者が、早い段階でもっといても良かったのではないかと、私はいつもながらのことを考えさせられた。  本インタヴュー中に見られるこうした一種の飛躍として、今日、政治的に注目されるのは、その日本国憲法観だろう。三島は、所謂「押しつけ憲法」論に立って、これを「偽善」の根源として批判する。ベスターはやはり、まったく穏当に、「結局、多くの人は非常に素朴な気持ちで、素直な気持ちで、平和憲法を支持しているんじゃないでしょうか。」と問うている。対して三島は、九条のとりわけ第二項を挙げて、自衛隊は違憲であり、にもかかわらずこれを認めていることを「人間のモラルをむしばむ」(傍点平野)という意表を突く言葉で批判している。彼が市ヶ谷で「行動」を起こした時も、その「大義」は、憲法改正だったが、昨今の改憲議論でこういう三島が再び引用される可能性はあるだろう。  三島は、「僕にとっては、僕の小説よりも僕の行動のほうがわかりにくいんだという自信がある」と語る。それ故に、彼の文学を彼の思想、政治的行動から切り離して考えようとする人もいる。しかし、彼の思想、文学こそは、その不可思議の実体としての生の表れであることは間違いない。  三島自身が「あれを読んでくれればわかる」と言う「太陽と鉄」は、筋肉と言葉とを、片やトレーニング器具の「鉄」と、片や書物と組みあわせて、鍛え、造形し得る外在的な異物として、対照的且つアナロジカルに、同格に語ってゆく。三島は、両者の均衡と最終的な一致を夢見つつ、その無理まで既に予感していて、全体に明晰だが、混沌としており、その暗い情念のレトリックに充ち満ちた文体には、異様な迫力がある。その孤独な個性は、苦痛という、決して死そのものではなく、むしろ死への接近を告げる生の警報を鳴り響かせながら、「絶対」の「悲劇」を渇望する共同性を夢見る。しかし、その「同苦」の「戦士共同体」は、『金閣寺』で語られた滅亡のユートピアよりも、ましてや天皇制よりも、更にその構成員を限定する隘路へと追い込まれている。三島を考える上で非常に大きな示唆を与えてくれるドイツのエルンスト・ユンガーが、独自の形態学に基づいて「剣を持つ腕を動員するだけでは十分でなく、骨の髄までの動員、最も精妙な自律神経にまで至る」総動員を求め、「少なくとも間接的にさえ戦争遂行と関わりをもたない運動は──たとえ自分のミシンで作業する女性家内労働者のそれであれ──、もはや存在しない」と主張したこと(『総動員』)と対比的にも見られよう。  没後五十年の大きな節目に向けて、三島という存在は再考を求められている。
・・・続きはこちら
さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神   笙野頼子
他者への想像力の大事さ   評者:木村紅美

 二〇一三年十二月初め、沖縄県の高江まで、米軍ヘリパッド建設反対の座り込みに出かけた。ここでの住民たちの抵抗運動を追った三上智恵監督のドキュメンタリー映画『標的の村』を観たのがきっかけで、いても立ってもいられなくなった。沖縄には学生時代から通っているとはいえ、座り込みは初めて。  私が行ったときは、予想より遥かにのんびりしていた。毎朝五時起きで集合し、夜番の人たちと交代、やんばるの森を通る国道に沿って点在する見張り場所に分かれる。終日、二人ひと組で、道ばたに停めた車のなかで過ごす。基地に出入りする工事用車両のナンバーが載ったリストをもとに、ひたすら、走ってくる車のナンバーをチェックする。  該当する車が通過すると、連絡を取り合い、メインゲートへ向かう。全員で路上に降り車の前に立ちはだかり、追い返す。そうして工事の進行を少しでも遅らせようとするのだが、私の滞在した三日間は、七、八台、押し返せたかどうか。仕事や子育ての合間に、丸腰で、こんな辛抱のいるうえに終わりも見えない作業を、来る日も来る日もつづける地元の人たちに対して頭が下がった。よそから駆けつける人たちも、当然、無給。  走り去ってゆく車の大方は、ただのドライヴだったろう。どう見ても工事とは無関係そうな車のナンバーまで必死でリストと照らし合わせながら、日本じゅうの殆どの人はここで起こっている事態について知らないのだと思うと不思議で、サハリン島を連想させるチェーホフの言葉「苦しんでいる人たちはわたしたちには見えないし、その声も聞こえない……。人生の恐ろしいことは、どこか舞台裏で行なわれている。こんな秩序がおそらく必要なのでしょうね」(『すぐり』)が思い浮かんだ。  昨年の七月、住民百五十人ほどの高江には、全国から動員された五百人もの機動隊が押し寄せ、座り込みテントは強制撤去、負傷者も出た。高江の人はよく「高江で起きることは、いずれ東京や全国でも起きる」と言う。本書では、人喰いはまず沖縄から丸飲みにする、と繰り返し書かれる。この国の舞台裏に巧妙に隠されてきた恐ろしいことは、今やじわりと、見えやすい場所に広がりだしている。  考え方が右とか左とか関係ない。放っておけば、見え始めた人にも、「真実に目をつむり、自分たちはごく普通の生活をしているという幻想に取りつかれている人たち」(イサベル・アジェンデ『精霊たちの家』)にも等しく襲いかかり、食い荒らすもの。  とある過去作について、作者は本書で「本当に次々と悪いものが来たね、しかもそれは私が長い事、もう十年も前から書いていたシリーズとかに出てきていたものだった。無論嬉しくはない」「警告したって黙殺されていた、という事?」と書く。二〇六〇年代という設定で創作されたその内容について、いま読むと、この作家の、舞台裏を見抜いたうえでの誰にも真似のできない預言者ぶりに改めて震える。  本作が『群像』に掲載されたとき、私は表紙をひとめ見ただけで興奮のあまり、部屋をぐるぐる歩き回った。読み始めると、私も同じことを望んでいるのに、どうして私はこの人のようには小説を書けないのだろう、という気持ちでいっぱいになった。帯に「TPP反対!!」の文字が躍りまくる前作『ひょうすべの国』から半年経ち、トランプ米大統領の誕生でTPPはいったん流れた。本書に新しく加筆された「口上」に「次のやつは既に束になって襲いに来ています」とある通り、私がこの書評のためにゲラの後半を読んでいた七月七日、「基本的に、TPPとほぼ同様の章立て」(九日の内田聖子さんのツイッター)の日欧EPA大枠合意が報じられた。  今の時代を小説にする難しさ、ほんの一部に集中する大きなお金のために人間が踏みにじられてゆくことへの怒り、持病である膠原病の苦しみを書きつつ、作者は、日々の生活に楽しみを見出す。ドゥルーズの相棒ガタリの概念から、リトルネロ、と名づけた冷凍庫に蓄える、好きなおかずを作る喜び、自分のリズムで居場所を確保し不安をなだめるようすには勇気づけられる。みっともなく激変する日本の現実を「スルーなしの設定で」作品に取り込もうと、初めて参加した国会前デモ、ヘイトスピーチへの抗議行動。報道されないディテールに驚き、書きたいことが次々見つかる。亡き猫のドーラが女王口調で労わってくれる空想を交え、筆は自在に飛び回る。  萌エロキャラと戦争の問題もつながる。高学歴も継ぐべき財産も全て捨てて嫁入りした「母」が、作者の子供時代、大変な手間をかけ作るご馳走の数々、それらのならぶ食卓を台無しにする父の横暴さ。その寒々しい光景の裏側には、まえの戦争の傷痕と、いまに至る日本の風潮がどろりと引きずられている。  要所に、大学で教えた学生たちの話が挟まれる。特に、一見向いていそうに見えても小説を書けない子と、書けるようになる子の違いについての考察は、祈りのようでもあり何度でも読み返したい。私は、二〇一五年十一月、新宿で行なわれた辺野古基地移設反対集会で聞いた、ひとりの見知らぬ女子学生のスピーチを思い出した。  沖縄へは、最初、貧乏旅行をしに行って沢山の島を巡り、大好きになったこと、ある日、自分はその沖縄を痛めつけるほうの立場にいるのだと気づいたときの衝撃に触れたあと、彼女はこんなふうに続けた。「どこかに自分と全然違う境遇で苦しんでいる人たちがいる、それは自分だったかもしれないし、明日には自分がそうなるかもしれない。そう考える想像力を忘れないでいきたいです」  これまで作者が思考してきたさまざまな要素がぶち込まれ、響きあう本書は、憤りの渦巻くカオスのようでありながら、この文学の基本であろう他者への想像力の大事さに貫かれ、誇り高く光り輝いている。 (講談社刊・税別定価一九〇〇円)
・・・続きはこちら

キッズファイヤーー・ドットコム

評者:武田砂鉄

モンテーニュの書斎 『エセー』を読む

評者:野崎 歓

もう生まれたくない

評者:山城むつみ

ホサナ

評者:上田岳弘

再起動

評者:松浦寿輝

野良猫を尊敬した日

評者:雪舟えま

天空の詩人 李白

評者:田中芳樹

カント 美と倫理とのはざまで

評者:大澤真幸