ホサナ   町田 康
理と念   評者:上田岳弘

 ホサナ、耳慣れない単語が音をなして脳内に響く。そういった場合、すみやかに手近な辞書をひいたり、電子端末で検索してみるという方も多いだろう。僕の場合は、本作のタイトルを目にした時に持っていたはずのスマートフォンを使うこともせず、大長編の四分の三くらい読み進んだ頃に、Wikipediaのページを開いた。ヘブライ語で、【「どうか、救ってください」を意味するホーシーアー・ナー(hoshia na)の短縮形ホーシャ・ナー(hosha na)のギリシャ語音写に由来し、キリスト教において元来の意味が失われて歓呼の叫び、】この辺りで、以前聴いたフォーレのレクイエムを思い出した。天上的ファンファーレの後の、歓呼の叫び、いや、元々の意味である「救い」を求めた懇願。続いて「救い」、これをWikipediaで検索してみる。完全該当する項目はなく、「救済」のページに飛ばされる。【ある対象にとって、好ましくない状態を改善して(脱して)、望ましい状態へと変える(達する)ことを意味する。宗教的な救済は、現世における悲惨な状態が宗教に帰依することで解消または改善されることも意味する。】  好ましくない状態、という言葉の裏を返せば、好ましい状態が存在すると信じなければならないことになる。しかし、好ましい、とはなんだろう? 確かに、宗教を持ち出せば説明可能かもしれない。戒律や教義が、信仰心が、志すべき状態をわかりやすく示している。各々の宗教で好ましい状態に違いはあれど、少なくとも「ある」とはされていて、その境地に達して留まり続ければ、達成ボーナスとして信者は「救済」されることになる。 言うまでもなく町田康氏は、歴史的な人工的「救済」に一定の評価を与えつつも、自身でははなから信じるつもりのない様子だ。小説の前半、語り手はいろんな物事を「なかった」ことにできないだろうか? としばしば考え込む。今回の語り手は、他者と交流せずとも生きていける立場に置かれている。親から豊かに生活していけるだけの資産を相続し、蒸しずしを食し、白ワインを飲み、飼い犬を撫でながら生きていくことができる。人間は成長していく過程で様々な社会からの要請に応じなければならなくなるが、犬や幼児を始めとした幼い存在は、本人の身に危険が及ばない限りは自由気ままにやっていればよい。そのような無辜の存在を慈しむことは自然的なコミュニケーションであり、語り手はある意味、楽園の住人であると言える。 それで終わればいいのだが、残念ながら外の世界を「ない」ことにはできない。である以上、コミュニケーションの機会が発生することもある。「犬の飼い主」同士としてならば正しく安全なコミュニケーションを図りやすいと考えたのか、主人公は犬同伴のバーベキューに参加する。「救済」と無縁であったとしても、調和の保たれた楽園の住人であり続けるために、誰に言われるまでもなく、是非とも「正しいバーベキュー」をなして乗り越えたいところだ。 しかし、見ず知らずのイヌ友同士のバーベキューなんて最もコミュニケーション能力が問われる部類のイベントであることは、みんな知ってる、と読者は序盤から心配して見守ることになる。冷静なようで愚痴っぽい語り口は、読者の予想をはるかに上回り、参加者の、他人のことを穢れとみなし遠ざける女、去勢されていない犬を連れる語り手を野蛮人とみる意識の高い夫婦、権威を誇らんとする幹事の女とその舎弟、等々を軽妙かつ滑稽に描写する。バーべキューの常として、参加者それぞれの思いが念となって渦巻き、大惨事となって終わる。災いの原因も結果も、バーベキューへの参加に関連しない所で発生するものではない。語り手の完璧な世界が外から壊されるのではなく、内側から崩れるのでもなく、ぐるぐるとかき混ぜられて混沌が現出する。 遠方から着々と近づいて来る、まるで光の柱のような栄光。それは空間的歴史的矛盾が幾重にも重なって形成された、人々を原初の状態へと滅するものでもあって、そんな風に全体と一つになるのは「気持ちいい」かもしれないが、しかしそんなものを「救済」と呼ばねばならないのなら、最初から「ない」こととぜんたい何が違うのか。このいみじきみじめさに満たされた生の意味はなんなのか? どうか、救ってください(ホサナ)。知っている言葉で思わず祈ってみるが、祈る方角も姿勢も定まらない。「ほんとうのこと」は存在しないか、もしくは変容を続けるものであるらしい。これはまがりなりにも小説を書き、そして町田さんの小説を読んできた僕の経験則であり、実感でもある。しかし、僕が認知できている世界の外枠に、何かが「ある」のも確かだ。でなければ、このみじめな生すら僕には与えられていないのだから。全容を把握できない故に、理として飲み込み、自らの生が押しつぶされないように念じる。理と念が組み合わさって、各個人の世界が形成される。当然、各々の理念には違いがあるから、矛盾や対立が暴力的に噴き出すことも多い。 であれば、理念など持ちえない、幼い存在に身をやつせばいいのだろうか? 抜け作もひょっとこも犬も、「気持ちいい」ことを求めるが、きっと「どうか、救ってください(ホサナ)」とは念じない。疲れきっている時には、理念など捨ててしまいたくなる。それでも、人はベストを尽くす。混沌の世界において、僕だったら理の内部に走るコードを解析する方向で頑張るかもしれない。著者の場合は全く異なり、究極には生死を問題とせず、彼にとっての「正しさ」、と言葉にしてしまうと既に正しくなくなってしまうような種類の「正しさ」を貫いて世界を束ねようとする。苛烈極まる苦闘である。どうか、救ってください(ホサナ)。  ホサナ、耳慣れない単語が音をなして脳内に響く。そういった場合、すみやかに手近な辞書をひいたり、電子端末で検索してみるという方も多いだろう。僕の場合は、本作のタイトルを目にした時に持っていたはずのスマートフォンを使うこともせず、大長編の四分の三くらい読み進んだ頃に、Wikipediaのページを開いた。ヘブライ語で、【「どうか、救ってください」を意味するホーシーアー・ナー(hoshia na)の短縮形ホーシャ・ナー(hosha na)のギリシャ語音写に由来し、キリスト教において元来の意味が失われて歓呼の叫び、】この辺りで、以前聴いたフォーレのレクイエムを思い出した。天上的ファンファーレの後の、歓呼の叫び、いや、元々の意味である「救い」を求めた懇願。続いて「救い」、これをWikipediaで検索してみる。完全該当する項目はなく、「救済」のページに飛ばされる。【ある対象にとって、好ましくない状態を改善して(脱して)、望ましい状態へと変える(達する)ことを意味する。宗教的な救済は、現世における悲惨な状態が宗教に帰依することで解消または改善されることも意味する。】  好ましくない状態、という言葉の裏を返せば、好ましい状態が存在すると信じなければならないことになる。しかし、好ましい、とはなんだろう? 確かに、宗教を持ち出せば説明可能かもしれない。戒律や教義が、信仰心が、志すべき状態をわかりやすく示している。各々の宗教で好ましい状態に違いはあれど、少なくとも「ある」とはされていて、その境地に達して留まり続ければ、達成ボーナスとして信者は「救済」されることになる。  言うまでもなく町田康氏は、歴史的な人工的「救済」に一定の評価を与えつつも、自身でははなから信じるつもりのない様子だ。小説の前半、語り手はいろんな物事を「なかった」ことにできないだろうか? としばしば考え込む。今回の語り手は、他者と交流せずとも生きていける立場に置かれている。親から豊かに生活していけるだけの資産を相続し、蒸しずしを食し、白ワインを飲み、飼い犬を撫でながら生きていくことができる。人間は成長していく過程で様々な社会からの要請に応じなければならなくなるが、犬や幼児を始めとした幼い存在は、本人の身に危険が及ばない限りは自由気ままにやっていればよい。そのような無辜の存在を慈しむことは自然的なコミュニケーションであり、語り手はある意味、楽園の住人であると言える。  それで終わればいいのだが、残念ながら外の世界を「ない」ことにはできない。である以上、コミュニケーションの機会が発生することもある。「犬の飼い主」同士としてならば正しく安全なコミュニケーションを図りやすいと考えたのか、主人公は犬同伴のバーベキューに参加する。「救済」と無縁であったとしても、調和の保たれた楽園の住人であり続けるために、誰に言われるまでもなく、是非とも「正しいバーベキュー」をなして乗り越えたいところだ。  しかし、見ず知らずのイヌ友同士のバーベキューなんて最もコミュニケーション能力が問われる部類のイベントであることは、みんな知ってる、と読者は序盤から心配して見守ることになる。冷静なようで愚痴っぽい語り口は、読者の予想をはるかに上回り、参加者の、他人のことを穢れとみなし遠ざける女、去勢されていない犬を連れる語り手を野蛮人とみる意識の高い夫婦、権威を誇らんとする幹事の女とその舎弟、等々を軽妙かつ滑稽に描写する。バーべキューの常として、参加者それぞれの思いが念となって渦巻き、大惨事となって終わる。災いの原因も結果も、バーベキューへの参加に関連しない所で発生するものではない。語り手の完璧な世界が外から壊されるのではなく、内側から崩れるのでもなく、ぐるぐるとかき混ぜられて混沌が現出する。  遠方から着々と近づいて来る、まるで光の柱のような栄光。それは空間的歴史的矛盾が幾重にも重なって形成された、人々を原初の状態へと滅するものでもあって、そんな風に全体と一つになるのは「気持ちいい」かもしれないが、しかしそんなものを「救済」と呼ばねばならないのなら、最初から「ない」こととぜんたい何が違うのか。このいみじきみじめさに満たされた生の意味はなんなのか? どうか、救ってください(ホサナ)。知っている言葉で思わず祈ってみるが、祈る方角も姿勢も定まらない。 「ほんとうのこと」は存在しないか、もしくは変容を続けるものであるらしい。これはまがりなりにも小説を書き、そして町田さんの小説を読んできた僕の経験則であり、実感でもある。しかし、僕が認知できている世界の外枠に、何かが「ある」のも確かだ。でなければ、このみじめな生すら僕には与えられていないのだから。全容を把握できない故に、理として飲み込み、自らの生が押しつぶされないように念じる。理と念が組み合わさって、各個人の世界が形成される。当然、各々の理念には違いがあるから、矛盾や対立が暴力的に噴き出すことも多い。  であれば、理念など持ちえない、幼い存在に身をやつせばいいのだろうか? 抜け作もひょっとこも犬も、「気持ちいい」ことを求めるが、きっと「どうか、救ってください(ホサナ)」とは念じない。疲れきっている時には、理念など捨ててしまいたくなる。それでも、人はベストを尽くす。混沌の世界において、僕だったら理の内部に走るコードを解析する方向で頑張るかもしれない。著者の場合は全く異なり、究極には生死を問題とせず、彼にとっての「正しさ」、と言葉にしてしまうと既に正しくなくなってしまうような種類の「正しさ」を貫いて世界を束ねようとする。苛烈極まる苦闘である。どうか、救ってください(ホサナ)。
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再起動   岡本 学
システム神学をめぐるニーチェ的寓話   評者:松浦寿輝

 何ともかとも生きづらい。どうあがいても楽になれない。ならばいっそ自分自身をいったんシャットダウンし、そのうえで再起動してみたらどうか。その際、ちょうどコンピュータを「セーフモード」で立ち上げるように、いつの間にか自分に付け加わってしまった余計な機能──気遣い、自尊心、見栄、猜疑心、ねたみ、ひがみ、心配、不安、さらには自殺念慮、等々──はぜんぶオフ設定にしたまま、必要最低限の機能だけが使える状態でリブートする。そうしたらどれほどの安息が訪れることだろう。さあ、みんなで楽になりましょう。  岡本学『再起動』の表題作の語り手にして主人公の「僕」は、そんなシンプルな教義を掲げる「リブート教」を創設する。いや、創設というよりむしろ、もともとシステム・エンジニアリングのベンチャー企業を経営していた彼にふさわしく、宗教もどきの一システムを「設計」し「構築」したと言うべきかもしれない。当然、「僕」は教祖ではない。システムが滞りなく作動しつづけることに挺身する単なるサポート・スタッフ、すなわち「ヘルプデスク」でしかない。目的はむろん衆生の救済ではなく金儲けビジネスであるが、欲をかいて過分なお布施を信徒に強要したりはせず、三千円という控えめな月額会費を徴収するにとどめる。「これは新聞購読料を目安にそれより安く設定した値段だった」。入退会は自由で無理な勧誘もしない。かくしてシステムはきわめて慎重に、巧妙に、合理的に設計され構築された。  その甲斐あってこのインチキ宗教ビジネスは予想外の成功を収める。そこまではよかった。ところが、あろうことか自分は本当に「再起動」し遂げたと称する信者が出現するに至って、システムは自壊の様相を呈しはじめる。もともと「再起動」の観念など、いい加減な思いつき、口実、与太、でまかせのはずだった。なのに、心底本気の「再起動者」が現われ、あまつさえその数がどんどん増えてゆくとは、こはいかに。たちまち地域共同体との軋轢、警察の介入、思惑絡みの第三者の容喙など、新興宗教に付きものの様々な困難がどっと「僕」に襲いかかってくる。 「リブート教」なるシステムの基盤をなすのは、煩悩の苦しみから解脱の浄福へと至る目的論的ストーリーであるが、ただし解脱の境地としての「再起動」は、決して到達されてはならない最終ゴールでもある。システムがシステムとして機能するために、システムの目的の実現自体はどこまでも先送りされつづけなければならない。これは設計思想の中に織り込み済みの、明快にして衛生無害な逆理にすぎないはずだった。ところが、システムが匿名の諸力に衝き動かされ、設計・構築主体の思惑を裏切って野放図に暴走しはじめるや、安全弁の役割を担うはずだったこの逆理はうち砕かれ、システムは崩壊の危機にさらされる。  そのとき物語は「設計編」「構築編」「完成編」に続く最終段階の「運用編」に突入する。今やシステムにはメンテナンスが必要だ。どうやら不具合と不安定化を引き起こしている厄介なバグか何かが存在するらしい。つまるところ、他ならぬ「僕」自身こそそれだったという残酷な真実が告げられる。「あなたの役割は終わりましたよ」。自己目的化した完成形態へのプロセスを自律的に追求しはじめたオートポイエティックなシステムにとって、みずからの設計と構築に関与した人間主体とは今や、排除しなければならない邪魔者でしかない。いや、わざわざ排除するまでもない。主体それ自身をリブートし、緑色の輝きに包みこんでシステム内部に同化吸収してしまえばいいだけのことだ。「僕の、再起動だ」。そのとき、「再起動」の概念は「死」のそれへとかぎりなく接近する。  無駄のない簡潔な文章で綴られてゆくこのきわめて「現代的」な寓話がわれわれに授けてくれるのは、システム論的世界観はその完成可能性の保証と引き換えに、破綻への過程の萌芽を必然的に抱え込むほかはないという教訓だろう。その必然性の土台をなすものは、人間は結局人間でしかないという絶望的に退屈なトートロジーでしかない、と言ってしまってはシニカルにすぎるか。結局、自身が残る隈なくシステム化されてしまうのに耐えられるほど強い人間など、「僕」も含めて誰もいはしないのだ。そんな弱者にとっては、気遣い、自尊心、見栄、猜疑心等、一見不必要と見えたあれらの「付加的」機能こそが実は、生への執着を可能にする「本質的」機能だったのか。さもなければ、「人間」の概念自体のまったく新しい定義を模索するほかないのか。  本書にはもう一篇、「高田山は、勝った」と題する洒落た短篇が収録されており、これもまた、システム設計者がシステムに裏切られ、敗北してゆく物語である。考えてみれば、岡本学の前作『架空列車』もまたまったく同じ主題による物語にほかならなかった。情報工学の専門家である岡本氏は、どうやら彼の内奥に潜む根深いオブセッションを粘り強く追求し、それにアレゴリカルな表現を与えようと試みつづけている気配である。 「再起動」の「僕」は最後に「緑色の、なでるような、やさしい光」に出会い、「高田山は、勝った」の主人公は「神は確かにいる」という認識に達して思わず頭上を見上げる。アインシュタインの言ったように神はサイコロを振らず、しかしその代わりに、システムを徹底的に管理し運用し、合理非合理の二元論を超えた究極の厳密さで統制しつつ、しかも時として人間には窺い知れない気紛れでそこに突拍子もない偶発事を導入し、かくしてわれわれ無知な衆生を嘲笑しているかに見える。「人間」の再定義と先に言ったが、ひょっとしたら希望は、人間=システムの残る隈なき合体と融合の果てに垣間見える、「超人」の誕生の可能性にあるかもしれない。そう考えるとき、本書『再起動』は、システム工学ならざるシステム神学とでも言うべきものの背徳的な教理の輪郭を粗描する、ニーチェ的寓話なのではないかという妄念が頭を掠めずにはいない。
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野良猫を尊敬した日   穂村 弘
ほむらさんと二種類の幸福   評者:雪舟えま

 本書に登場する人びとは皆魅力てきなエピソードをもっている。奥さんや友人や仕事で会う人だけでなく、ひととき近くに居合わせただけの人からも、穂村弘はそのユニークさを見逃すことなくすいっと抽出する。この世の人間関係のルール(?)として、自分とどこか引きあったり、釣りあいのとれた相手としか出会わないし、関係もつづかないものだ。素敵な人が周囲に集まるということは、「ほむらさん」自身が素敵だからなのだけど、当人はそれを知ってか知らずか、自身の言動を顧みては「僕は駄目だなあ」てきなことばかりいっているので、えーなんで? と笑ってしまう。『野良猫を尊敬した日』は、ほむらさんの魅力が空回りする……ように見せかけて、華麗な三回転半で読み手の胸に飛びこんでくる、そんな愛おしいエッセイ集だ。  天職に就いている人たちの、仕事へのエネルギッシュでパンチの効いた発言と、噓ではないが気弱な自分の発言を比較して、「駄目なんだ」と思うほむらさん。電車の故障で新幹線への乗り換えの時間がないときに、ほかの乗客のように行動を即決できない自分を「恰好悪い」と思うほむらさん。病院で、採血の下手なナースに「代わって欲しい」の一言がいえないほむらさん。そんな彼が憧れるのはもちろん、「迷いの無さ、静かな自信、これで良いという思い込み、などを自然に備えた人」だ。そういう人に出会うと、「眩しさのあまりつい見つめてしまう」くらいに惹かれる。  ある人が、自分で「よい」と思いこんでいることをあきらかにするとき、その意外さに、既知の世界が更新されるのを感じることがある。引っ越しの話題で盛りあがっている場で、落ちついた表情で「僕は西日が好きだから」といった友人に、ほむらさんはしびれる。「南向きとか東南角とか」がこのましいとされる世間一般の価値観から自由なこの友人は、ナチュラルな魅力にあふれた人物なのだろうなあと想像する。  ある冬の明け方、ほむらさんはネット上で友人がリアルタイムな書きこみをしているのに気づく。そこには、いまおなじ時間に起きている人への「おはようございます」という呼びかけがあり、空を眺めながらコーヒーとチョコレートを味わい、鳥の声に耳を澄ませているということが淡々と書いてあった。こんな素敵な時間にはもう「いろんな望みは平べったくなってしまっていい」とまで述べられており、ほむらさんはその言葉の意味について考え│「気づかぬうちにもう望みは叶っているってことかもしれない」と思いいたる。そして、この書きこみから、ほむらさん自身も「どうしてか、今までそのことを忘れていたのだ。私の人生はこんなにも幸福に充たされているのに」と気づく。  その感覚をもって近所を歩いてみれば、見慣れたものがなんと新鮮に映ることか。コンビニの「卵サンド」や「濃厚チーズ鱈」がたまらなく美味しそうに見え、食べてみると「うまっ、うまっ」と声をあげてしまうほど美味しい。さらに、これを「外国に輸出したらどうだろう」「ノーベルおつまみ賞だ」と空想はのびのび広がる。  幸福には二種類ある。ひとつは、現代の私たちの大半がそれを「幸せ」であると教えられて育ってきたもの│達成したり、獲得したり所有したり、勝利したり、進化や成長や向上を認められたりといったことだ。これらの多くは自分と他者を比較することで感じる幸福であり、失敗や喪失や不足や敗北への恐れ、劣等感や停滞感と表裏一体のワンセットになっている。私たちは、ありのままの自分でいることがどうにもこうにも居心地わるいらしく、つねにいまの自分になにかをプラスしつづけていなければ落ちつかない。  もうひとつの幸福が、ネットで冬の早朝の書きこみをした友人の味わっていた幸福であり、ほむらさんが卵サンドに突進し、チータラを輸出したならと子どものような空想をくり広げたときの幸福だ。こちらの幸福の根拠には他者との比較はない。ただ自分が自分であることで満たされ、「世界」と呼ばれるこの空間で胸が満たされ、「気づかぬうちにもう望みは叶って」いたとさえ思える。  後者のタイプの幸福を、ほむらさんはたびたび強く実感する。ひどい風邪から回復したとき、「熱がないってなんて気持ちいいんだろう。それだけでもう何も要らない」と思うのだ。これも自分が自分である状態に戻れたよろこびだといえる。私たちは特別なプラスがなくても、「いやなことがない」だけで│マイナスからゼロのポイントに戻るだけで、じゅうぶん幸福を感じるようにできているらしい。  後者の満ちたりた幸福の中にあるとき、自分やこの世界にはなにも欠けたところがなく完璧だと感じ、私たちはゼロにしてすべてとでもいうべきものになっているのではないか。「この気持ちを壊さないように生きてゆきたい」とほむらさんは願うのに、切ないことに長くはつづかない。なぜなのだろう? それは、たとえば、卵サンドやチータラといっしょに購入した本『日本のタブーThe Best 知らなかったあなたが悪い!』の影響かもしれない。そこには「激安メニューが危ない!」「『アイツ消したれ!』紳助に睨まれた獲物たち」「フリーアナが稼ぎだす年収を完全暴露」といった、世間の価値観、他者との比較の世界の情報があった。それに触れることで、無邪気に境界なく拡大していたほむらさんのハートが冷たく萎縮していく感じが伝わってきた。  二種類の幸福といったが、どちらがよくてどちらがわるいというものではない。併存するのがいまの地球で、それで完璧ということなのだろう。現代社会では圧倒てきに前者の幸福を求めることが多いように見えるが、逆転していく時代も来るのだろうか。
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天空の詩人 李白

評者:田中芳樹

カント 美と倫理とのはざまで

評者:大澤真幸