新しい小説のために   佐々木 敦
ハシゴの上と下   評者:阿部公彦

 ずしりと重い500ページを超える質量。にもかかわらず、目次のキーワードは思いきりしぼられ、目につくのは「リアリズム」「人称」「私小説」といった概念くらい。およそ虚飾がない。  何という禁欲的な本だろう。何と真面目で、求道的で、ほとんど瞑想的ではないか……ついそんなふうに考えたくなるかもしれない。しかし、本書ほど、そうした閉鎖性や超越性から遠い書物はない。むしろ小説や批評を、文章を、そして書くことや読むことを、限りなく外にむけて開いていこうと汗をかく、きわめて篤実な書き手の姿がここにある。おそらく読者は、本書をどのページから開けても「やあやあ、いらっしゃい。どうぞお入りなさい」というオープンな雰囲気を感じるだろう。大学教員でもある著者が、「やあやあ、遅刻者さん。よくきたね。大歓迎だよ!」と授業のときに言ってくれるかどうかはわからないが、少なくともこの本では、読者とともに何度でもハシゴの一番下までおりて行って、一段一段手を引いてのぼらせてくれそうな構えがある。  これは単なるサービス精神ではなく、著者がハシゴの一番下までおりていくような論述スタイルをこそ尊んでいるということである。ただ、おもしろいことに佐々木敦の場合、「おりる」ことは「メタレベルに立つ」(つまり「上」に立つ)という一見矛盾するようなジェスチャーとセットになっている。それが本書の素材や議論ともかかわってくる。そのことを、以下説明してみたい。  目次をめくっただけではわからないが、本書で中心的に扱われている作家批評家もページ数のわりに少ない。そのうち批評系は高橋源一郎、江藤淳、小林秀雄、柄谷行人、野口武彦、渡部直己といったところだから、まあ、王道と言ってもいいが、作家のほうは明確な傾向が読み取れる。ざっと名前をならべてみると、ロブ=グリエからはじまって夏目漱石、岡田利規、保坂和志、ヴァレリー、大江健三郎、大岡昇平、谷崎潤一郎、小島信夫、堀江敏幸、山下澄人、柴崎友香など。このうち、漱石、大江、大岡、谷崎などは、議論のコンテクストづくりのために引用されていた感がある。  そうすると、『新しい小説のために』とのタイトルを冠してまで著者がわざわざとりあげたかったのは、岡田利規、保坂和志、小島信夫、堀江敏幸、山下澄人、柴崎友香といった現代作家ということになりそうだ。こうした名前に、みなさん、どんな感想をお持ちになるだろう。ほとんどが少なからず「変な小説」を書いている人たちである。ただし、そのうち「そもそも作家本人が変なのではないか?」と思わせるのは小島信夫くらいで、他の作家はどこか禁欲的に「変」のような気がする。従来の無頼派や変人自慢とは違うのである。めちゃくちゃな私生活や「おぇっ」となる細部で目を引いたりするのではない。もっと静かに穏やかに「変」なのである。  佐々木敦はまさにそういう「変さ」に惹かれている。しかし、彼は、そこで「この人は変」という判断をくだすことはしない(小島信夫は別として)。本書の第二部でじっくり展開される「私」をめぐる議論も、土台にあるのはそうした「この人は変だ」的な文学観への抵抗だと思う。  実は本書を読み通しても、佐々木敦がなぜこの人たちの作品の「変さ」にかくも興奮しているのかは、完全にはわからないかもしれない。しかし、だからこそ私はこの批評家を信用する。なぜなら、本書はこのよくわからない静かで、穏やかな「変さ」を一生懸命説明しようと格闘する言葉の軌跡として提示されているからである。そういうものとして批評が実践されている。  第一部第一章では佐々木はまず「リアル」という概念を持ってきて、丁寧にその有効性と限界を見極めた上で、歴史的に「リアル」が感覚として共有されたり、批評家によりその「虚構性」が曝かれたりした経緯を確認する。その後、フレームやコンテクスト、人称、視点といった批評装置を使い、演劇や映画との比較など行いつつ、「リアル」と「変さ」の問題を考察する。そこから見えてくると私が思うのは(そしてこれは必ずしも明示的には言われていないことかもしれないが)、著者がこだわっている違和感がどちらかというと「認識」にかかわるずれ、錯誤、居心地の悪さなどだということである。だからこそ、変人自慢にはならない。もしこれが「認識」よりも「情緒」を中心とした違和感であったなら、おそらく議論は別の方向に進んでいただろう。情動とか倫理性といった、現在、別の場で盛んに議論されている話に流れた可能性も高い。  本書でもそうした議論は、たとえば小林秀雄と志賀直哉の出てくるあたりでは触れられているが、主戦場は「認識」であり「認知」。たしかに佐々木が偏愛する作家たちの「変さ」のツボはそこにありそうだ。ふと世界がちがって見える、とか。いつの間にか別人になってしゃべる、とか。つまり、ひょいと言葉が飛び退いて「外化」「メタ化」が起きている。佐々木自身の批評家としての持ち味も、ハシゴの一番下までおりたのち、その段をまたのぼって(冒頭部の高橋源一郎批判もきわめて精緻だ)最終的にはひろびろと視界を得る、その柔軟なメタ志向と認知システムへの敏感さにある。  本書の第一部と第二部は時をおいて執筆されたこともあってやや問題意識が移行してしまった感もあるが、本としての統一感よりも「変さ」の追求を優先したということなのだろう。とくに私がおもしろく感じ、まだまだ議論がつづきそうな気がしたのは第二部第四章の語尾の問題と、渡部直己の『小説技術論』とからめての「描写」の問題である。近年、小説家の間からさえ、「描写って面倒くさいよね」という声を聞く。描写はとばす、という読者もいる。長らく「小説は描写」と言われてきたが、「リアル」とは何かという話ともつなげての「なぜ描写なのか」は興味尽きない話題だと思う。
・・・続きはこちら
高架線   滝口悠生
各駅停車の電車と木造アパートの二階の部屋   評者:片岡義男

 この長篇小説をひとりの読者として読み始めてすぐに僕はひとつの判断をした。これは東京の電車の話として読める、という判断だ。詳述は省略するが、東京は一日に何本とも知れない電車の規則正しい運行の総体だと僕は思っている。そんな僕にとって、東京の電車について小説で読めるのは、じつにうれしい。  新井田千一という男性の一人称の語りで、まず四分の一ほど続く。一人称の語りのせいだろう、きわめて平明でわかりやすく、そのわかりやすさは一定のところに保たれる。最初の語り手は西武池袋線の人だ。「西武池袋線で下って行って埼玉に入ったあたり」に彼の実家があり、幼少期から二十歳までそこで過ごしたという。 「池袋から西武線で下って、という言い方は、実家からも西武線の沿線からも離れて久しい今現在になってからの言い方で、かつては西武池袋線を上って池袋に出る感覚だった」  というような、上りと下りが逆転することにともなう意識の変化の丁寧な説明に、読者として僕は感心した。この引用や説明は、最初のパラグラフにある。  二〇〇一年、大学三年のとき、彼は実家を出てアパートでひとり暮らしを始める。大学の写真サークルの先輩から引き継いだ、汚くて古い木造のアパートで、部屋代は三万円、場所は東長崎の駅から江古田のほうへ歩いて五分の、かたばみ荘だ。うれしいではないか。東京の電車は木造のアパートと、僕の理解のなかでは分かちがたく結びついているのだから。  西武池袋線を、けっして知らないわけではない、という程度には僕も知っている。各駅停車しか停まらない東長崎はかなり知っている。あちこちに妙な土地勘がいまもある。二〇〇一年当時新しい駅舎にする工事は始まっていたという。以前からある駅舎の描写を一部分だけ引用しておこう。 「古い駅舎は柱も剝き出しのコンクリートでひびや染みが目立ったし、壁や屋根はトタンみたいな鉄板で錆びが浮いていた。床もタイルではなくてアスファルトみたいな黒っぽいやつで、全体に古びて陰気だった。私はそれがいやだったかと言うとそんなことはなく、むしろ好ましく思っていた」  かつての東長崎の駅の、このような部分を「むしろ好ましく」思う彼に僕は期待した。その期待にはすぐに応えがあった。築四十年の古くて汚い木造アパートである、かたばみ荘の描写を僕は引用したいのだが、それによってこの書評の文字数が制限を受けるのは避けたい。言及するだけにしておこう。  東京のあちこちを間断なく走り続ける数多くの電車と、東京のいたるところにいまもまだある木造のアパートの部屋は、わかりやすくたとえるなら三角形の二辺であり、三角形をかたち作って均衡させるもう一辺は、ほぼかならず、なんらかの性的な事柄だと僕は確信している。  十七歳の高校生としてまだ実家にいた頃、まず最初の語り手である彼、新井田千一は、半年ほどのあいだ、文通をしていた。文通相手の名は成瀬文香といい、この名前を彼は「なんだか艶っぽく官能的」だと受け取った。自分は二十五歳の看護婦だと、成瀬文香は手紙に書き、住所は札幌だった。  この文通の内容はおたがいに性的なことに終始し、「扇情的な文言」を書きつらねたという。彼は相手の写真を熱心に所望したがその思いはかなえられず、文通は半年で終わった。いくら彼から手紙を書き送っても、相手からの返信は途絶えたままだったからだ。しかしこの文通は彼に強い影響を残した。  アパートの二階の部屋に住むようになった彼には絵里子という恋人が出来た。初めて彼の部屋へ来た彼女は、「ここまでおんぼろとは思わなかった」と、その部屋を評したという。その彼女とはアパートの部屋で性的な関係も結ぶこともあった。かつての文通相手から届いた返信の内容を思い出して興奮し、絵里子に手をのばすこともあったけれど、彼の想像のなかでは「肉感的だった成瀬文香の体は、小さくて華奢だった絵里子の姿とはうまく重ならなくて、むしろ想像の成瀬文香が実在している絵里子を一瞬、圧倒しそうにもなった」と彼は語っている。これはあの文通が彼にあたえた影響のひとつなのか、それとも、彼はもともとそのような人なのか。読み手にとっては岐路に立つ自分を感じる部分だろう。ついでに書いておくと、この文通相手からはあとになって手紙が届き、中年の男性の写真が同封してあった。「成瀬文香は男性だった。成瀬文香は看護婦ではなかった」と、新井田は言っている。  彼はこの絵里子とやがて別れる。そしてそれ以後、恋人と呼べるような女性はいないままに、大学を卒業し、目黒にある小さな商社に就職する。絵里子に関しての言葉はきわめて少ない。かたばみ荘の古びた様子の具体的な描写や記述にくらべると、絵里子に関しては、これだけかよ、と驚くほど言葉は少ない。しかし、それだからこそ、ここから先の展開に関して、期待は高まる。いったい、なにがどうなるのか。  東長崎から目黒まで通勤出来ないことはないけれど、いま少し近いところへ、という思いから彼は馬込に引っ越す。かたばみ荘を出るにあたっては、次にそこに住む人を見つけて交代する、という不文律のようなものがあり、彼は大学の後輩を次の住人として確保する。この住人、片川三郎にアパートの部屋を引き渡したあとの、東長崎の駅まで歩くときの彼の気持ちが書いてある。これを読むと、その次を、さらに強く、読みたくなる。ここまでで三十ページだ。あとまだ二百ページある。こういうのを、読者の幸せ、と呼びたい。
・・・続きはこちら
通りすがりのあなた   はあちゅう
半径六三七八キロメートルの孤独   評者:岩川ありさ

 ブロガーとして知られるはあちゅうにとって初めての短編小説集に収められているのは、どれも一瞬触れあっては消えてゆく一期一会の物語だ。最初に置かれた「世界が終わる前に」では、語り手の「私」は、「書き留めておかないときっと近い将来、忘れてしまう」出来事について語りはじめる。私たちは、すでにこの時点で、時間は忘却をもたらすが、出会ったことは忘れないという、この短編集を貫く主題に引き込まれる。本書のすべての語り手は、忘れやすい自分に怯えながら、それでも出会った記憶を書き残そうとする。しかし、この怯えこそ私たちが何かを書く動機ではないだろうか。 「世界が終わる前に」で、「私」が思い出すのは、二〇〇六年の夏、交換留学で訪れた香港の大学で出会った、台湾系アメリカ人のマイケルのことだ。留学先で孤独を感じる「私」とは対照的にマイケルは「絵にかいたような人気者タイプ」。しかし、ひょんなことから親しく話をするようになった二人は、「男でも女でも、友達でも恋人でもない、新しい関係性を作」って行く。言葉の壁や育ってきたバックグラウンドなど様々な隔りを越えてゆく二人だが、「私」はマイケルの秘密を知る。マイケルは、陰謀論と言われても仕方がないような「世界の崩壊」を信じているのだ。留学を終え、一〇年が過ぎた頃、「私」は、フェイスブックで繫がったマイケルが、「深刻な精神の病気で療養中」だと知る。しかし、「私」は、人々が何と言おうとも、自分が今見ている世界と、彼の中にある世界は、隔りながらも、隣りあっているという立場を崩さない。孤独な世界と世界が触れあった瞬間、確かに二人は一人では生きられない新しい関係性を築いた。「私」はその瞬間を今でも憶えているのだ。しかし、時を経るほどに忘れそうになる。だからこそ、マイケルとの間に生まれたそのめぐり合わせを「私」は書き残そうとする。  この短編集のもう一つの主題は心と身体の密接な関係だろう。「妖精がいた夜」は、「心が傷ついている人」のための妖精派遣サービスをめぐる小説。「フェアリー」と呼ばれる「妖精」の女の子は、彼氏と別れてどん底にいる語り手の真美を手厚くケアする。息がかかるくらい近くで一緒に眠ってくれるフェアリーに、「何かを許されている気」がする真美は、他者のもとに飛び込むのが得意ではない人なのだろう。しかし、妖精がいた夜、彼女は、自死した、会社の先輩のことを思い出し、もっとじっくり色々な話をしていたら、もっと近くなれたかもしれないと後悔する。そのことに思い至るのは、疲れ果てた身体をケアしてくれるフェアリーの存在があったからだ。「六本木のネバーランド」でも、涙が出ないところまで追いつめられた「外資銀行マン」の森さんに一枚のバタートーストの効用を説く語り手が登場する。森さんは、ニューヨーク出張の間、六本木の自室を彼女に貸してくれていたが、心身ともにぼろぼろに。お礼として彼女が森さんに送るのは人生で一回だけ使える非常用ボタン。心が折れそうなときにメールをくれたら、いつでも会いに行く約束だ。それは遠くて近い関係性が生む生命線だ。 「あなたの国のわたし」は、イギリス育ちの日本人の友人・マリアをめぐる小説。語り手の「私」は、マリアの「名言」を「マリア語録」として書きとめている。間違いとされる言葉の面白さを感じながら、マリアの日本への思い込みを解きほぐしてゆく「私」はまるでマリアの姉のよう。しかし、マリアの故郷のイギリスに行くとこれが逆転する。自分の当たり前が崩れたところで生まれる新しい関係性がそこには立ち現れる。一七歳の夏にパナマに留学した女性が語り手の「友達なんかじゃない」にも、「いろんなものが逆転してしまう」という言葉がさりげなくはさまれている。確かに、私たちは、場所や文脈によってまったく違う見方をする。思い込んだり、身構えたり、鎧うこともある。だからこそ、たやすく名前をつけずに、出会った他者を虚心になって見つめることはできないか。別の関係性を作れないか。語り手の「私」が見出したのは、「一生忘れない人」という言葉だ。確かにこれならば、友だちではなくても、いつまでも大切な人でいられる。 「サンディエゴの38度線」は、東京で出会ったアメリカ人の留学生・イーサンに誘われてサンディエゴで一夏を過ごすマナミの物語。イーサンのルームメイトのアレックスは、韓国系アメリカ人で、イーサンとはソウルメイトというくらい気があう。しかし、アレックスは危険な行為をして刹那的な生活をするように。イーサンの方も、就職活動がうまく行かずに苛立っている。二人のベッドルームは互いに不可侵で、その境界のことを「軍事境界線、38度線」と呼んでいる。イーサンと別れて、日本に帰ることにしたマナミがアレックスにいうのは、「I like you」という言葉。「See you(またね)」ではなく、「Thank you(ありがとう)」。一期一会の寂しさと喜びがここにはある。  この短編集の最後に置かれているのが、「世界一周鬼ごっこ」。就職活動を終え、卒業を残すのみになった大学生・朝井リサは、高校時代からの夢だった世界一周旅行に出る。ボリビアの首都ラパスで高山病にかかった彼女を助けたのは世界二周目をはじめたばかりのコウさん。彼は鬼ごっこのようにリサの一つ先の滞在地へと逃げて行く。どこにいても何かを背負って生きていることに気がつく二人の鬼ごっこは人生そのものの比喩のよう。それはどこまで続き、誰に会えば終わるのだろう。地球の赤道半径は約六三七八キロメートル。その中で私たちは孤独だ。それでも、かつて出会った誰かが、私を、あなたを生かしてくれることがある。その瞬間、「通りすがりのあなた」はかけがえのない存在になる。この短編集にはその可能性を希求する祈りがある。
・・・続きはこちら

日曜日の人々(サンデー・ピープル)

評者:江南亜美子

告白

評者:平野啓一郎

さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神

評者:木村紅美

キッズファイヤーー・ドットコム

評者:武田砂鉄

モンテーニュの書斎 『エセー』を読む

評者:野崎 歓

もう生まれたくない

評者:山城むつみ

ホサナ

評者:上田岳弘

再起動

評者:松浦寿輝

野良猫を尊敬した日

評者:雪舟えま

天空の詩人 李白

評者:田中芳樹

カント 美と倫理とのはざまで

評者:大澤真幸