野良猫を尊敬した日   穂村 弘
ほむらさんと二種類の幸福   評者:雪舟えま

 本書に登場する人びとは皆魅力てきなエピソードをもっている。奥さんや友人や仕事で会う人だけでなく、ひととき近くに居合わせただけの人からも、穂村弘はそのユニークさを見逃すことなくすいっと抽出する。この世の人間関係のルール(?)として、自分とどこか引きあったり、釣りあいのとれた相手としか出会わないし、関係もつづかないものだ。素敵な人が周囲に集まるということは、「ほむらさん」自身が素敵だからなのだけど、当人はそれを知ってか知らずか、自身の言動を顧みては「僕は駄目だなあ」てきなことばかりいっているので、えーなんで? と笑ってしまう。『野良猫を尊敬した日』は、ほむらさんの魅力が空回りする……ように見せかけて、華麗な三回転半で読み手の胸に飛びこんでくる、そんな愛おしいエッセイ集だ。  天職に就いている人たちの、仕事へのエネルギッシュでパンチの効いた発言と、噓ではないが気弱な自分の発言を比較して、「駄目なんだ」と思うほむらさん。電車の故障で新幹線への乗り換えの時間がないときに、ほかの乗客のように行動を即決できない自分を「恰好悪い」と思うほむらさん。病院で、採血の下手なナースに「代わって欲しい」の一言がいえないほむらさん。そんな彼が憧れるのはもちろん、「迷いの無さ、静かな自信、これで良いという思い込み、などを自然に備えた人」だ。そういう人に出会うと、「眩しさのあまりつい見つめてしまう」くらいに惹かれる。  ある人が、自分で「よい」と思いこんでいることをあきらかにするとき、その意外さに、既知の世界が更新されるのを感じることがある。引っ越しの話題で盛りあがっている場で、落ちついた表情で「僕は西日が好きだから」といった友人に、ほむらさんはしびれる。「南向きとか東南角とか」がこのましいとされる世間一般の価値観から自由なこの友人は、ナチュラルな魅力にあふれた人物なのだろうなあと想像する。  ある冬の明け方、ほむらさんはネット上で友人がリアルタイムな書きこみをしているのに気づく。そこには、いまおなじ時間に起きている人への「おはようございます」という呼びかけがあり、空を眺めながらコーヒーとチョコレートを味わい、鳥の声に耳を澄ませているということが淡々と書いてあった。こんな素敵な時間にはもう「いろんな望みは平べったくなってしまっていい」とまで述べられており、ほむらさんはその言葉の意味について考え│「気づかぬうちにもう望みは叶っているってことかもしれない」と思いいたる。そして、この書きこみから、ほむらさん自身も「どうしてか、今までそのことを忘れていたのだ。私の人生はこんなにも幸福に充たされているのに」と気づく。  その感覚をもって近所を歩いてみれば、見慣れたものがなんと新鮮に映ることか。コンビニの「卵サンド」や「濃厚チーズ鱈」がたまらなく美味しそうに見え、食べてみると「うまっ、うまっ」と声をあげてしまうほど美味しい。さらに、これを「外国に輸出したらどうだろう」「ノーベルおつまみ賞だ」と空想はのびのび広がる。  幸福には二種類ある。ひとつは、現代の私たちの大半がそれを「幸せ」であると教えられて育ってきたもの│達成したり、獲得したり所有したり、勝利したり、進化や成長や向上を認められたりといったことだ。これらの多くは自分と他者を比較することで感じる幸福であり、失敗や喪失や不足や敗北への恐れ、劣等感や停滞感と表裏一体のワンセットになっている。私たちは、ありのままの自分でいることがどうにもこうにも居心地わるいらしく、つねにいまの自分になにかをプラスしつづけていなければ落ちつかない。  もうひとつの幸福が、ネットで冬の早朝の書きこみをした友人の味わっていた幸福であり、ほむらさんが卵サンドに突進し、チータラを輸出したならと子どものような空想をくり広げたときの幸福だ。こちらの幸福の根拠には他者との比較はない。ただ自分が自分であることで満たされ、「世界」と呼ばれるこの空間で胸が満たされ、「気づかぬうちにもう望みは叶って」いたとさえ思える。  後者のタイプの幸福を、ほむらさんはたびたび強く実感する。ひどい風邪から回復したとき、「熱がないってなんて気持ちいいんだろう。それだけでもう何も要らない」と思うのだ。これも自分が自分である状態に戻れたよろこびだといえる。私たちは特別なプラスがなくても、「いやなことがない」だけで│マイナスからゼロのポイントに戻るだけで、じゅうぶん幸福を感じるようにできているらしい。  後者の満ちたりた幸福の中にあるとき、自分やこの世界にはなにも欠けたところがなく完璧だと感じ、私たちはゼロにしてすべてとでもいうべきものになっているのではないか。「この気持ちを壊さないように生きてゆきたい」とほむらさんは願うのに、切ないことに長くはつづかない。なぜなのだろう? それは、たとえば、卵サンドやチータラといっしょに購入した本『日本のタブーThe Best 知らなかったあなたが悪い!』の影響かもしれない。そこには「激安メニューが危ない!」「『アイツ消したれ!』紳助に睨まれた獲物たち」「フリーアナが稼ぎだす年収を完全暴露」といった、世間の価値観、他者との比較の世界の情報があった。それに触れることで、無邪気に境界なく拡大していたほむらさんのハートが冷たく萎縮していく感じが伝わってきた。  二種類の幸福といったが、どちらがよくてどちらがわるいというものではない。併存するのがいまの地球で、それで完璧ということなのだろう。現代社会では圧倒てきに前者の幸福を求めることが多いように見えるが、逆転していく時代も来るのだろうか。
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天空の詩人 李白   陳 舜臣
天空の詩仙、地上の文仙   評者:田中芳樹

 陳舜臣(以下、敬称略)は、一般に中国人作家と思われている。しかし国籍に関しては後年に日本に帰化しているし、精神的には逆に国籍や国境などにかかわりない国際人、世界人であった。いや、いっそ「地球人」と呼ぶべきかもしれない。「万邦和平」、「四海同胞」を理想とし、実践した人生であった。  その地球人が最後に遺した未完の大業が、この『天空の詩人 李白』である。その執筆意図は、著者本人が冒頭部分に明記しているが、「……これからかきたい人物として、彼を心の中で温存していたのである。/なぜ李白に興味をもったのか?/彼はわからない人物だったからである」とある。  もともと陳舜臣は、『枯草の根』によって江戸川乱歩賞を受賞し、推理小説家として、いわゆる文壇にデビューした。「わからない」から「興味をもつ」のは、当然のことであり、興味あるがゆえに謎を解明しようとするのは、自然なことであった。  著者の筆は、李白の出自から始まり、ときとして「生年不詳」とされるその生年を、西暦七〇一年と確定する。さらに、当時の唐帝国の気風がボーダーレスであったことを述べ、「唐は内部にさまざまな問題をかかえていたが、境域を越えた世界帝国であった。そしてその時代を象徴する詩人が李白であったといえるだろう」と、ひとまず結論づける。「ひとまず」と記したのは、本書が未完に終わったため、もし完成を見たとき、最終的な結論がどのようになったか、何がつけ加えられたか、測り知れないからである。未完に終わったことは、真に惜しまれる。  ひとまずの結論が出た後、著者は李白の詩を紹介しつつ、彼の生涯をたどっていくが、それは時制に沿ってではない。そもそも謎の多い人物なので、処女作がどれかもわかっていないのである。かくして著者の筆はのびやかに、著者自身の興味のおもむくまま、神韻縹渺たる作品の数々を訪ね歩いていく。著者は李白とともに豊饒な漢詩の世界を旅し、読者もそれにしたがって時空を超えた旅をつづけることになる。  旅の最初の宿は「子夜呉歌」である。著者は「誰でも知っている詩」と記しているが、残念ながら漢文文化が絶滅寸前の今日にあっては、そのように断言はできない。だが、李白入門の第一歩としては、なおふさわしい。それも『唐詩選』にあげられた秋の詩からはじめるというのは、陳舜臣の、李白詩案内人としての自覚を証しているように思われる。  戦後、とくに国交回復後の日中文化交流において、陳舜臣はつねに最先端の、しかも普遍的な嚮導役であり、後進にとっては仰ぎ視る巨星であった。『中国の歴史』や『小説十八史略』を読まずして、中国歴史小説を手がけた者がいるであろうか。陳舜臣の知識の膨大さはいまさら言及するまでもないが、文章の「読みやすさ」もまた確認しておきたい。  秋の歌は「長安一片月」という不朽の名句から始まって、「良人罷遠征」に終わるが、六行の間に「擣衣」「玉關」「胡虜」等の語があって、これらを一読理解できる人は、今日きわめて少なかろう。だが、陳舜臣の記述を読めば理解できる。千三百年の昔の都市の風景と女性の心情とが、あざやかなイメージとなって読者の胸中によみがえるのだ。千三百年後の今日なお、「良人罷遠征」の句に共感する人は絶えない。昨今の不穏な世情にあってはなおさらであり、それをこそ普遍と称するのであろう。  旅はつづき、「白髮三千丈」に達する。三千丈は約九キロの長さで、むろん現実に人間の髪がこの長さになることはありえない。この表現をもってして、「リアリズムの欠如」と評するのはまだしも、「だから中国人は大げさで噓つきだ」という者が実在するのは、文学的修辞や比喩を理解できない者が、みずから恥をさらしている、ということである。陳舜臣はつぎのように書く。 「ここで私たちは李白の視線が、遥かの高みから下界を見下ろすことを理解する」。「このとき白く光る長江の遠景はとうぜん細くなり、彼の白髪と、一瞬、合体したのだ」  この記述は、評者(田中)に強いショックを与えた。蒙昧な評者は、「白髮三千丈」が修辞であることは理解できても、なぜ李白がそのような表現を用いたのか、「天才の業」としたのみで、それ以上、考えおよばなかったのである。そのことを読みやすく教えられてしまった。まさに赤面の至り。  李白を訪ねる旅はなおもつづき、「誰家玉笛暗飛聲」、「螢飛秋窓滿」、「峨眉山⺼半輪秋」、「五陵年少金市東」……と、めくるめく名句を巡っていくが、ひとつひとつ説いていくには紙数がたりなすぎる。グスタフ・マーラーの交響曲「大地の歌」第四楽章が、李白作品のドイツ語訳から着想を得た、という第二のショックをもって、ひとまず『天空の詩人 李白』については語るのをやめよう。  ただ、この書には大きな付録がついている。『澄懐集 甲子篇』と乙丑篇がそれであって、陳舜臣自身の創作になる漢詩集である。これには、あとがきがついており、活字でなく自筆のままおさめられているので、ひときわ親愛の情をもたらす。 「漢詩は平仄や韻など約束ごとが多いが(中略)自分の想いが、ふしぎなほどすなおに表現されてしまう」  という一文が、まさしくすなおにうなずけるが、個人的には、世界各地を旅行したときに「偶成」された諸作が印象的であった。これは文字の魔術であって、「夕拉茲」、「貝多芬」などの漢字表現が愉しい、というレベルのものであり、読者はもっと高いレベルで愉しんでほしい。  最後に。陳舜臣は自身を「文狂」と称している。だが不肖の後進からすれば、李白が「詩仙」なら陳舜臣は「文仙」であろう。
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カント 美と倫理とのはざまで   熊野純彦
自然は人間に目くばせしている   評者:大澤真幸

 本書の最初の章にこうある。古典的な哲学書を読みとくことで、ひとは「世界をそのつどべつの視点から生きつづけてゆくことができる」と。古典的な哲学書の読解は、世界を反復的に生きなおす経験だ、と。そして本書は、カントの第三批判、『判断力批判』を徹底的に読みぬくことで、われわれ読者に、まさにそうした生の反復を体験させる力を秘めている。 『判断力批判』は、直感的判断(趣味判断)について論じたテクストだとされている。だが、カントの第三批判に賭けられていることは、本書で著者が示しているところに従えば、美学的な主題よりも広い。いや、人間が生きる上でどうしてもぶつからざるをえない、不可避的で普遍的な問いが、『判断力批判』の思考を駆り立てている。世界は、われわれを受け入れているのか。世界のなかでわれわれの存在は有意味なのか。  この問いが、趣味(美しいものを判定する能力)とどう関係しているのか。本書のカント読解の流れにそって説明しよう。  まずは、趣味判断あるいは美とは何か。これが、カントの「カテゴリー表」の四つの契機に即して検討されるのだが、中でも重要な命題が、「関係」の契機における美の定義。美とは目的なき合目的性である、と。有名な言明だが、わかりやすくはない。たとえば机は、特定の目的(その上で文書を作成する等)にふさわしい形や機能をもつ(目的のある合目的性)。美しいものは、しかし、何か目的に依存して存在しているわけではない。にもかかわらず、対象に対して、「ふさわしい」という心地よい印象をもつことがある。それが「美しい」ということだ。特定の目的はないのに、合目的性の形式だけはある。趣味判断に関して、もうひとつ留意しておいたほうがよいことは、「量」の契機との関連でいわれること。趣味判断は、主観的なものだが、普遍性への要求をともなっている。  ところで、カントにとって、「悟性(認識能力)がかかわる自然の領域」と「理性(欲求能力)がかかわる自由の領域」を峻別することは死活的に重要である。自然の傾向性から、自由な主体が従うべき道徳法則を導くことはできない。世界は有意味な生を可能にしているのか、といった問いに直接的に関係するのは、倫理に関連した自由の領域である。ここで自由とは、別の目的の手段としてではなく、自らを目的として行為すること。  自然と倫理とを厳然と区別しなくてはならない。とすると、しかし、困ったことが生ずる。では、世界の中のどこに自由概念が位置づけられるのか。自由や目的が棲まう場所はどこにあるのか。ここで、判断力が、自然と倫理の二つの領域を縫合する役割を果たす。  悟性は、普遍的なもの(規則)を認識する能力。理性は、普遍的なものによって特殊なものを規定する能力。それらに対して、判断力は、普遍的なもののもとに特殊なものを包摂する能力である。とくに、普遍的なものがあらかじめ与えられていないときの判断力を反省的判断力と呼ぶ。反省的判断力は、無限の多様性を呈する自然を、一個の秩序としてとらえようとする。このとき、自然そのものがなんらかの原理にしたがって差異化したり、種別化したりしていることが前提にされる。こうして、反省的判断力は、自然の根底に合目的性をおくことになる。「目的」が、反省的判断力によって、自然のうちに措定されるのだ。趣味判断は、反省的判断の一種である。いわば、美によって、自然と自由が架橋されるのである。  しかし、これで問題が解決したわけではない。直感的判断力が見出す合目的性は、主観的なものにすぎない。客観的で実質的でそして内的な合目的性はあるのか。要するに、自然そのものに内的な目的があるのか。それを判定するのが、目的論的判断力である。  だが、自然そのものについて「目的」なるものを簡単にはいえない。たとえば結晶は精妙で技巧的で美しくもあるが、それを、目的概念によって説明してはならない。「自然の目的」はあるのか。それはどのような意味で認められるのか。この論点をめぐる本書の──カントを読み解きつつ続けられる──最後の三分の一の展開は、苦難に満ちた登山を思わせる。少しずつ高い場所にベースキャンプを設置して、頂上を目指す。苦労の末に前進し、ここはもう頂点かと思うと、そのたびに、「いやまだだ」といわれ、再出発する。だが、登山自体にも楽しみがあり、登頂するまでの過程で、「目的論的判断力のアンチノミー」等の興味深い概念やアイデアに、たくさん出会う。  最後に結論が導かれる。ヌーメノン(思考する者)としての人間こそが、世界創造の究極的目的である、と。ほんとうか。多分、著者もこの結論には、微妙な疑いを残している。だが、正しいとすれば喜ばしい。人間は世界に歓迎されている、ということになる。  本書は、緻密な論理の積み重ねによって、読者をここまで連れてくる。説得力の最も大きな源泉は、しかし、論理よりも直感にある。自然の中の美しいものの普遍的な妥当根拠を問う演繹の中で、自然は「超感性的な次元」の存在を仄かに暗示する。自然が人間に「目くばせ」を送っている。この比喩が、本書で繰り返し登場する。自然のこの好意が幻想ではないことを示すために、論理がある。  以上に紹介してきた展開に、乱調があるとすれば、「崇高」が登場する場面だろう。崇高な対象は、美的な対象とは違い、まずは、反目的性として、不快なこととして現れるからである。カントによれば、崇高なものは、人間の超感性的な使命の感情を呼びおこすというかたちで、メタレベルの合目的性に取り戻されはする。しかし、この展開は我田引水的だ。むしろ、崇高さには、思索の展開を別の方向に導く開口部があったようにも思える。  ともあれ、以上の簡単な紹介からも感じられようが、本書は確かに稀有なレベルの充実した読書体験を与えてくれる。『判断力批判』と並んで、本書自体が、生を見なおし、世界を編みなおすもうひとつの古典となろう。
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