再起動   岡本 学
システム神学をめぐるニーチェ的寓話   評者:松浦寿輝

 何ともかとも生きづらい。どうあがいても楽になれない。ならばいっそ自分自身をいったんシャットダウンし、そのうえで再起動してみたらどうか。その際、ちょうどコンピュータを「セーフモード」で立ち上げるように、いつの間にか自分に付け加わってしまった余計な機能──気遣い、自尊心、見栄、猜疑心、ねたみ、ひがみ、心配、不安、さらには自殺念慮、等々──はぜんぶオフ設定にしたまま、必要最低限の機能だけが使える状態でリブートする。そうしたらどれほどの安息が訪れることだろう。さあ、みんなで楽になりましょう。  岡本学『再起動』の表題作の語り手にして主人公の「僕」は、そんなシンプルな教義を掲げる「リブート教」を創設する。いや、創設というよりむしろ、もともとシステム・エンジニアリングのベンチャー企業を経営していた彼にふさわしく、宗教もどきの一システムを「設計」し「構築」したと言うべきかもしれない。当然、「僕」は教祖ではない。システムが滞りなく作動しつづけることに挺身する単なるサポート・スタッフ、すなわち「ヘルプデスク」でしかない。目的はむろん衆生の救済ではなく金儲けビジネスであるが、欲をかいて過分なお布施を信徒に強要したりはせず、三千円という控えめな月額会費を徴収するにとどめる。「これは新聞購読料を目安にそれより安く設定した値段だった」。入退会は自由で無理な勧誘もしない。かくしてシステムはきわめて慎重に、巧妙に、合理的に設計され構築された。  その甲斐あってこのインチキ宗教ビジネスは予想外の成功を収める。そこまではよかった。ところが、あろうことか自分は本当に「再起動」し遂げたと称する信者が出現するに至って、システムは自壊の様相を呈しはじめる。もともと「再起動」の観念など、いい加減な思いつき、口実、与太、でまかせのはずだった。なのに、心底本気の「再起動者」が現われ、あまつさえその数がどんどん増えてゆくとは、こはいかに。たちまち地域共同体との軋轢、警察の介入、思惑絡みの第三者の容喙など、新興宗教に付きものの様々な困難がどっと「僕」に襲いかかってくる。 「リブート教」なるシステムの基盤をなすのは、煩悩の苦しみから解脱の浄福へと至る目的論的ストーリーであるが、ただし解脱の境地としての「再起動」は、決して到達されてはならない最終ゴールでもある。システムがシステムとして機能するために、システムの目的の実現自体はどこまでも先送りされつづけなければならない。これは設計思想の中に織り込み済みの、明快にして衛生無害な逆理にすぎないはずだった。ところが、システムが匿名の諸力に衝き動かされ、設計・構築主体の思惑を裏切って野放図に暴走しはじめるや、安全弁の役割を担うはずだったこの逆理はうち砕かれ、システムは崩壊の危機にさらされる。  そのとき物語は「設計編」「構築編」「完成編」に続く最終段階の「運用編」に突入する。今やシステムにはメンテナンスが必要だ。どうやら不具合と不安定化を引き起こしている厄介なバグか何かが存在するらしい。つまるところ、他ならぬ「僕」自身こそそれだったという残酷な真実が告げられる。「あなたの役割は終わりましたよ」。自己目的化した完成形態へのプロセスを自律的に追求しはじめたオートポイエティックなシステムにとって、みずからの設計と構築に関与した人間主体とは今や、排除しなければならない邪魔者でしかない。いや、わざわざ排除するまでもない。主体それ自身をリブートし、緑色の輝きに包みこんでシステム内部に同化吸収してしまえばいいだけのことだ。「僕の、再起動だ」。そのとき、「再起動」の概念は「死」のそれへとかぎりなく接近する。  無駄のない簡潔な文章で綴られてゆくこのきわめて「現代的」な寓話がわれわれに授けてくれるのは、システム論的世界観はその完成可能性の保証と引き換えに、破綻への過程の萌芽を必然的に抱え込むほかはないという教訓だろう。その必然性の土台をなすものは、人間は結局人間でしかないという絶望的に退屈なトートロジーでしかない、と言ってしまってはシニカルにすぎるか。結局、自身が残る隈なくシステム化されてしまうのに耐えられるほど強い人間など、「僕」も含めて誰もいはしないのだ。そんな弱者にとっては、気遣い、自尊心、見栄、猜疑心等、一見不必要と見えたあれらの「付加的」機能こそが実は、生への執着を可能にする「本質的」機能だったのか。さもなければ、「人間」の概念自体のまったく新しい定義を模索するほかないのか。  本書にはもう一篇、「高田山は、勝った」と題する洒落た短篇が収録されており、これもまた、システム設計者がシステムに裏切られ、敗北してゆく物語である。考えてみれば、岡本学の前作『架空列車』もまたまったく同じ主題による物語にほかならなかった。情報工学の専門家である岡本氏は、どうやら彼の内奥に潜む根深いオブセッションを粘り強く追求し、それにアレゴリカルな表現を与えようと試みつづけている気配である。 「再起動」の「僕」は最後に「緑色の、なでるような、やさしい光」に出会い、「高田山は、勝った」の主人公は「神は確かにいる」という認識に達して思わず頭上を見上げる。アインシュタインの言ったように神はサイコロを振らず、しかしその代わりに、システムを徹底的に管理し運用し、合理非合理の二元論を超えた究極の厳密さで統制しつつ、しかも時として人間には窺い知れない気紛れでそこに突拍子もない偶発事を導入し、かくしてわれわれ無知な衆生を嘲笑しているかに見える。「人間」の再定義と先に言ったが、ひょっとしたら希望は、人間=システムの残る隈なき合体と融合の果てに垣間見える、「超人」の誕生の可能性にあるかもしれない。そう考えるとき、本書『再起動』は、システム工学ならざるシステム神学とでも言うべきものの背徳的な教理の輪郭を粗描する、ニーチェ的寓話なのではないかという妄念が頭を掠めずにはいない。
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野良猫を尊敬した日   穂村 弘
ほむらさんと二種類の幸福   評者:雪舟えま

 本書に登場する人びとは皆魅力てきなエピソードをもっている。奥さんや友人や仕事で会う人だけでなく、ひととき近くに居合わせただけの人からも、穂村弘はそのユニークさを見逃すことなくすいっと抽出する。この世の人間関係のルール(?)として、自分とどこか引きあったり、釣りあいのとれた相手としか出会わないし、関係もつづかないものだ。素敵な人が周囲に集まるということは、「ほむらさん」自身が素敵だからなのだけど、当人はそれを知ってか知らずか、自身の言動を顧みては「僕は駄目だなあ」てきなことばかりいっているので、えーなんで? と笑ってしまう。『野良猫を尊敬した日』は、ほむらさんの魅力が空回りする……ように見せかけて、華麗な三回転半で読み手の胸に飛びこんでくる、そんな愛おしいエッセイ集だ。  天職に就いている人たちの、仕事へのエネルギッシュでパンチの効いた発言と、噓ではないが気弱な自分の発言を比較して、「駄目なんだ」と思うほむらさん。電車の故障で新幹線への乗り換えの時間がないときに、ほかの乗客のように行動を即決できない自分を「恰好悪い」と思うほむらさん。病院で、採血の下手なナースに「代わって欲しい」の一言がいえないほむらさん。そんな彼が憧れるのはもちろん、「迷いの無さ、静かな自信、これで良いという思い込み、などを自然に備えた人」だ。そういう人に出会うと、「眩しさのあまりつい見つめてしまう」くらいに惹かれる。  ある人が、自分で「よい」と思いこんでいることをあきらかにするとき、その意外さに、既知の世界が更新されるのを感じることがある。引っ越しの話題で盛りあがっている場で、落ちついた表情で「僕は西日が好きだから」といった友人に、ほむらさんはしびれる。「南向きとか東南角とか」がこのましいとされる世間一般の価値観から自由なこの友人は、ナチュラルな魅力にあふれた人物なのだろうなあと想像する。  ある冬の明け方、ほむらさんはネット上で友人がリアルタイムな書きこみをしているのに気づく。そこには、いまおなじ時間に起きている人への「おはようございます」という呼びかけがあり、空を眺めながらコーヒーとチョコレートを味わい、鳥の声に耳を澄ませているということが淡々と書いてあった。こんな素敵な時間にはもう「いろんな望みは平べったくなってしまっていい」とまで述べられており、ほむらさんはその言葉の意味について考え│「気づかぬうちにもう望みは叶っているってことかもしれない」と思いいたる。そして、この書きこみから、ほむらさん自身も「どうしてか、今までそのことを忘れていたのだ。私の人生はこんなにも幸福に充たされているのに」と気づく。  その感覚をもって近所を歩いてみれば、見慣れたものがなんと新鮮に映ることか。コンビニの「卵サンド」や「濃厚チーズ鱈」がたまらなく美味しそうに見え、食べてみると「うまっ、うまっ」と声をあげてしまうほど美味しい。さらに、これを「外国に輸出したらどうだろう」「ノーベルおつまみ賞だ」と空想はのびのび広がる。  幸福には二種類ある。ひとつは、現代の私たちの大半がそれを「幸せ」であると教えられて育ってきたもの│達成したり、獲得したり所有したり、勝利したり、進化や成長や向上を認められたりといったことだ。これらの多くは自分と他者を比較することで感じる幸福であり、失敗や喪失や不足や敗北への恐れ、劣等感や停滞感と表裏一体のワンセットになっている。私たちは、ありのままの自分でいることがどうにもこうにも居心地わるいらしく、つねにいまの自分になにかをプラスしつづけていなければ落ちつかない。  もうひとつの幸福が、ネットで冬の早朝の書きこみをした友人の味わっていた幸福であり、ほむらさんが卵サンドに突進し、チータラを輸出したならと子どものような空想をくり広げたときの幸福だ。こちらの幸福の根拠には他者との比較はない。ただ自分が自分であることで満たされ、「世界」と呼ばれるこの空間で胸が満たされ、「気づかぬうちにもう望みは叶って」いたとさえ思える。  後者のタイプの幸福を、ほむらさんはたびたび強く実感する。ひどい風邪から回復したとき、「熱がないってなんて気持ちいいんだろう。それだけでもう何も要らない」と思うのだ。これも自分が自分である状態に戻れたよろこびだといえる。私たちは特別なプラスがなくても、「いやなことがない」だけで│マイナスからゼロのポイントに戻るだけで、じゅうぶん幸福を感じるようにできているらしい。  後者の満ちたりた幸福の中にあるとき、自分やこの世界にはなにも欠けたところがなく完璧だと感じ、私たちはゼロにしてすべてとでもいうべきものになっているのではないか。「この気持ちを壊さないように生きてゆきたい」とほむらさんは願うのに、切ないことに長くはつづかない。なぜなのだろう? それは、たとえば、卵サンドやチータラといっしょに購入した本『日本のタブーThe Best 知らなかったあなたが悪い!』の影響かもしれない。そこには「激安メニューが危ない!」「『アイツ消したれ!』紳助に睨まれた獲物たち」「フリーアナが稼ぎだす年収を完全暴露」といった、世間の価値観、他者との比較の世界の情報があった。それに触れることで、無邪気に境界なく拡大していたほむらさんのハートが冷たく萎縮していく感じが伝わってきた。  二種類の幸福といったが、どちらがよくてどちらがわるいというものではない。併存するのがいまの地球で、それで完璧ということなのだろう。現代社会では圧倒てきに前者の幸福を求めることが多いように見えるが、逆転していく時代も来るのだろうか。
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天空の詩人 李白   陳 舜臣
天空の詩仙、地上の文仙   評者:田中芳樹

 陳舜臣(以下、敬称略)は、一般に中国人作家と思われている。しかし国籍に関しては後年に日本に帰化しているし、精神的には逆に国籍や国境などにかかわりない国際人、世界人であった。いや、いっそ「地球人」と呼ぶべきかもしれない。「万邦和平」、「四海同胞」を理想とし、実践した人生であった。  その地球人が最後に遺した未完の大業が、この『天空の詩人 李白』である。その執筆意図は、著者本人が冒頭部分に明記しているが、「……これからかきたい人物として、彼を心の中で温存していたのである。/なぜ李白に興味をもったのか?/彼はわからない人物だったからである」とある。  もともと陳舜臣は、『枯草の根』によって江戸川乱歩賞を受賞し、推理小説家として、いわゆる文壇にデビューした。「わからない」から「興味をもつ」のは、当然のことであり、興味あるがゆえに謎を解明しようとするのは、自然なことであった。  著者の筆は、李白の出自から始まり、ときとして「生年不詳」とされるその生年を、西暦七〇一年と確定する。さらに、当時の唐帝国の気風がボーダーレスであったことを述べ、「唐は内部にさまざまな問題をかかえていたが、境域を越えた世界帝国であった。そしてその時代を象徴する詩人が李白であったといえるだろう」と、ひとまず結論づける。「ひとまず」と記したのは、本書が未完に終わったため、もし完成を見たとき、最終的な結論がどのようになったか、何がつけ加えられたか、測り知れないからである。未完に終わったことは、真に惜しまれる。  ひとまずの結論が出た後、著者は李白の詩を紹介しつつ、彼の生涯をたどっていくが、それは時制に沿ってではない。そもそも謎の多い人物なので、処女作がどれかもわかっていないのである。かくして著者の筆はのびやかに、著者自身の興味のおもむくまま、神韻縹渺たる作品の数々を訪ね歩いていく。著者は李白とともに豊饒な漢詩の世界を旅し、読者もそれにしたがって時空を超えた旅をつづけることになる。  旅の最初の宿は「子夜呉歌」である。著者は「誰でも知っている詩」と記しているが、残念ながら漢文文化が絶滅寸前の今日にあっては、そのように断言はできない。だが、李白入門の第一歩としては、なおふさわしい。それも『唐詩選』にあげられた秋の詩からはじめるというのは、陳舜臣の、李白詩案内人としての自覚を証しているように思われる。  戦後、とくに国交回復後の日中文化交流において、陳舜臣はつねに最先端の、しかも普遍的な嚮導役であり、後進にとっては仰ぎ視る巨星であった。『中国の歴史』や『小説十八史略』を読まずして、中国歴史小説を手がけた者がいるであろうか。陳舜臣の知識の膨大さはいまさら言及するまでもないが、文章の「読みやすさ」もまた確認しておきたい。  秋の歌は「長安一片月」という不朽の名句から始まって、「良人罷遠征」に終わるが、六行の間に「擣衣」「玉關」「胡虜」等の語があって、これらを一読理解できる人は、今日きわめて少なかろう。だが、陳舜臣の記述を読めば理解できる。千三百年の昔の都市の風景と女性の心情とが、あざやかなイメージとなって読者の胸中によみがえるのだ。千三百年後の今日なお、「良人罷遠征」の句に共感する人は絶えない。昨今の不穏な世情にあってはなおさらであり、それをこそ普遍と称するのであろう。  旅はつづき、「白髮三千丈」に達する。三千丈は約九キロの長さで、むろん現実に人間の髪がこの長さになることはありえない。この表現をもってして、「リアリズムの欠如」と評するのはまだしも、「だから中国人は大げさで噓つきだ」という者が実在するのは、文学的修辞や比喩を理解できない者が、みずから恥をさらしている、ということである。陳舜臣はつぎのように書く。 「ここで私たちは李白の視線が、遥かの高みから下界を見下ろすことを理解する」。「このとき白く光る長江の遠景はとうぜん細くなり、彼の白髪と、一瞬、合体したのだ」  この記述は、評者(田中)に強いショックを与えた。蒙昧な評者は、「白髮三千丈」が修辞であることは理解できても、なぜ李白がそのような表現を用いたのか、「天才の業」としたのみで、それ以上、考えおよばなかったのである。そのことを読みやすく教えられてしまった。まさに赤面の至り。  李白を訪ねる旅はなおもつづき、「誰家玉笛暗飛聲」、「螢飛秋窓滿」、「峨眉山⺼半輪秋」、「五陵年少金市東」……と、めくるめく名句を巡っていくが、ひとつひとつ説いていくには紙数がたりなすぎる。グスタフ・マーラーの交響曲「大地の歌」第四楽章が、李白作品のドイツ語訳から着想を得た、という第二のショックをもって、ひとまず『天空の詩人 李白』については語るのをやめよう。  ただ、この書には大きな付録がついている。『澄懐集 甲子篇』と乙丑篇がそれであって、陳舜臣自身の創作になる漢詩集である。これには、あとがきがついており、活字でなく自筆のままおさめられているので、ひときわ親愛の情をもたらす。 「漢詩は平仄や韻など約束ごとが多いが(中略)自分の想いが、ふしぎなほどすなおに表現されてしまう」  という一文が、まさしくすなおにうなずけるが、個人的には、世界各地を旅行したときに「偶成」された諸作が印象的であった。これは文字の魔術であって、「夕拉茲」、「貝多芬」などの漢字表現が愉しい、というレベルのものであり、読者はもっと高いレベルで愉しんでほしい。  最後に。陳舜臣は自身を「文狂」と称している。だが不肖の後進からすれば、李白が「詩仙」なら陳舜臣は「文仙」であろう。
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カント 美と倫理とのはざまで

評者:大澤真幸